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やらせてくれるのかどうか、それが問題だ

苦い匂いが鼻をつく。ああ、コーヒーの匂いか。
目が覚めると俺は薄暗い建物の中にいた。カーテンがひいてある窓と、オレンジのランプがぼんやりとあたりを照らしている。
俺は一瞬訳がわからなくなった。だって、俺は炎天下の中で死にかけてたはずだ。ひんやりと暗い店内には、夏っぽい門がどこにも無い。
俺はゆっくりと身体を起こす。頭は痛かったが、だいぶ気分はよくなっていた。
俺が寝かされていたのは茶色い革張りの長い椅子だった。木の椅子だがばかでかく、やけに凝った彫刻がしてある。
「起きたかい、お嬢さん」
声が聞こえて顔を向けると、見知らぬ女がいた。
「気分はどうだい」
俺は眉根を寄せた。なんだこいつ。変なしゃべり方する女だな。
長い黒髪、長い黒いスカート。女はこの場になじみすぎてて、なんか人形みたいだなと思った。デカい胸の部分にちょこんと乗っかってるほそいリボンを見て、おれは「あ」と言った。
「君が路地裏に倒れていたのを見つけてね。ここの店主にお願いして、ここまで運んで貰ったというわけだ。まあお茶でも飲み給え」
俺はゆっくり立ち上がり、ふらふらと女の方に歩み寄った。女は二人がけのテーブルに座り、俺を待っていた。ほかの客は店の角に陣取って新聞読んでるじーさんだけ。やたら凝った装飾の椅子に座るとき、おれは女が車椅子に乗っていることに気がついた。
俺はポケットに手を突っ込んだまま椅子にどかっと腰を下ろすと、机の上にあった水をぶんどる様に引き寄せて一気飲みした。女はピッチャーでグラスに水を注いだ。俺はそれを三回続けて一気飲みした。喉の渇きが癒えると、こんどは机の上に置いてあったサンドイッチに目が釘付けになった。
「もしおなかがすいているなら食べていいぞ」
「金がねえ」
「安心したまえ。私のおごりだ」
「マジ?」
「マジだ」
俺は女がそう言い終わるか言い終わらないかのうちに皿を自分に引き寄せ、サンドイッチを勢いよく口の中に詰め込んだ。世の中にこんなうめえもんがあったのかってくらい美味い。
腹が膨れて喉の渇きが癒えると、俺はだんだん冷静になり、目の前の女をまじまじと見た。
美しい女だった、綺麗とか、かわいいとかじゃ無く、美しいという形容詞が似合う。タレントみたいにちっさい顔。通った鼻筋の下には、形のよい小さな口がちょこんと乗っている。目もデカく、なによりとにかく胸が馬鹿みたいにでけぇ。
なんだ。この女めちゃくちゃエロいな。俺はだんだん言葉を失っていった。足が勝手にもぞもぞと動く。
「なあ」
女がティーカップごしに俺を見た。
「あんた、名前なんつうの」
「君は?」
「俺?」
「人に名前を聞くのなら、自分から名乗るのが礼儀だろう」
俺は口をへの字に曲げた。順番なんてどうでもいいだろ。
「おーら」
「おうら?名字か?どういう字を書くんだ?」
「口に色みてえな字。それに楽」
「ほお。下の名前は?」
「どうでもいいだろ。あんたの名前は?」
「ふむ。私の名前は――――」
おれは彼女の話をほとんど聞いていなかった。ピンク色で、つややかに濡れた唇。ベージュのレースに覆われた袖から出た二の腕は、プニプニと太く張りがある。おれは手を伸ばして、それに触りたい衝動を必死で抑えた。
「と書く」
「え?悪い。聞いてなかった。なんだっけ名前」
女は眉間にしわを寄せた。
「館林貴与だ」
「ふうん」
「君を路地裏で見つけたときは、死んでいるかと思ったが――――まぁ、大丈夫そうだな」
館林貴代が独り言のように、満足げにつぶやいた。俺は心の中で舌打ちする。余計なお節介だよ。でも、それで俺は急に思い出したことがあった。
「あんたさあ。もしかして、おれに水飲ませるとき――――」
俺はその続きの言葉が美味く言えなくなった。もし違ったらすげえ恥ずかしい。
しかし、館林貴与はあっさりと言った。
「ああ、口うつしで飲ませた」
マジかよ。口の端からぼたぼた水が垂れるものだからな、という声を俺は遠くに聞いていた。
彼女の口が俺の口に触れたらしい。彼女の中のもんが俺の中に流れ込んでたらしい。なのにおれはほとんどそれを覚えていない。俺は呻いた。惜しい。惜しすぎる。俺は混乱して、机の上にある容器をカチャカチャと開け閉めしたあと、スプーン2杯分の砂糖をカップの中にばさりと入れた。
女はおれをちらりと見た後、自分は無糖のミルクティーをあおった。白い首筋に浮かぶ喉仏が嚥下のリズムに合わせて上下する。そしてコップを戻してふぅーと息を吐く。化粧気は無いが美しく潤った唇から、満足そうな吐息が漏れるのを見て、俺はずくっと下半身に来るもんがあった。
「どうした」
そう言って彼女は俺をのぞき込む。わざとか?マジでやめろ。下からのぞき込むようにすると、テーブルに乗ったブラウスの隙間がぱかっと空いて、また下着が見えた。水色の無地の下着。何かが俺の中で弾けた。
「なあ」
「なんだ」
「ヤらせて」
館林貴与は黙った。たっぷり一〇秒ぐらい黙った。そしてその間、じっと俺を見た。真っ黒な瞳。きりりとしたまっすぐの眉。沈黙が重くのしかかった。もうやめろ、今のなし、キモいよな。女同士だもんな。と俺が情けない弁解の言葉を並べそうになった時、彼女が口を開いた。
「それは君」
彼女は咳払いをしてから言った。
「いかにも性急じゃないか」
「は?」
「そういうことはきちんと手順を踏んでからするものだと理解しているが。違うのかね」
「知らねえけど」
おれは混乱して、間抜けにもまた同じ質問をしてしまった。
「つまり、やらせてくれんの?」
「無理だ」
そのきっぱりとした物言いに、おれは冷や水をかけられたみたいな気がした。絶望とすこしの安堵が同時に来る。そんでそのあと急に恥ずかしくなってべらべらと喋った。
「なんだよ。ならさっさとそう言えよ。こんな男の格好してる女なんてクソ気持ち悪いってわかってるからいいんだよ」
すると、女は目を見開き、眉根を寄せ、射るような視線で俺を見た。
「邑楽君」
「なんだよ」
女の声の今までに無い重々しさに、俺はちょっと身体を引いた。
「わざと自分を傷つけるような言葉を使うなよ」
おれはあっけにとられた。今自分を拒否して俺を傷つけた女が、自分を傷つけるなとのたまう。
俺はふつふつと怒りが湧いた。こういう奴は自分のことをホントに良い人間だって思ってんだろうなあ。人を傷つけながら、それでも自分はすばらしい、よくやってるって思ってんだ。こいつなんて車椅子に乗ってんのにこんないい服着て。きっと家が大金持ちで、働かなくても済むんだろ。
おれはマジでイライラしてきた。貧乏揺すりが高じて、椅子の脚をがんがん蹴る。そんで逆恨みってわかってるけど言った。
「ふざけんなよ。あんたは俺のこと拒否しただろ。それで余計なこと言ってんじゃねえよ」
「拒否などしていない」
「しただろ。俺とセックスすんのは無理だって言ったろ」
「無理とは言ってない」
おれの貧乏揺すりはピタリと止まった。周りはしんとした。空気も観葉植物も紅茶のカップもすべてが耳をそばだてているような感覚に陥る。
「何?じゃやらしてくれんの?」
「言ったろう。それは性急だと。私はきみの名前さえ知らない」
「じゃ名前言ったらいいのかよ。てかセイキューって何だよ。レシートかよ」
「そうじゃない。性急とは、事を急ぎすぎているという事だよ」
「つまり体よく断ってるだけじゃねえか」
「君がそう思うならそうかも知れない。だが、私からはそうではない、と言っておこう」
俺の頭ん中はクエスチョンマークで一杯になった。目の前の女はすました顔で紅茶を飲んでいる。おれはさっきから顔の前ににんじんをぶら下げられた馬みたいに右往左往してる。おれは頭を抱えながら机の上に突っ伏した。
「なあ。じゃ俺があんたの質問に全部ゆっくり答えたら、やらせてくれるってこと?」
女はゆっくり、わざとだろっていうくらいゆっくりお茶を飲み干した。俺は女の持ち上げたソーサーの裏を何度も読んだ。そして、女は机の上にカップとソーサーを置いてから言った。
「ああ」

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