「ハンコ」をなくすために、国や会社だけでなく、私たちの足元で身近なところから

新型コロナ対策を契機に、ハンコを見直す動きが広がっています。はんこ議連会長として知られる竹本IT相が「ハンコのために会社に行くと公共交通機関の中で密の状態が発生する。できるだけ省いた方がいい」と24日の会見で述べたのに続いて、27日には総理が経済財政諮問会議で脱「対面・紙・ハンコ」を指示、経団連の中西会長もハンコ文化は全くナンセンスとコメントしています。ここへきて急にはんこ見直しの機運が高まってきましたが、日本はe-Japan戦略以来はや20年近くも事務のIT化を目指してきたはずです。なぜ今日までハンコが温存されてきたのでしょうか。

政府はこれまで電子帳簿保存法 (1998年) 電子署名法・IT書面一括法 (2001年) 行政手続オンライン化法 (2002年) e-文書法 (2005年) デジタル手続法 (2019年)  と、紙の事務を電子化するための法律を、20年以上も継続的につくってきました。電子申請に対応した手続きも、着実に増えてきています。一方で昨日の経済財政諮問会議に民間委員が提出した緊急提言の参考資料を見ると、確かに大半の手続きが押印を要求しているようです。

新型コロナ対策で問題となっている、日々出社を求められる押印の多くは、いわゆる実印と印鑑証明を要する手続きではなく、企業であれば「角印」個人の場合は「三文判」と呼ばれるような簡易なものが多いのではないでしょうか。法律で義務付けられているというよりも、慣例的に使ってきた帳票の書式に捺印欄があったり、社内規定で押印することを規定しているために、とりあえず押しているケースが多いのが実情です。

社内手続きの大半は、規定や書式を見直すことによって、押印をなくすことができます。これらの規定や手続きを管理している会社の総務といった部門は必ずしも専門の法律知識を持っているとは限らず、「これまでこうやってきたから」という惰性で押印を温存しているケースもあるでしょう。これまでのやり方を変えることは、それ自体で仕事が増えてしまいますし、何となくこうしてきたことを、何故こうやっているのか考え直す必要があります。

規定や手続きを管理している管理部門が、変革には必ずしも積極的でないかも知れません。押印廃止をお願いする側が調べたり提案し、経営者の後押しがなければ前に進まない場合もあるでしょう。わたしが代表理事を務める団体でも新型コロナを受けて、理事会をオンライン開催にできないか事務局に検討してもらったのですが、規定で理事会の議事録に押印すると書かれているため、とりあえずこの規定を見直すために、一度は理事会で規定変更の決議を行って、議事録に押印する必要があることが分かりました。いちど規定を変えてさえしまえば、今後は議事録を持ち回っての押印せず、理事会を運営できるようになる見通しです。

このように、世の中であちこちに残っている押印は法律で規定されているというよりも、ひとつひとつの組織で引き継いできたルールの中で、ばらばらに規定されている事例が多いのです。これから政府のリーダーシップで押印を要する手続きが見直されたとしても、個々の会社でひとつひとつのルールを見直す、見直すべきと働きかけるべきは私たち自身です。この手のことは往々にして旧弊を改めることに苦労するのですが、誰もが新型コロナを怖がっていて、はんこ議連の会長をして「できるだけ省いた方がいい」と断言する現在は、積年の埃を払う千載一遇のチャンスです。

残念なことに社内手続きだけでなく、役所や企業の様々なところに押印の手続きが残っています。それらが単に変えられる内部規定や書式を惰性で使っているために残っているのか、法律や判例などの高い障壁といった理由があって残しているのか、ひとつひとつ潰し込み、押印を求める理由を問い、見直しを働きかけ続ける必要があります。

残念なことに月額支払いサービスの解約の敷居を上げるために、申し込みは電話やネットで簡単に受け付けても、解約に対しては書類への押印と郵送を求めるサービスもあります。こういった対応が今後も横行するようであれば、例えば米カリフォルニア州のように、オンラインで申し込んだサービスはオンラインで解約できるように法律をつくることも一案です。米国の経済紙Wall Street Journalデジタル版は解約が難しいことで有名ですが、住所をカリフォルニア州に設定すると、オンラインで解約申し込みのリンクが出現するそうです。はんこが残っている理由が「しょせんは民・民の話」であれば、米カリフォルニア州のように消費者保護に資する法律で改善できます。

いざ「はんこ」をデジタルで置き換えようとして悩ましいのは、何でどうやって置き換えるかです。しばしばデジタル署名が引き合いに出されますが、残念ながら「はんこ」よりも高額で普及していません。電子署名のサインや検証に対応しているソフトも、まだまだ少ないのが実情です。

紙の書式で「はんこ」に対応するのは、押印欄をつくるだけで可能ですが、Webサイトにデジタル署名を組み込むには、時に数千万円単位の費用を要します。実印+印鑑証明に相当する厳格な手続きでは認証局が厳格に管理したデジタル証明書を使うべきケースも残るとして、三文判を置き換えるために、そこまでの仕掛けは大げさです。

民事の契約は口約束でも十分に成立します。メッセンジャーで持ちかけて、返事に「いいね」がついていれば、口約束よりも強力な証拠となります。適切にID管理された会社のメールなどのクラウドサービスは、社内の手続きについて適切な証拠を残すには十分な機能を備えています。

もう10年近く前の話になりますがマイクロソフトに在籍中、出張申請は電子稟議システムではなく、電子メールに対して上司がApproved.と返事をするだけの簡単な方法でした。現在はOffice 365でもG Suiteでも、表計算と連動するワークフローを簡単に構築できます。「はんこ」を置き換えるために高価で複雑なシステムは必要ありません。内部統制として実績ある方法が、様々なかたちで提供されています。

もう少し難しいのは組織間の契約です。この分野では印紙税が不要になるということで契約書に高額な印紙が必要な建設業界が早くからEDIを導入していますが、まだ多くの業界で紙での契約が数多く残っているのが実情です。

ここ数年、使い勝手で定評ある電子契約サービスが出てきましたが、普及はこれからです。今のところ各社が提供するサービスに相互運用性がなく、立場の強い会社が取引先に導入を促せば一元管理できるものの、複数の企業グループと付き合いのある中小企業では契約書の管理がバラバラになってしまうといった課題があります。社内で使っているクラウドサービスで組織を超えてIDを相互乗り入れするケースも増えており、こうした基盤の上でワークフローを構築して証跡を残すケースも増えるでしょう。近く導入されるインボイス制度を機に、受発注をデジタル化する商流も増えてくるのではないでしょうか。

うまく業務が回っていて諍いが起こっていなければ、どんなやり方で契約を行っても問題は起こりません。証跡や証憑の証拠力が問われるのは、争いが起きたときです。法律や規定、手続きは粛々と整備すれば良いのですが、まだまだデジタルでの契約による判例が少なく、実際に裁判になってみなければ分からないことが、脱ハンコを進めていく上で最後の障壁として立ちはだかるのではないでしょうか。ここは鶏と卵で、実際に「脱ハンコ」を進めていく中で判例を積み重ねていく必要がありますし、前例や判例がない中でも「脱ハンコ」を推進していく過程で出てくる疑問に対して、所掌する府省や自治体は丁寧に応えることが求められるでしょう。

斯様に「脱ハンコ」は官邸だけで実現できることではなく、わたしたち自身が、持ち場でひとつひとつ今あるやり方を問い直して、もっと効率的な仕事のやり方を組み立てていくことを通じて、身近なところから前に進める必要があります。脱ハンコの最大の抵抗勢力は「ハンコ業界」ではなく、根拠や必要性を問い直さないまま、今までの仕事の進め方を惰性で続けて、仕事が増えることを望まない私たち自身です。

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