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神仏分離あるいは廃仏毀釈

前々回の「神道について(2)~いろいろな神道教説」の最後の復古神道のところで賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤など、「仏教や儒教など外来の宗教を排除した古代日本人の作為なき自然な心情こそが日本人の本来あるべき姿」として、それを求める人達の流れを紹介しましたが、それが神仏分離・廃仏毀釈が急激に進んだことの底流にあったと思われます。すでに水戸藩、岡山藩、会津藩なのでは廃仏意識が強まり、一部では寺院の整理が行われていたようです。

寺請制度が始まると、それを奇貨とした僧侶たちは次第に民衆からの収奪を始め、宗判権を盾にした勢力拡大、そしてお決まりの華美で退廃した堕落のコースに突入してしまいました。

■神仏分離令

神仏分離令と呼ばれるものは1968年3月に相次いで出された太政官布告や神祇官通達の総称であり、基本的には、

  1. 某(なんとか)権現、牛頭天王、その他外仏語で神号を唱える神社は由緒を提出すること

  2. 仏像を御神体としている神社はそれを改め、仏教的要素は排除すること
    というようなことであって、決して「破壊しろ」とは書かれていませんでした。しかし、長年に亘って僧よりも低い地位で虐げられてきた神職たちがここぞとばかりに恨みを晴らそうと派手に廃仏毀釈を実行したようです。

■廃仏毀釈の具体例

あの興福寺でさえ、金属部分を取るために二束三文で売られ、あわや燃やされそうになっていました。しかし近隣からの反対に遭いやむなく中止になった。そして近隣の人々が中止を求めたその理由が「類焼を恐れたから」と言うのですから驚きです。

因みに「廃仏毀釈」(畑中章宏著:ちくま新書)から抜き出した事例のいくつかを表にしてみました。他にもたくさん書かれているので、著作を参照下さい。

廃仏毀釈の例①(畑中章宏著「廃仏毀釈」より筆者作成)
廃仏毀釈の例②(畑中章宏著「廃仏毀釈」より筆者作成)

■廃仏毀釈とは結局何だったのか?

・明示政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針の実現を目指して、それまで行われてきた神仏習合を禁止するためにこの政策を実施した。平田派の影響と言われている。
・明治政府の意図はあくまでも「判然」であったが、積年の恨みもあって破壊活動が行われてしまった。
・一方、地域によっては廃絶されていない場所もそれなりに多くありました。
・打撃を受けたのは素性が明確ではなかった○○権現や牛頭大王など山岳信仰系で、ほとんどが神社に変更させれた。特に修験道は廃止、牛頭大王のほとんどが須佐之男に変更されてしまった(例:八坂神社、広峯神社、津島神社、杭全神社など)
・日本の伝統的習俗や行動様式を唐突かつ乱暴に変革するもので、日本人の心にカオスを生んでしまったのは間違いないでしょう。今の日本人の心の混乱の原因の1つだと思ってます。