子育ての悩み:気長に見守ることと、問題を先送りすることは違う

 保育所に通っているときには全く見られなかった問題行動を、小学校に通うようになって起こすことが多くなった。保育所は良かった小学校はだめということが言いたいのではない。環境が変わって、他の子が当たり前に出来る適応を、息子は一所懸命やってたんだと思う。
 だから最初に適応できなかったのは親である私のほうだ。戸惑いながらも工夫して乗り越えようとする小さな息子を、大人の物差しで良い悪いを押しつけていたかもしれない。

 息子を信じて気長に見守っていこうと決めたきっかけは、何か一つの劇的な出来事があったからではない。いろんな本を読んだり人が教えてくれる話を聞いたり彼の言葉に耳を傾けたりしながら、少しずつ彼とぼくとの信頼関係を築いていけた。変化に時間がかかるのはいつも大人のほうであるという理解に至るまで時間がかかったが、私も息子の挑戦に寄り添うように適応できてきたつもりだ。つもりだった。

信じるということができなかった

 「まずは子供のことを信じて見守ってやらないとな」と気づいたとき、自分の中にあるもうひとつの事実にも気がついた。
「信じるってどうやるんだ?」
 はじめて気がついた。今まで他人を信じたということが無かったことに。これは何も他人は嘘ばかり信じられないとかそういうアウトサイダーな事を言っているのではない。他人を信じる信じないといった環境に置かれることがなかった、素晴らしい周りの人たちに私は囲まれていたというむしろ感謝のたまものの話である。しかしながら子育てのある段階になってはじめて気がついた。人を信じるってどうやってやるのかわからないことに。

子供の相手ができなかった

 50になる男がする話ではないのだが、大人と子供との区別をつけた対応が苦手だ。というよりもっと根本的なこととして人と他人との区別が付かない。自分に出来ることは当然他人も出来ると思ってしまうし、自分に出来ないことは他人にも出来ないから仕方が無い、自分が悲しいことをされたら相手に罰を与えても構わないなぜなら自分はこんなにも悲しいのだから相手も同じくらい悲しまなければならない、自分には少しそういう思考の癖があって普段から気をつけないといけないと思っている。自分と他人の違いがわからないのだから、当然他人が大人か子供かという違いに気づけるはずもなく、結果的に自分が出来て当然のことが子供が出来ないとものすごく焦ってしまう。その焦りの一部はあまりよくない反応として外に発露される場合もあるので、そのときは子供は居心地の悪い思いをする。
 大人と子供の区別が付かないので、子供の無邪気な態度が苦手だった。さすがに表に出して感情をあらわにすることは絶対にないが、子供の無邪気な態度と、大人の無礼な振る舞いと区別が付かないのだ。なので自分は絶対に子供に関わってはだめだと、子育てをするまでは避けてきていた。

子供が語りかけてくる意味を理解できなかった

 子供が語りかけてくる言葉を、ただの意味の無い音の並びだと思っていた。言葉を言葉通りの意味にしか受け取れない性質なので、逆向きに言えば意味が伝わりにくい幼児の言葉は意味として理解しにくい。しにくいというより理解できないにほぼ近い。語りかけに無視してはだめだということはさすがにわかっているので、適当に相づちをうっておく。考えてみれば子供との会話を本当の意味でしたことがなかったのかもしれない。

言葉に耳を傾け、会話し、信じようとした

 それはとても幸せなことかもしれない。常に周りが自分に対して誠実でいてくれるから、信じる信じないを感じることもなかったし、会話とは情報交換だとしか思っていないから、相手から情報を引き出す以上の意味を知らなかった。

 彼には時間が必要なんだと気がついたとき、彼を信じて時間をかけて彼の言葉に耳を傾け、会話しようと決めた。それは自分にとって興味深い、初めての経験だった。人生のデビュー。自分の世界の中だけで生きてきた自分が、はじめて外界に触れるきっかけだった。こんな自分にも、人間の真似が出来るのかもしれないと思った。

気長に見守ることと、問題を先送りすることは違う

 彼には時間が必要だ。それはわかる。すぐに結果を引き出そうとせずに、長い目で見てやらねばならない。何せまだ6歳なのだから。今すぐにはわからなくても、こうした失敗の積み重ねを通して少しずつ経験を積んでいき、いつか自分の能力として身につけることが出来る、大人に必要なのは、失敗は失敗と教えることと、リカバリーする勇気を与えること。理屈ではわかる。
 ただ、問題を先送りすることとの違いがわからない。6歳だから出来ない、ならばいつ?7歳ならできるのか?では仮に明日7歳になるとして今日を明日に先送りにする根拠は?なら8歳なら?9歳なら?今日を明日に先送りして、何歳まで先送りできる?99歳まで続ける?それは極端?なら98歳?97歳?10歳?9歳?8歳?7歳?明日?今?なぜ?いつ?わかる人には当たり前にわかることが、じぶんにはわからない。何をどう待てばいいのかわからない。

会話を続けようと思う

 相手の言葉以外の意味をくみ取るのが苦手である以上に、自分の言葉以外の意味をくみ取られるのが苦手だ。そうは言ってないことを、言った言葉以上に捉えられるのが何よりも一番嫌いだし怖い。子供なら言った以上のことはわからないでしょと思って話してみても、そうは言ってないことを言った以外で受け止められることがしばしば。子供なのだから言葉を完璧に理解する能力がないのは当たり前だが、言葉以外を受け止める能力は人間は早くから身につけるらしい。

 とはいえ、出来ない出来ないを主張していても前には進まないので、出来ることをやるしかない。すなわち会話をするしかない。毎朝、彼の登校に付き合っている。彼はいつも何か語りかけてくれるが、意味のある言葉だと思っていなかったので今までは適当に返事をしていた。ある日、彼が何を語りかけてくれているのか意味を理解してみようと思った。

「雲が綺麗だ」
「このまえ刈り取られていた雑草がもうあんなにも伸びている」
「ここにもセイヨウタンポポが。このままではセイヨウタンポポだらけになるかもしれない」
「クモの巣にかかった水玉をクモが飲んでいる」
「排水口から流れる雨水が滝のようだ」
「ここにはウシガエルが住んでいる」
「ここから後ろを振り向くとマンションが見える」

 驚いた。
 世界がこんなにも驚きに満ちていることに。
 そのことに気づかなかった僕と、気づいて語りかけていた彼に。

 子供を授かる前にはいくらか負い目があった。こんな人間未満の自分のもとに、親と頼って生まれてくる息子達に。それでも育児経験を経ていつしか負い目はなくなり、いっぱしの親である気持ちも定着しつつあった。負い目を感じながら育てられるより、そのほうが子供たちにとってもいい事のほうが多いから。
 でも、でも。
 子供の出来ないは問題ではない。だから問題解決を先送りしたことにはならない。出来ないを見守りたい。出来ないを子供と一緒に楽しめる大人になりたい。息子がそういう大人に育ってほしい。

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