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共同体と個人~スマートシティ街づくりの例で

■「街づくり」の本質

・私は以前スマートスマートシティ作りに関わったことがあります。その時に一番悩ましかったのは「街」って具体的に誰だ?誰の意志か?ということです。つまりオーナーシップはどこにあるのか?と表現した方が分かりやすいかもしれません。
・デベロッパーは、販売したら原則終了です。住宅が分譲である場合は各住民が「街」のオーナーシップを持たざるを得ません。商業施設がある場合、各商業施設も同様です。多くの様々な人がオーナーシップを持っているので、「街をどう盛り上げよう」みたいな方向性に関しては、百家争鳴か逆に無言になりがちです。運用や実践にはコストもかかりますので簡単ではありません。

・マンションの管理組合にも似ています。基本的に「個人的にはカネも時間を割きたくないし、揉めたら面倒なので、価値が下がらないように皆さんで上手くやって」というのがホンネだろうと思います。皆がそんな考えだったら上手くは行きません。スマートシティはいつの間にか「建物が並んでいるだけ」になり、誰が住んでいるのかなんて関心の外という訳です。

・「生き生きした街」というとどういう状態でしょうか。やはり、「住んでいる人」「働いている人」「訪れる人」が交流している姿、ほっておけば老朽化し自然と活気を失う街をある方向に向けて住民や事業者が一丸となって維持・発展させていく姿が理想でしょう。
・そうなると、最近ではご法度化してますが、個人情報の共有も重要で、顔と名前が一致することはもちろん、家族構成、職業、飲食や生活に関する嗜好、特技、経歴など、深く共有できている程、交流が進むというものです。
・かつてジェーン・ジェイコブズは著名な著作「アメリカ大都市の死と生」で、理想的な人間関係として「鍵を預けられる人」と語っています。預けられた人は、鍵管理者としての責任感のみを持ち、依頼人のプライバシーに立ち入らないと言う意味です。更に信頼関係の醸成は、ささやかものでも「ふれあい」の連続が醸成するとも語っています。


「アメリカ大都市の死と生」(ジェーン・ジェイコブズ)

・街も共同体です。それも、それまでまったくの赤の他人であった人々が突然集って出来上がる共同体。歴史も価値観も共有されていない人々の集まり。スマートシティというのはこんなゼロから立ち上がるものでした。そんなところでは本質的なものがよく見えます。
・共同体の本質は①一人称のストーリー(目標、大義)、②リーダーシップ(目標へメンバーを導く人)、③お金(運転資金)というのが実感です。どれが欠けても成り立ちませんが、逆にこれら以外はまあ何とかなるかなあという感じです。以下、少々本題からは反れますが、少し詳細を眺めてみましょう。

①一人称のストーリー:

「街」という言葉が主語になるストーリー。「街」がどうなっていくのか、具体的にどういう指標・見かけの変化があるのか、価値はどこにあるのか、と言ったあたりです。「街」を実際に構成するステークホルダーがまとまれる御旗です。通常、最初はデベロッパーが作成することになるでしょうが、街が完成したら住民や事業者に移管されます。
街は何十年続きます。住民や事業者が代替わりする中で、そんなストーリーを維持していくのは大変です。小さな街ならば、契約で縛ることもあり得るかも知れませんが、そうなるとなかなか売りにくくはなりますし、破ったからといって「追放」まで出来るかどうかは難しいでしょう。

②リーダーシップ:

共益費やタウンマネジメント費のようなお金を扱うなら法人の設立が必要です。また、リーダーシップグループがいなければ、多種多様な人々を1つの方向に導くのは難しいでしょう。
リーダーシップは階層構造になるでしょうが、上に行くほど街への時間的コミットメントは多くなり、意思決定からは私利私欲や個人的な事情は排除されなければなりません。かと言って、リーダーには金銭的見返りはほぼない状態でそんなリーダーシップに参加してくれる人を探すは難しいですが、住民・事業者の中から賛同してくれる人が増えてくればくるほど、多くの人が支援してくれるのは間違いありません。

③お金:

・これは言わずもがなですが、活動にはある程度お金はかかります。住民・事業者から運営費を徴収する、バザーの売上、サービス事業売上など、いろいろな手を考える必要があります。スマートタウンではいろいろなサービス(住民向け、事業者向け、訪問者向け)が検討されていますが、エネルギー回り以外は、うまく行っている事例は少ないのではないでしょうか。なので誰かの持ち出しになります。デベロッパーが広告宣伝費と割り切って運営に参画を続けているかも知れませんね。
・このお金は「資本蓄積」の為の物ではありません。運用のための最小限のレベルです。

世にあるスマートシティ計画、特にお役所の計画、住む予定のない人の作った計画はこの部分が空白なので、あまりうまく行かないかも知れませんね。

また、このような共同体が上手く作って運用できれば、街が再生出来る可能性は高いですし、超拡大解釈すれば、考え方としては日本の再生にもつながっていくのではないかとも(^^;)

■共同体の必要性:

・新自由主義が喧伝され共同体が崩壊の危機に瀕しています。個々の人間はプレーヤ―として社会生活を営んでいます。動物のように家族という枠だけでなく、複数の家族が集まって「社会」を構成することで、種としての生き延びる確率、繁栄する確率を上げれたように思います。共同体を無くすことは動物のレベルに下がることを意味します。残念ながら共同体を営む限りは、「個人」が犠牲になることは、ある程度までは仕方のないことです。この理解が重要です。

・以前の投稿でご紹介した通り、公共財までも囲い込んで希少性を創出し、資本家は資本蓄積を進めてきましたが、そんな資本主義の名目での「搾取」が限界を迎えているようです。これからは公共財はコモンズとして、それらをどう運営していくのかが課題になるかも知れません。その時は「(共同体の)モラル」が鍵になるでしょう。

・共同体が与えるのは身体的な守りだけではありません。その共同体の中の共有価値は善悪の基準を与えてくれます。以前、西洋はニーチェによって共有価値が破壊されてしまったと説明しましたが、その影響が未だに続いています。論理や理性では新しい価値体系が出来上がらないのです。日本も明治維新やGHQによるWGIPで過去の価値観が砕かれました。そんな絶対的な下記基準はほぼ破壊されていますが、保守主義は新しい価値基準を提案しています。それは慣習・伝統で、何世代もの間数多くの人を目や頭を通してきたものです。「古臭い」のではなく、「古いから重要」なのです。

人々の心が変わらないとこのような変化は起きないでしょう。何か大きな事件と世代交代が必要かも知れません。