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神道について(2)~いろいろな神道教説

前々回の投稿「キリスト教は仏教と違って、なぜ日本で「はやらない」のか」において、日本に入ってきた仏教(実際には儒・釈・道の三教合一の仏教)が、神道と習合した話を書きました。この習合(神仏習合)については次の投稿でご案内しようと思っています。今回は独自の主張(=教義)を作った神道をいくつかご紹介します。

(1)伊勢神道

・伊勢神宮の起源はあまり確かではないようです。
・内宮に関して言えば、古事記では崇神天皇(10)の皇女である「豊鉏入日売命(とよきいりひめのみこと)」と垂仁天皇(11)の皇女である「倭比売命(やまとひめのみこと)」が伊勢大神宮に仕えたとの記載が最初です。日本書紀ではもう少し詳しくて、崇神天皇(10)が皇女「豊鍬入姫命」に命じて、宮中に祀られていた天照大神(実際には御霊を表わす「鏡」)を大和国の笠縫邑に祀らせたとある。そして次の垂仁天皇(11)の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女が倭姫命が各地を巡行し、最終的に伊勢国に辿りついて、そこに天照大神を祀ったとあります。この時にすでに外宮があったどうかはわかりません。外宮は既にローカル神社として存在していたが、ヤマト政権の進出で今のような形になっていたのかもしれません。
・とにかくその後の律令制度上では、内宮の方が1つ格上扱いされていた。簡単に言えば、豊受大神(外宮)は天照大神(内宮)の食事係であるというもの(実は私も子供の頃は両親からそう聞いていました)。そんな上から目線の内宮に対抗するために、外宮側(度会氏)が鎌倉時代あたりに理論武装したのが伊勢神道の始まりと言われています。
・それまでにも両部神道(いわゆる神仏習合の一種で特に真言宗と習合した本地垂迹説と見ればよい)や山王神道(これは天台宗との習合による本地垂迹説)はあったが、本地垂迹説では神道が仏教に乗っ取られたようなもので、神道側からすると面白くなかったことから、反本地垂迹説的な考えから生まれてきたとされる。
・問題は「神道五部書」という経典。これが偽書(つまり布教のためのでっち上げ)か否かで大きな論争が江戸時代にあって、現在の通説では偽書扱いされています。ちなみに、その神道五部書は以下の5つの書物からなります。主旨は現状の2社(外宮・内宮)がなぜそこにあって、祀られているのかを歴史的に説明するものです。
① 『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
外宮・内宮がこの地に鎮座するまでのいきさつと祭祀の起源を示す。特に豊受大神(外宮の主祭神)については日本書紀以上の詳細が書かれている。(正史ではないことになるので外宮の格上げ画策疑惑から逃れられない)
② 『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
上記の御鎮座次第記よりも詳細。猿田彦大神の働きなども詳述。
③ 『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
天地開闢から伊勢鎮座までの経緯や、天照大神から豊受大神への託宣として、様々なモノの説明をしている。
④ 『倭姫命世記』
崇神・垂仁天皇あたりの事跡を記載
⑤ 『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
社に関する記述が中心

・この神道五部書が何を言っているかというと、その記述は日本書紀に矛盾しないようにしていますが、
1)国常立尊が最初に生まれた時に、同時に天御中主神が生まれたが、実は両者は同体異名である。
2)国常立尊側は日本書紀通りに天照大神につながっている(表の系譜)が、天御中主神はその後別の同名異体の豊受大神として、裏の世界で天照大神と「幽契」を結んだ。
3)(「幽契」というだけで大変怪しいのですが)天孫降臨のイベント以降、表の世界と裏の世界をそれぞれが担当して、表は天皇が統治する世界(便宜上「此岸」と呼びます)で、裏は神が統治する世界(同「彼岸」)に分離しようというもの。そして彼岸の担当の豊受大神が此岸の外宮に降り、此岸では内宮に天照大神が降ったというストーリーです。わかりにくいと思うので図を作成しました。
4)「神と天皇」「外宮・内宮」という複雑な二元構造に見えるが、実はすべては一体であり、それを体現させるのが神道の根本であるという話。

伊勢神道(筆者作成)

(2)吉田神道

・吉田神道は元々は平安時代中期頃の神祇官の役人であった卜部氏に伝わる伝承を元に作られたという話もあるが、実質は室町時代の吉田兼倶(吉田神社神職で卜部氏の嫡流)が当時のいろいろな思想を集成して作成した物と言われてる。その中の主な経典は卜部兼延の「唯一神道名法要集」と言われているが、これも吉田兼俱の偽作との説が強い。偽作が多い(^^;)
・吉田兼倶は、それまでの思想の域を出なかった伊勢神道などと違って、理論体系を構築し、その中で吉田神社を中心とした神道の統一を目指し、祭祀や儀式などを統一したことで、宗教として仏教からの独立を目指した。当然ながら、伊勢神宮からは神敵とされ、彼自身も毀誉褒貶の多い人物であったと思われる。いわゆる豪腕なやり手。
・吉田神道は、前述の伊勢神道と似たような構造を持っていて、天孫降臨イベントから表の世界と裏の世界が明確に分かれたという前提だが、伊勢神道以上に明確に分離し、表の世界は天照大神⇒天皇系列が担当し、裏の世界は天児屋命(卜部家の祖先)⇒吉田家が担当するという風に書き換えた。もちろん全く根拠がない話ではありません。日本書紀の神代下一書第二には、高皇産霊神が国譲りの際の条件として大己貴神に「現世の政治のことは皇孫が致しましょう。あなたは幽界の神事を受け持ってください」とあり、またその後ろには高皇産霊神が大物主神(=大国主神:諸説あります(^^;))との話の中で「天児屋命は神事の元締めの役である。それに太占の卜を役目と仕えさせた。(中略)天児屋命・太玉命は、天津神籬をもって葦原中国に降り、皇孫のためにつつしみ祀りなさい」と命じている。これらの記述を根拠として、天皇が治める部分の「顕露教(表の世界)」と吉田家が治める部分の「隠幽教(裏の世界)」と定義した。

・前述の「唯一神道名法要集」は、これまでの神道を「本迹縁起神道」と「両部習合神道」に分け(どちらも神仏習合論の1つ)、吉田神道はどちらでもない新しい「元本宗源神道」と分類し(仏教からの独立を主張)、吉田神道こそが天児屋命から伝えられた正統な神道であるとする主張している。
・更に吉田神道では神として新たに根元神(混沌から天地創造に先立つ神)を存在を国常立尊とした。これは一神教の神のような形而上学的存在を意識していると思われるが、神道としてはここまで踏み込むのは初めて。もちろん宗教理論としては吉田兼俱の発明でもなんでもなく、ありがちな枠組み。つまり国常立尊を形而上学的存在、つまりキリスト教で言う創造主(=ゴッド)とし、それ以降の日本書紀の神々をその下の存在(恐らく分神みたいない存在)として全体の整合性を取っている。当然ながら関係者以外からは空理空論・牽強付会と非難囂囂です。
・これも図を作成してみました。

(3)垂加神道

垂加神道は正直なところ、話がブッ飛んでいてよく分かりません(^^;)。
以下、その前提でおつきあいください。
・垂加神道の創始者である山崎闇斎については以前ご紹介しましたので割愛します。垂加神道は朱子学と(日本の)現実との矛盾の解決を追求する時に、朱子学を日本流に改めようとしたものとして紹介しました。因みに浅見絅斎は同じ問題を解決するのに現実の方を改めようとして「靖献遺言」を著わしました。
・山崎闇斎は吉田神道の系譜をひく吉川惟足から吉田神道を学んでおり、垂加神道は簡単に言えば朱子学と吉田神道を融合させたものと言えます。山崎闇斎は滅茶滅茶厳しい超道徳的朱子学者だったこともあり、闇斎は儒教と神道は違うと言い張っていたようですが、どうみても(朱子学的な)道徳性の強い神道という感じです。江戸時代の官学が朱子学だったということもあって徳川吉宗あたりまではかなりポピュラーであったとのこと。
・教説は意味不明な部分が多いが、コアな思想は「すべての物は土から生じ、土が締まることで物が形作られ、土を締める役割をするのが金である」(土金(どこん)の伝授)ということ。土を締める金の力を金気と呼びます。人間も土であるが、人間の締める金に相当するのが朱子学の「敬」(闇斎が最も重視したもの)で、この「敬」も既に神道の中にあったものであるという話。
・中国の儒教では親子関係が最重要であるが、闇斎の朱子学の最も根源的なのは君臣関係で、例えば「拘幽操」を絶対視していて、君臣関係は天地が始まった時に最初に生じたものと考えていること。この段階でオリジナルの儒教とは言えなくなっていたと思う。それはともかく、臣下の最も重要な道である「敬」を最重要視していたということになる。
・また、理気二元論の朱子学では「心」を「性(心の理の側面)」と「情(心の気の側面)」に分け、心を性の状態に近づけることが求められている。その為の心のあり方が神を迎える祭主のあり方と対応するということ。
※理気二元論や敬については以前の下記投稿をご参照ください。

・更に、皇祖(天照大神)から天皇への皇統は道であり、猿田彦大神はその道を先導する神と位置づけ、天照大神は生まれながら道を知る存在(生知安行の聖人)である。(3つの)神勅の実践において、我々は猿田彦大神から皇統の道を学ぶ実践する努力(≒敬)が必要であると説く。このことを「君臣合体、中を守るの道」と表現している。
・書いている私に確信がないので、拙文を読んでおられる方がいらっしゃれば、恐らく「???」だと思うので、あえて大胆に私なりの理解で整理すると、

1)この世の構造は吉田神道と似ていて、この世の根元神は天御中主神(国常立尊と異名同体)である。この神が土を回転運動させて凝集させている。その中心にいるのが国常立尊で表の世界を治めている。その意味では天御中主神は表と裏の両方を治めている。この両者の関係が君臣関係でそれこそがこの世の本質である。朱子学的には「理」の世界とでも言える。
2)日本に当てはめると、自凝(おのころ)島が土金の凝縮であり中心は伊邪那岐/伊邪那美が建てた御柱。ここから連綿と続くのが国常立尊からの天皇の系譜であり、周囲にはそれを支える臣民がいる。これが具体的な君臣の義である。そして天照大神から仕掛けた天孫降臨から時が動き出し、世界は回転している。
3)天照大神を頂点とする日本の国のヒエラルキーは、君臣の義の道徳の実現目指している。

・このように朱子学と混じった垂加神道には朱子学同様の教えがありますが、実はこれらは秘伝扱い。教典は「日本書紀」と「中臣祓」というものであるが、本居宣長にかかれば「すべて好事家の作り事。仏教・儒教にへつらったものにすぎない」とバッサリ。

(4)復古神道

・垂加神道の儒教臭さに反発を感じ始めた人たちが、仏教や儒教など外来の宗教を排除した古代日本人の作為なき自然な心情こそが日本人の本来あるべき姿だとして、古道説を唱え始めました。朱子学は(特に山崎闇斎は極端でしたが)やたら道徳道徳とうるさく、それ以外のものは価値がないかの如くで、人情や欲望は否定されていました。しかしそもそも偉そうに言うが、本家の中国は昔から今に至るまでグチャグチャではないかとの反発もありました。
・そんな中に現れたのが賀茂真淵。彼は逆に私的な人情や欲望に人間の本質を見い出そうと考えました。彼らが着目したのが「万葉集」などの勅撰和歌集。和歌は天皇から庶民までのすべての人が心情を表現するものと考えた。特に万葉集では身分の高低や貧富の差は関係なく、歌に込められた思いが価値であるような、平等な世界。彼らはそこに他国からの影響を受けない日本の治世の本来の在り方を見い出した。それが「やまとごころ」であり、影響を与えている海外思想が「漢意(からごころ)」である。
・古代日本にはうるさい仁義礼智などなくても、世の中は治まっていたではないかという。万葉集を見ればわかるでしょと。万葉集の中にある「高く直き心」(素朴でおおらかな精神、内心の欲望を素直にストレートに発動させる)に振舞う時、それを受け取る最低限の社会システムがあれば、小難しい理屈など不要というもの。
人間の本質は内心の思いにある。時には危うい私情を内面に持つ人間の思いを尊重しつつも秩序を保っていくのが神の道という訳である。この考えが本居宣長以降に引き継がれ、復古神道につながっていく。
・本居宣長の「物のあはれ」は、何かの動きに心が反応することであって、そこで発せられる嘆息が和歌である。朱子学では心の静止状態(=朱子学の「性」)が本来の有り様であるが、国学では全く逆で揺れ動く心(=朱子学の「情」)が人間の本質であり、それを表わすのが和歌であるという訳である。儒教や仏教などの「説明可能な智」を妄説とし、儒教・仏教以前に既に道はあったが言葉で説明する必要はなかった(實[まこと]は道あるが故に道てふ言[こと]なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり)。
和歌以外でも表現する方法はある。それが源氏物語であった。移ろいゆく物事を通じて真理に出会う。それは時間の移ろいではあるが、物語を通じて自分の頭の中で感じることが出来る。
更に本居宣長は言う。死後どうなるのかなんて人智ではわからない。死ねば黄泉国にいくだけ。それが悲しければ泣く(=最大のあはれ)のみである。神道とはそんなものというのが本居宣長の話。さすがにこれでは救いがないので、続く平田篤胤はとうとう形而上学を持ち出した。

・平田篤胤は造化三神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)を世界の根本意志として、伊邪那岐・伊邪那美はその命令で国造りを行い、天照大神・須佐之男命から天皇にこの命令が引き継がれたと考える。その後は吉田神道とはそう大きくは変わらない。須佐之男命から大国主命も系統が裏の世界(幽冥界)を、天照大神から天皇の系統を表の世界(顕明界)を統括する。幽冥界もじつは此岸(この世)にあるが、顕明界からは見えない。そしてこの幽冥界こそが本来の住む場所であるという。これはキリスト教とほぼ同じでしょう。
こうしてついには形而上学的なものを持ち出して神道の独自性を出そうとしたが、続くことはなかった。神仏習合したものが平安時代から江戸時代を通じ、明治元年に神仏判然令が出るまで続いた。次稿では神仏が習合したり分離したりする話をご案内します。