月に寄せて

私は月が好きです。月を見ると、落ち着いたり、神秘を感じたり、怖くなったり、幸せを感じたりします。

月ほど不思議な天体は無いかもしれません。自転周期と公転周期が同一の稀有な天体。地球から見ると太陽と月の大きさは同じ。毎日形を変え続け、地球のどこにいても見ることができる。

あまりの神秘さに、昔から月についてはいろいろな思いが語られてきたことと思います。私の月について好きな文章を、非常に偏っていはいるのですが、いくつか紹介したいと思います。

阿倍仲麻呂の歌

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

小倉百人一首の中では唯一日本国外で詠まれた歌です。拙訳を載せます。

天を仰ぎ見ると月が見える。この月は日本で見た、三笠の山から出ていた月と同じなのだろうか。

望郷の念が美しく伝わる歌です。月は世界のどこで見ても同じ輝きを持って人々にいろいろな念を送っているかのようです。私自身フランスにいて、今でこそ日本とフランスは極めて近いですが、やはり日本にいる人たちとおなじ月を見ているのだなあ、と思うことはあります。だからこそ、阿倍仲麻呂の歌は強く心に響くのです。

阿倍仲麻呂は19歳で唐に留学しました。そして、阿倍仲麻呂は強い望郷の念があって何度も日本への渡航を試みたにもかかわらず結局72歳でその生涯を閉じるまで日本に帰国することはできませんでした。それがどれほどつらかったことか、想像を絶するものがあります。なお、同じ意味の詩が五言絶句でも作られています。

翹首望東天
神馳奈良邊
三笠山頂上
思又皎月圓

さて、全く別の月の顔を見てみましょう。稲垣足穂の一千一秒物語より抜粋。

ポケットの中の月
 
ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころとどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

大好きです。一千一秒物語に出会ったのは私が高校二年生のときでした。本屋さんで目をつむって触った本を買う、というコンセプトで選んだ本です。これを読んだときの衝撃たるや!

とくにこの「ポケットの中の月」はよく覚えています。文学のシュルレアリスムであって、感情が無く、不自然な光景だけが広がっている。最高です。松村実氏の言葉で、一千一秒物語は次のように説明されています。

ここには人間的な温かさは全然感じられず、あらゆるものは無機物のレトルトによる金属性血液を注入されて、自由自在に飛び回っているのである。

この説明も最高です。まさにこれです。一千一秒物語は稲垣足穂が22歳の時に発表した作品で、70編ほどの超短編小説から成り立っています。そして、この後の作品は一千一秒物語の注釈にすぎない、と稲垣足穂自身が語っているほど重要な作品です。

その後の稲垣足穂の作品中でも、「黄漠奇聞」は私にとって非常に重要な作品なのですが、その中から身震いのした文章を紹介します。

 その前の宵のことである。王は弓やぐらの上に出て、折からあわただしく追ってくる夜のヴェールにおおわれようとする都の全景を、見渡していた。いましも砂に沈んだばかりの陽を受けて燃えたつ紅に染まっていた都は、束の間に黄色となり、まばたくうちに樺色、紫......夕ぞらを反映するバブルクンドはいつもながら見る人の胆を奪うけれど、この夕べはひとしおであった。こんな瞬時を王は酔ったように見守っていたが、やがて眼をそらして、西のかなたにひッかかっている三日月に気がついた。
「おまえの眉にも似ているではないか」
 王は、かたえにひかえた侍女をかえりみた。消え入りたげな媚を浮かべてイクタリオンが孔雀のうちわでかおをおおうた。このとたん、王のひとみに、かなたの尖塔の上にある旗じるしが映った。強い日光を受けて熱風のうちにきらめきひるがえっていた新月の吹きながしも、夕べがきて風が落ちると共に、あたかも射落とされた鷲のようにポールの先にぶら下がり、身もだえするようにときどき揺れているばかりである。そうして西空の新月は、これはいや増す爽やかな光を放って、なんと超然と冷やかに、黒いしおれたバブルクンドの旗じるしを見下ろしていることぞ!

月のもつ不気味さと神聖さをこれほどまでに文章だけで表されていることに驚愕します。私はこの文章に魅せられて「黄漠奇聞」全体を音楽劇にしました。その中から上記の部分の音楽を公開します。

様々な姿を見せる月ですが、私もその日の月を見るたびに、千変万化の感動を受けます。その月の神秘は永久に私を虜にするでしょう。

--ここから先の有料部分では、Act,2 Scene1の音源を公開しています--

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