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恐怖・後悔について

私は、幼い頃に突然、死の恐怖に襲われ苦しみ辛い思いをする、ということを何度も繰り返してきました。今でこそ頻度は減りましたが、やはり突然恐怖に襲われることがあります。

死の直前の自分を想像したとき、もう自分の人生に未来が無くて、記憶だけが自分の人生のほとんど全てになってしまう状況。日常を過ごすことが最後となり、身に着けた知識は全て失い、全ての思い出が回顧できなくなってしまう瞬間。今まで何百億人とその死の瞬間を迎えてきて、自分が何人ものその死の瞬間に立ち会ってきたとしても、自分の死はあまりにも特別なもののはずです。

しかし、死から逃れることができないとしても、死の恐怖からは逃れることができるかもしれません。死を自然に受け入れることができるようになるのであれば、死はむしろ恐ろしいだけのものではないかもしれません。また、死の恐怖に不必要に苦しめられることが無くなれば、むしろ人生はより豊かになるかもしれません。

そこで私は、死の恐怖とどう向き合うか、ということについて考えることが多くなりました。

自分の人生に誇りを持ち、自分の生命についてしっかりと思考を深め、その上で冷静に聡明に死を恐れないということが可能なのであれば、まさにそれが求めていることになります。

さて、その答えの一つとして、自分の命よりも大切なものを見つけること、というのがあり得ると思いました。小説や映画に誇りをもって命を散らしていく人たちは、国なり、子なり、伴侶なり、友なりを、自分より大切なものとして守るために死んでいきます。

私はまだその自分の生命よりも大切なものを見つけていません。いずれ見つかるのでしょうか。もしかしたら、人生の目的は、自分の生命よりも大切なものを見つけるためにあるのかもしれません。

さて、これは全うな方法で死の恐怖を克服する方法ですが、全うじゃない方法で恐怖から逃れることを考えてみましょう。

恐怖を感じないことで有名な女性がいます。

さて、とりあえず事実だけを抜き出すと、扁桃体が破壊される、ウルバッハ・ビーテ病という脳疾患によって恐怖を感じなくなった、ということですね。恐怖を感じないために、生命の危機に直面しても対応しない、などの現象もおきてしまうようです。

しかし、逆に考えれば、死の恐怖から克服する方法の一つになっています。もし医学と倫理が発展して、扁桃体を意図的に破壊し死の恐怖から逃れる方法が確立するかもしれません。

ここで大切なのは、扁桃体が破壊されても、破壊される前の自分との意識の連続性が担保されることです。自分が自分でありながら、死の恐怖だけがふっと消える、そんなのが理想なわけですね。

とはいえ、日常でも意識の連続性が怪しい場面って結構あって、今まで大好きだった人が一回の喧嘩で大嫌いになったり、今まで食べたくて仕方なかったカツ丼をラーメン食べたらもういらなくなったり、すごく晴れやかな気分で過ごしていたところに不快な事件が起きてどん底になったり、・・・

自分の気分次第で世界の色は変わり続けますし、同じ思考もできなくなりますし、記憶だってしばしば改ざんされます。ここに至って、意識の連続性にたいする確信というのは意外に難しいかもしれません。逆に言えば、多少考えや性格が変わってしまっても、ある程度の記憶や癖が保持されていれば、意識は連続だ、と思えるのかもしれません。

では、ここで一つ思考実験です。

死の恐怖を極端に感じる人が、死の恐怖を感じるだけの機能をもった器官を破壊することに、死と同じだけの恐怖を感じるか。

感じないような気もしますし、感じるような気もしますね。自分に当てはめて考えてみると、死と同じとまではいかなくても、やはり自分を失うような恐怖はかなり強いものとして受け入れられそうです。強力な薬物に手を出すときも同じような恐怖を感じると思います。

そして、実際に恐怖を感じない身体になってしまったら、自分がそれについてどう思うのか、後悔するのか、というのも思考実験として成り立つと思います。

死の恐怖はなくなったけど、死に対して恐怖を持っていた方が豊かな人生を送れた気がするなあ、私はもう普通に生きていくことができなくなってしまった・・・、などという後悔はしそうです。

恐怖という感覚がどこまでの思考を制御しているのかわからないので、こういう思考ができるのかどうかも不確かではありますが。

こんなことを考えているうちに、もともとの死の恐怖を忘れて、楽しい思考実験に夢中になっているのでした。

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