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わらしべ学

わらしべ長者の物語を読んだことはあるだろうか。
日本のおとぎ話で、古く平安時代末期に『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』に原話があると言う。

物語では、貧乏な主人公は観音様からのお告げにより、たまたま手に入れた一本の藁から富を築いていく。
この男は貧乏から脱出したい一心で、偶然出会った相手と物々交換をしていき、最終的に藁一本から豪邸を手に入れる。手に入れ方は死に物狂いという訳でなく、偶然に任せて取引を続けていくと、気づけば初めは考えもしなかったような財産を得ていた、というもの。

単なるラッキー話と読むこともできれば、"自分が持っているものを賢く活用する心構えのおかげで成功を手にした"と読むこともできる。
下克上物語というより、持たざる者が持てる者になるための教訓話と読めば、学ぶことも多い物語だ。

ここで問いが生まれる。
「もし自分が、この男と同じように貧乏人で、裸一貫から成功を目指さねばならないとしたら、やれるのか?」

現代日本は、すべて揃っているが希望だけがない。
村上龍の小説『希望の国のエクソダス』で、既存社会に意義を唱えた中学生が語るセリフだ。
確かに何一つ不足はないが、決定的な穴があって、その穴の生む空虚感に目の前の物質的安定はやすやすと飲み込まれてしまう。
そんな空気感のなかで、身体ひとつで何かを成し遂げてやろう、そんな気概を果たして持てるものだろうか。
できることはできる。だが、阿呆臭く感じてしまったり、周囲の目を気にして踏みとどまったり、目前の安定を捨てきれずにやめてしまったりするだろう。

だが、そんな社会だからこそ、生きることの本質を再検討しなくてはならない気がする。
所与の環境やこれまでの人生で築き上げた認知の枠組みを一度壊し去り、問い直し、より高次の教訓へと止揚しなければならない。
僕は、生まれてこの方自分自信を取り囲んできたものを再検討していく。何ができて何ができないのか、何が必要で、何が必要でないのか。生とは、死とは何か。
それは、一つひとつのピースを作り替える作業であり、"生を取り戻す"ことにつながる。

宇佐美海岸

この間、一つのピースを取り戻した。

週末訪れた観光地の熱海で、駅前の土産物売場にいた時のことだ。
網代の辺りにある間瀬という和菓子屋の甘味が良いらしいと聞いて、友人と品物を物色していた。
すると、歳は60代半ばだろうか、やや小柄でよく日に焼けた親父さんが声をかけてくる。
「やー、ここのはダメだ。熱海もダメになって云々…」
おお、きたか。そう思うと共に、昔働いていた浅草界隈の下町っ子の語り口を感じて無碍にできない感じがした。

それなりに話を聞きつつ相槌を打っていると、気づけば友人はどこかへ消えていた。あいつ、変な親父だと思って場を変えたな。
まぁ良い、話の一つや二つ聞いても悪いことはないと思い話を聞いた。この間熱海で起きた土砂崩れの話や、自分が植木職人であること、熱海周辺の温泉の質の話、など。
結局何を伝えたいとかはないのだろうし、語りとはそういうものだ。あの年代の職人らしく、ちょこちょこと肘周りに軽く触れながら話を続けていくその親父さんに、悪いものは感じなかった。

ふと話が終わった。電車の時刻なのだろうか、唐突に語りは終わりを告げ、親父さんは言う。
「あんたぐれぇわけぇんなら何でもできるわ、まぁこれで土産でも買っていけよ」
手に握られていた千円札を差し出してくれる。さっきまで語りながら掌中で弄ばれ、親指で押し込まれた皺がついている。
カラッとした別れだ。「体に気をつけられてくださいね」そう挨拶すると、日に焼けた顔をほんのりと上気させて、少し嬉しそうに笑いながら改札へと向かっていった。

いただいた千円札

時間にして5分ほどだ、何の気なしに人とつながり、思わぬ果実を得た。5分で1,000円なら時給12,000円の換算だが、効率や生産性の話でも、歳上を絶対に敬いなさいという話でもない。
ただ、目の前の人に対して、思惑なしに向き合う。そこで紡がれた感情や感覚が大事で、経済的なものや社会的なものは後からおまけのように付いてくる。
稼ぐために働くばかりが人間の能ではなく、邪気のない人への思いが人をつなぎ、報酬が降り注ぐ。

人は労働によってのみ生かされるのではない。

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