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悪魔の子供たち③

 3 悪と聖と

 何とか遅刻だけは回避できた俺たちは、いつも通りの変わらない一日を過ごしていた。俺はただただ怠惰に授業を受け続けた。机に突っ伏し、時には頬杖を突き、姿勢を正すことなく、緩慢した鼓膜と半分しか光が届いていない網膜とで適当に授業内容を見聞きし、頻繁に欠伸をした。休み時間には男女問わずちょっかいをかけられた。「今度はどんな記事書くの?」という質問から「宿題のノート見せてあげようか」という施しまで、クラスのみんなは色々と俺を気にしてくれる。「とっつきやすい」と言われたことがあるのだが、ハルはそれを「珍獣扱い」と訳していた。
 そしてようやくの昼休み。俺とハルは弁当を持って部室に急いだ。記事にしようとしたネタが立て続けに却下されたせいで(当局による検閲のせいで)、二週に一度学内に掲示する予定の新聞が何も進展していない状態で立ち往生しているのだ。
 部室とは名ばかりの資料置場。資料置場兼新聞部部室。棚の中も棚の中でなくても備品と書類でごった返している散らかった部室のど真ん中に据え置かれた散らかったテーブルで、俺とハルは弁当をつつきながら話し合っていた。
「冷凍食品に次ぐ冷凍食品! 電子レンジの過重労働! そして母親は不動! これが人類の到達した境地よナツ!」
 ハルは親を非難しながら親の仇のように冷食を口に放り込んでいた。
「まあ、安直に運動部の試合の経過を載せるか、今年新しく入ってきた先生の紹介でもやるか、どっちかかなあ……。でも冷凍食品って滅茶苦茶おいしいでしょ?」
 オニギリを頬張りながら俺は真理を諭した。
「滅茶苦茶おいしいわね。お母さんには永遠に働かないでほしいわ」
 ハルは食いながら本心を叫んだ。実のところ文句など一切無いのに毒を吐くのがハルなのだ。
「ほら、自分が作るよりもおいしいでしょ……という声なき主張こそが我が母の隠し味なんでしょうけどね。ナツはどちらがいいですか?」
 これは冷食の是非についての問いではなく、記事についてだと思った。
「どっちも嫌。テストの山張りがいい。あれ評判良かったじゃん」
「先生方には恨みを買うことになったわけですけど」
「ハルの予想が的中し過ぎてテスト作り直したって話だからね。だからこそやるべきなんじゃないの? 学生諸子の役に立ってるわけじゃん」
「一面をテストの山張りにした場合、いつもあなたは不動だったわよね? 今朝の我が母のように」
 お見通しの小悪魔的な視線が俺を射抜く。藪蛇だったか。
「今も完全に私任せにして自分が楽できる企画を通そうとしたということでしょう。しかも生徒の為みたいな発言を交えつつ」
 取り敢えず視線を逸らす俺。
「うっせーな。じゃあどうすんだよ。どうせ怒られるなら、いっそいじめ事件か虐待事件でも取材して記事にします?」
 唇を突き出しながら俺は言った。言ったはいいが、記事にするつもりなど毛頭なかった。だが……、
「そうですね。記事にすることで最も職員室が慌ただしくなるのは間違いなくその二つのネタでしょうね。だったらやるべきですね」
 相変わらず判断基準がおかしい女だ。しかもそれを本人が気にしていないときた。目を見ればわかる。
「あのね、ハルさんよ。被害者及び加害者の心情を察すると、検閲があってもなくても結局は手出しできないでしょ、その二つは」
「随分とお優しいんですね」
「随分とお優しいんですよ。お前以外には。お前以外の女子には比較的優しいし、可能な範囲内で優しさを見せつけては得点を稼いでいる。だがお前に俺の優しさを見せることはない。なぜなら俺はお前を蔑視しているからだ。ハッキリとお前を差別している。言うなればハル差別だ、ハル差別」
「春キャベツみたいね」
 騒ぎ立てる男の顔など一瞥もくれずに、一定のリズムで弁当を食しながらどうでもよろしいことの感想を述べるハルは、人類未踏の境地に達した女だと思った。
 思いっきり侮蔑してやったつもりがまるで届いていない。発言内容よりもそんな下らないことに注目してしまうとは。
 柔らかい春キャベツはお前の脳みそのようだね。
 ……という俺の心内語を見切っているような眼力でハルが俺を見据えてきたところで俺は再び目を逸らした。
 その目の先に俺は来客を見た。俺の視線がちょうど入口のドアのところに飛んでいったからだ。
「十人くらいいると思いきや、二人しかいなかったわね」
 ノックもせずに入ってきたのは、上下ジャージの世界史担当、山尾明日奈先生だ。
「どおいう意味っすかあ?」
「うるさかったからでしょう。主にナツが」
 突然の来客にも顔色一つ変えずこんな嫌味を言ってのけることができるのが、ハルという女の本当に嫌味なところなのだ。
「ナツをうるさくしてんのはお前だろ」
 山尾先生は殺傷能力の高そうな鋭利な視線でハルを睨みつけた。でも口許は笑っている。入ってくる前から笑っていた。
 山尾先生は一年の頃の俺たちの担任だった。だもんで、今でも緊張感などなくフランクに付き合うことができるのだ。
 本人はまだ二十代と言い張っているが(事実そうなのだが)、彼女にはすでにベテランの貫録がある。老朽化した古参の先生方よりも何故か大人びて見える。誰が見ても間違いなく美人なのに色気は皆無だとよく言われている。彼氏日照りともよく言われている。髪は短くしっぱなし、化粧気が無く、いつもジャージ。若さを活かしきれていないとかつて俺が本人の前で口にして、腹を殴られた記憶がある。そんな御人なので生徒側からの人気は男女問わず絶大である。
 何より山尾先生から美人度を奪っている最大の要素がその目つきにある。彼女の目は校内一、というか札幌一鋭い。いや怖い。いつも空気に喧嘩を売っているような目で歩いているのだ。そしてキレ方が死ぬ程怖い。この人のお説教はお説教のレベルを遥かに超えている。俺も何度もキレられた。
 だが筋は通っている、とハルが言っていた。
 本人の中に確固たる基準みたいなものがあるから思いっきり悪を正すことができるのだと。そういう人のことを「良い先生」と呼ぶのだと、これもまたハルが言っていた。
 以前、球技大会を途中で帰ろうとした男子生徒を山尾先生が叱ったことがあった。その生徒はハルと並ぶくらいに頭が良く、進学塾に通っている勤勉君だった。彼の言い分としては「もう自分が参加する球技は終わったので、これ以上は時間の無駄だから家で勉強する」だそうだ。合理的と言えば合理的である。
「そういう問題じゃない! そういう問題じゃないことに気付けないのがお前の落ち度だ!」
 翌日、山尾先生は目をひん剥いて怒鳴った。毎度毎度恐竜みたいな迫力で怒鳴るのだ。
「お前のその正しさが通用する世の中なんてどこにもない! あるかそんなもん! みんなが従ってるルールを破るのは賢さなんかじゃない! 狡賢さだ! 抜け駆けしてリードする一歩は、みんなが抜け駆けしないことで初めてリードする一歩だ! その成功はお前が作り上げたものなんかじゃない! みんなが決まりを守ってるおかげだ! 世の中全体がそういうものに支えられてできていることを知らないやつの理屈には誰も納得なんかしないんだよ!」
 二度とやんなよこの野郎っ――!
 男子生徒はその迫力に圧倒され、叱られている間ずっと泣きそうな顔を凍結させていた。
 筋が通っていて、確固たる基準がある。嫌われることを恐れずにその筋を通す。他の先生なら面倒だと放っておく問題にもちゃんと向き合う。そんな先生。
「球技大会というイベントが無い、もっと上のランクのお勉強大好き学校に入れなかったお前が悪い、と言わないのが先生の見えざる優しさね」
 ハルはそう評していた。彼がその優しさに気付くような奴であってほしいとも言っていた。
「ナツ! あんたの提出した課題!」
「はい!」
 部室に入り一歩踏み込むなり、山尾先生は俺に矛先を向けた。というより、俺に用事があって来たのだろう。
「ハルのと非常に類似しているのはどうしてかしら?」
俺の目を捉えて離さない驚異の視線。
「げろげろ……」
 バレたか。
「え? 私は見せてないですよ。ナツになんか見せないですよ。もしかしたらゴキブリには見せるかもしれませんけど。ああ、あいつら目ぇ無いですね。ナツにはありますね」
 すっとぼけた顔でハルは言う。どさくさに紛れて滅茶苦茶言いやがって。
「人のを勝手に見てパクったの?」
 一段と鋭さの増した視線で歩み寄ってくる山尾先生。そして慣れた手つきで俺の両頬を右手で鷲掴みにする。俺の潰れゆく目の端にハルのさも嬉しそうな顔が映り込んでいた。
「ちょっと文章のテイストだけ変えて提出したの?」
 そのまま俺は頭を前後左右に揺さぶれて返答もできないような状態になった。
「まあまあ先生。ナツの意見も聞きましょうよ。ナツが可哀相ですよ。人権だって無いんですから。まるで哀れですよ」
 ニコニコと落ち着き払って山尾先生を制止しながらも、きちっと俺への悪口は忘れない性悪女。
 山尾先生は取り敢えずヘッドロックからは解放してくれた。
「あのですね、先生、こうは、考えられないですか……」
 息も絶え絶えの俺は必死に対案を探した。ハルが愉快気にその様子を見ている。というか先生もそんな感じだ。見世物になった気分だ。
「むしろ、ハルの方が俺の課題をパクっていると……」
 俺は神妙に言い募った。
「なるほど! ナツ、その発想はいい線いってるわ!」
 囃し立てる性悪女を無視し、俺は乞うような小動物的視線を山尾先生に送り続けたのだが、先生はどこか憐憫の表情を浮かべて俺を見ているのだった。可哀相、哀れと顔に書いてある。人権についての配慮がない。
「ナツ。もう一度確認するけど、これで最後ね。これで嘘吐いたら私はブチキレるから、そのつもりでよろしくね。本気で怒るつもりだから覚悟決めて答えてね」
 俺を見下ろす冷徹な視線からは確かな殺気が感じられた。
「ナツは、ハルの課題を、パクってはいないのよね?」
 俺は姿勢と表情を正し、正面から言い切った。
「いえいえ。そりゃもう、丸パクリしました」
 俺の頭部に非常に硬いゲンコツが降り注いだ。
「くあ……」
 体罰厳禁のこの時代になんてことすんだよ、この教員。
「今の時代、さすがに頬を殴ったらまずいからね」
 体罰厳禁のこの時代をさも考慮するかのような発言をするこの勘違い教員。拳の入射角の問題ではない。
「山尾先生、素敵です! 大好き!」
 ハルの方から歓声が聞こえてくる。
「明日までな」
 頭を押さえている俺の頭上に一枚の紙が舞った。先生は振り返らずに部室を去っていった。
「白紙の課題よこれ。山尾先生は相変わらずナツには優しいわね」
 紙をキャッチしたナツがそれを俺に手渡しながら理解不能なことを言ってくる。
「どこが優しいんだよどこが! 短時間で二種類の体罰! その道一筋のプロじゃねーか!」
「ナツ以外にはやらないわよきっと」
 どうやらハルはそれを個人攻撃ではなく贔屓として捉えているようだ。殴られた方が贔屓されているとはどういう了見なのか。俺が一年で構築したとっつきやすい無害のオチコボレというイメージは功を奏し過ぎているようだ。
 ……まあ、宿題をサボるやつが全面的に悪いのだけれども。
「ジャージやめてスーツにすれば大人しくなるんじゃねーか」
 課題と弁当箱をごっちゃにして仕舞い込みながら俺はそんな適当な嫌味を述べてみた。
「その考え方は逆です。スーツを着てきたところであの気性は治りっこありません。だったらスーツ姿で暴れられるよりもジャージ姿のままの方がしっくりくるでしょう」
 いつのまにか弁当を片付けていたハルが真っ直ぐ前を見ながらそう応じる。隣にいる俺と話している時でさえ真っ直ぐ前を見て会話するのがハルの百不思議の一つだ。
「そっちこそ考え方が逆だよ。あの女は暴れること前提で動きやすい格好してきてんだよ。確信犯だよ確信犯」
 そのハルの横顔を見ながら俺は不平を託った。
「ジャージ着てるのはバドミントン部の顧問だからでしょ。そっちの仕事を大切にしてるだけなんじゃない」
「お前、やけに山尾パイセンの肩持つよね。どうしてなんでしょうね」
「定期的にあなたをブン殴ってくれるからでしょう」
 分かりきったことのように仰る。
「そういえば、バド部にはあの子いたわよね、萩原さん」
 ハルが徐ろにその名前を出した。何やら企みのありそうな顔で。
 萩原(はぎわら)瞳。俺たちとは別のクラスだが、今や彼女は有名人だった。
「萩原さん、先輩方からは面白半分で聖女って呼ばれているみたいね」
 そう、聖女。
 大げさかもしれないが、いまや萩原瞳は茜灯高校の救世主のような扱いになっている。
 先のいじめ事件も虐待事件も、彼女の奮闘のお陰で明るみに出たことだったのだ。いじめられっ子や虐待にあっていた生徒のことを前々から気にかけていた彼女が色々と立ち回ったお陰でようやくその二つは表沙汰になった、ということだ。
 その結果だけを見てみんなが彼女を英雄視しているわけではない。萩原瞳は普段からみんなに好かれているのだ。元々好意的に見られている人間が活躍したことで英雄視されたというわけだ。
 学業成績は俺と五分というおバカさんであり、騒がしさも俺と肩を並べるほどであると俺は聞いたことがある。俺と同じいわゆる「珍獣扱い」であり、しかしそれはとっつきやすいという武器にもなるということだ。現に聖女萩原の交友関係は多岐にわたっている。学級、学年問わず、彼女の友好の輪は無差別に広がっているのだ。
 俺と違う点は、萩原さんは行動的であるということ。ナマケモノ以上に怠け者の俺とはその点で評価に差が出てしまうらしい。明るく朗らかで、質の悪い冗談にもむしろ率先して付き合う。丁寧語を乱発するよりも砕けた言葉遣いでの友人付き合いとフランクさを大事にし、行儀の良さなど座布団の下に敷いて潰してしまっている。顔もまあまあ可愛いし(まあまあな!)、表情も豊かでよく笑う。
 物語の主人公にするならまず間違いなくハルではなく萩原さんだろう。ハルは美人だが根が陰険なのでアウトだ。隠しおおせない邪悪さが画面に映り出てしまう。だが萩原さんならきっと似合うだろう。行動力と元気の良さ、笑顔の似合う顔立ち、どれも主役に相応しい要素だ。
 おそらくハルが例の二つの事件を記事にしたいと考えているのは、萩原さんという両事件の関係者となる人物がいるからである。被害者や加害者を直接取材できないとしても、萩原さんなら可能なのではという、淡い期待がそこにはあるのだ。萩原さんの記事なら先生方もギリギリ通してくれるんじゃないかという安易な期待もあるということ。なんせ聖女なのだし。
「彼女ならインタビューにも応じてくれると思うのよ。気前よさそうだし」
 ハルが提案する。
「それに詐欺が効きそうな顔してるし」
 ハルが何か言っている。
「上の空で本音を口にするハルさん。本当にインタビューしたいなら津崎大明神にかけあってきなよ」
「えーと、津崎……、何でしたっけ?」
 津崎ナントカ教諭。新聞部顧問とは名ばかりのお飾り顧問だ。義務と責任にしか目を向けないダメな大人。ダメなオッサン。何故あんな事なかれの権化がよりによって新聞部の顧問などをしているのかと、かつて俺が疑問を吐き出したところ、ハルがあっさりと「だからこそよ」と論破してくれた。新聞部はハナっから監視付きの報道機関だったというわけだ。一年生の時は山尾先生が津崎……大魔王を説得してくれたこともあった。新聞部の自由にさせてやったらどうかと。津崎……居士はその時はあっさり折れた。山尾先生が怖かったのだろう。それでも俺たちだけの時は融通が効かないことの方が多い。
「まあ、あんな津崎……大帝の許可なんか取らなくていいか。刷った後で忘れてましたで充分だろ」
 俺は穴だらけの完全犯罪計画を口にした。
「いいわねそれ。それでいきましょう」
 ハルは悪戯心満載の笑みでそれに応じた。ハルにはこういうところがある。学年一優秀な生徒にもかかわらず、俺も驚くような無茶や無謀をちょっとした悪戯のような感覚でやってのけようとするのだ。
 そんなバカだからこそ俺とつるんでいるのだろうけど。
 俺はどうせならもっとバカになろうと思った。
「それならいっそさ、虐待事件の子にも話聞いてこようか。不登校になってるわけじゃないんだし」
 俺は提案した。
「やめた方がいいと言ったにもかかわらず蒸し返すってことは、ナツには何か心当たりがあるのですね」
 先ほどまでの悪戯心満載の笑みを残しながらも、どこか期待するような目で俺を見直してくるハルだった。
 虐待事件で注目を浴びた被害者の子、吉田すみれは人付き合いが薄かった。どちらかというと以前に山尾先生に説教を食らったあの球技大会サボリ男に近いタイプだ。勉強しかしない。勉強に追われている姿しか見ていない。他はどうでもいい。そんなタイプ。もちろん友人などいない。彼女が学校内で話す生徒はもしかしたら聖女萩原さんだけかもしれない。
 ただし俺を除いて。
 俺は実は、何度か話をしたことがあったのだ。もちろん、いずれも事件が発生する前のことだ。彼女は頻繁に保健室を利用する生徒だった。今思えばあれは「逃避」の一種だったのだろう。そしてこの学校でもう一人頻繁に、そして邪な理由で保健室を利用しようとする生徒がいた。そう、俺だ。主に授業をサボる口実として計画的に利用させてもらっている。
 吉田すみれとはそこで何度か顔を合わせている。そこで俺は暇潰しがてらグイグイ彼女に話しかけるのだ(サボっておいて暇潰しも何も無いのだが)。嫌いな先生のこととか、ハルの悪口とか。吉田さんも吉田さんで、俺みたいなタイプは嫌いなのかと思いきや、俺は恐らく、学年内で数少ない競争相手になり得ない人物という認識があるようで、結構話に付き合ってくれる。なんだか悲しい理由だが、俺に対しては彼女の持ち前の敵対心みたいなものがなくなっていたのだ。万年ドンケツ、永久ビリケツがここで役に立った。イメージ戦略の賜物である。
 そんな矢先に、虐待事件だ。テストの成績が芳しくなかった吉田さんはどうやらお母さんにボコボコにしばかれたらしい(俺はハルからそういう表現で話を聞いていた)。 
 以来俺は保健室でも吉田さんに会っていなかった。
 ハルにその話をしてみると、コイツは無表情のままでチラリとこちらを見てきたのだ。俺には分かる。これは怒っている時の反応だ。
「まさか虫に隠し事をされるとは……」
 何かを呟くハル。
「別に、お前に俺のその日に起こったことを逐一報告する義務はないし、隠してたわけでもない」
 俺はきっぱりと反論しておいた。
「虫であることは認めると……」
「認めないし、実のところ俺には人権がある」
 俺がじっと睨みながらこんなことを言うと、ハルは少女のように屈託のない顔でクスクスと笑うのだった。鉄面皮のハルのこういった反応はどうも珍しいらしい。一応、ハルは変人ではあるが美人でもあるのでその点でもかなり人気が高い。以前他の男子からどうやったらハルを笑わせられるのだと真剣に訊かれたことがあった。俺はそいつにこう答えた。笑わせようとしても笑う相手ではないので、笑われることだと。
 のちにハルにはそれを実行できるのはあなただけだと言われた。悪口だと気が付いたのはしばらく経ってからだった。
「あなたに心を開いているという謎の奇跡を利用して、ちょっと吉田さんに話を聞いてみようかしら」
 部長が方針を決める。
「本当に記事にすんの?」
「大したことが聞けなかったら没。聞けたら掲載で、その後津崎大激怒」
「吉田さん本人が掲載を嫌がったら?」
「土下座する」
「お前が?」
「お前が」
「断ったら?」
「お前に人権が無いということを再度教え込む」
「じゃあ交換条件として、さっきの課題を……」
「いい、ナツ。憲法の約束する基本的人権があなただけは例外的に……」
 こんなのが延々と続く。
 こういう時のハルは生き生きとしている。きっと誰かさんが笑われているからだろう。
 教室へ戻る途中(俺はまだ課題についての協力要請をハルにしていたのだが)、思わぬ人物と出会った。思わぬというか、思っていたというか。
 それは紛れもなく吉田すみれだった。
 少々険のある刺々しい目つきに、固く結ばれた口許。眉毛のところで前髪パッツンになっているロングヘア。そして今となっては陰のある暗い雰囲気。
 人気(ひとけ)のない廊下で窓の外をボーっと眺めている。窓の外には青空と街並みが広がっているが、おそらくどちらも彼女の目には映っていないのではないだろうか。
 昼休みは教室や図書室でひたすら勉強しているはずの彼女が、今は何もせずにただ廊下に突っ立っている。
 ボコボコにされたはずの彼女だが特に目立った怪我はなかった。誰だ、ボコボコにされたとか言っていたやつは。
 俺はハルにポンと背中を押された。
 いけ、の合図だ。
「吉田さん」
 俺の声に振り向いた彼女の目は、少女のように丸くなっていた。
 俺はそれを懐かしみの反応として捉えた。随分と勝手な解釈だとは思うが。
「白沢君……」
「ああ、話しかけられたくなかったのなら俺たちはそのままこの廊下を当初予定していた通りに進みますから。こんなアホ二人に気を遣うことなく……」
「放っといてよ」
 こちらが言い切る前に、吐き捨てるように彼女はそう言った。いつの間にやら鋭利になっていた視線と共に。
「ちょっとあなた……」
 ここでややこしい女が絡んできた。
「誰がアホですって? ねえ!」
 俺に対してだった。俺が絡まれてしまった。何故こいつはTPOを弁えてくれないのか。
「あなたは虫だし私は神でしょ。アホなんて一人もいないわよ」
「今のお前がそうだろう。一人確定じゃねーか」
「神が?」
「神ってなんださっきから!?」
「さっさと消えて!」
 いきなり雷が降った。射殺すような目といつも以上に固く結ばれた口とが俺に向けられていた。吉田嬢が怒ってらっしゃる。
「ハイハイ、ではこのままここを真っ直ぐ通り抜けるということで」
 俺は道化を演じ平身低頭で来た道を行こうとしたのだが、ハルが先読みしたかのように俺の進路に立ちはだかっていて進めなかった。
「あなたの言い分をうちの新聞に載せる気はないかしら?」
 部長が得体の知れない自信を纏わせ、吉田さんに要求する。
「私の言い分? 何言ってるの?」
 あからさまに怒りながらハルを睨みつけている吉田さんは、少し感情的すぎる嫌いがあった。
「だって、現状に不満があるんでしょ? じゃなきゃこんなにピリピリしてないでしょ」
「あんたたちの道楽に付き合うつもりはない!」
 勉強一筋の吉田さんには学年一位の大敵に開く心など持ち合わせていないのだろう。あるいは本当にハルの態度に腹が立って怒っているか。どうか後者であれ。
「道楽!」
 ハルは感心したように叫んだ。
「何よ」
 吉田さんは噛みついた。
「嬉しいのよ。私たちの記事の本気度がちゃんと読者に伝わっていることが分かったから」
 相手の感情のことなど気にも留めず子供のように無邪気な笑顔を見せるハルに、吉田さんはいよいよ当惑してきたようだ。まだ序の口なのだが。
「いい、吉田さん。人間なんてのは道楽でしか本気を出せない生き物なの。義務よりも道楽に熱心になれる生き物なのよ。与えられた仕事に全力の熱量を注入できる人間なんていないわ。それが可能なのは仕事ではなく道楽の方。むしろ道楽こそが人の仕事なのよ。勉強なんて問題外よ。あんなつまらないものに限りある集中力を注いでしまうなんて愚の骨頂。適当に済ませて全身全霊で遊び呆けるのが一番幸せ。ねえ、ナツ」
 何故か俺が遊び呆ける代表として選出されてしまった。
 おかげさまで、勉強一筋の女の憎悪の視線が俺に注がれることとなった。
「いや、俺は、嫌なことから逃げているだけだから。勉強ちゃんとやってるやつはみんな偉いと思ってますよ。ええ。ただ、遊ぶこともそれなりに大事なのかと……」
 頭を掻きながらボソボソと呟く俺はいったい外からどう見えているのだろう。
「絵に描いたような情けない男ね」
 ハルが横で感想を述べてくる。いちいち口に出しやがって。
「白沢君は遊びで私に取材しに来たんだ。この大した結果の出せないガリ勉女を面白おかしく記事にしてやろうって」
 吉田さんから、かなり冷徹なご意見が寄せられた。相手の口を封じるやり口を熟知しているかのようなその対応。
「ええ、そうですよ。取材。嫌がるあなたから話を聞く。それ以外に目的なんてないでしょう」
 ハルが頼まれもしていないのに俺の思ってもいない意見を代弁する。なんと不思議な世界なのか。
「放っておいて、ですって?」
 吉田さんが激高するよりもはやくハルが二の句を継いだ。この女も相手を制する方略を色々と心得ている節があるのだ。
「いつもはそんなことをしない女が、人通りの少ない廊下で窓の外を眺めている。そしてその女はその異質な状態をそのまま放っておけと言う。それで黙って放置する人間は、元々あなたの人生に無関心でしょうし、今後もあなたの助けになることはないでしょう。あなたに放っておいてと言われてなお対話しようと踏み込んでくる人をこそあなたは大切にするべきなのです」
 言いながらハルは俺の肩を叩いてきた。
「いつもはそんなことしてない女を、元のガリ勉女に戻してくれるのは、きっとこういう人です。見てください。かわいい顔してます」
 話を聞くうちに、ほんの少しずつ俺を見る吉田さんの目が武装解除していった。それでも睨むという表現の範疇に入るものなのだが。
「あのこと訊きたいの?」
 少し軽蔑的に彼女は言った。あのこと。すなわち虐待事件のことを言っているのは明白だった。
 俺はまた頭をポリポリと掻いた。
「本当は訊きたいけどね。吉田さんの意志優先。俺は何があったか知りたいってだけ。記事は二の次」
 俺は言葉を選びながら言った。
「何があったか……?」
「詳しい顛末を誰も教えてくれないからね。説明会の時だっておおよその経緯しか語られなかったって話だし。当日何があったかはよく知らないんだよね」
「そう」
 彼女は一瞬何かを逡巡していた。とても暗く沈んだ瞳をしていた。
「津崎先生はなんて言ってるの?」
「彼は日本語の習得が遅れています」
 ここで何故かハルが割り込んできた。どうしても言いたかったことなのだろう。
「この世にあの人の許可が必要なことなんて一つも無いよ」
 俺が冗談めかして言っても、彼女は笑わなかった。保健室で話をした時は津崎の悪口は割と鉄板ネタだったのに。
「どうでもいいわ、きっと白沢君の知ってることが全部よ」
 話すことなんてない――。
 吉田さんは吐き捨てるようにそう言った。その後でちょっとだけハルを睨んだ。
 俺の知ってること。俺たちが聞いている話。
 テストの成績が良くなくて日が暮れるまで公園で落ち込んでいた吉田さんを、前々から彼女のその性質のことを気にしていた萩原さんが家まで送っていった。そこでテストの成績に激怒した吉田ママが娘に手を出してしまった。その際、吉田さんをかばおうとした萩原さんが突き飛ばされて怪我をしてしまったようで、その怪我の経緯を娘から聞いた萩原さんの母親が学校側と、余計なことに教育委員会にも事の次第を報告。当事者がPTA会長ということもあって萩原さんのお母さんはこの事態を深刻に捉えたのだろう。そして学校側がなんとか穏便に済ませようとグダグダやっているうちにどこからか情報が漏れて、あとはSNS時代の反射のごとく一気にそれが拡散。事件はあっという間に生徒保護者の知るところとなってしまった。校長はさらにハゲ上がり、事態は紛糾。吉田ママは責任を取る形でPTA会長を辞任し、学校側は泣く泣く説明会を開催する羽目に。
 これが全て。
 どうせみんな知っていることなので、これだけを記事にしたところで誰も注目しないのだ。吉田さん本人からもっと詳しいことを聞けないのであれば記事にはできない。
 俺たちが大人しく切り上げようとしたその時だった。第二のターゲットが不意に現れたのだ。
「コラコラコラ。そこのお二人さん」
 廊下の向こう側。女子生徒が一人。
 子供の様なぱっちりとした瞳に子供の様な小癪な笑み。背は少し低め。トレードマークとなっているショートカットとミニスカートは彼女の運動量の豊富さを物語っているようにも思えた。今現在もコミカルな動きを見せている。それに茜灯高校でスカートを折る生徒は中々いない。体制に抗ってでもおしゃれを貫き通したいという女子としての意志が感じられるのだ。はっきりとした美人ではないが、誰からも好かれる容姿は美人なんかよりも重宝するだろう。
「悪徳出版社の新聞記者さんが吉田さんに何の用ですか?」
 冗談めかして俺たちの目を覗き込んでくるこの女は間違いなく聖女・萩原瞳だった。彼女が本気で俺たちを責めているのではないことも分かっていた。ふざけて楽しんでいるのだろう。
「取材……、にはならなかったんだけど」
 俺は一応、言い訳しておいた。
「吉田さん、次の時間は体育よ体育。昼休みの内に着替え済ましておかないと、穴田先生暴走しちゃうわよ!」
 萩原さんは意味あり気に吉田さんの目を見て頷いた。
「ああ、そうだったわね」
 少し慌てた様子で吉田さんはこの場から去っていった。
 去りゆく際にも、聖女と目を合わせたまま。
 なるほど、吉田さんを逃がしてあげたわけだ。吉田さんの去り際のあの視線は感謝の意ということか。じゃあ俺は厄介者かい。
 そしてクルリとこちらに振り向き、ごめんねと言ってきた。
「あなたたちの仕事も分かるけど、できればまだ一人にさせてあげたいの」
 困ったように笑いかけながら、こちら側のことも配慮してくる萩原さん。
「俺こそ悪いことしちゃったかなあ」
 俺は自分の言動を思い起こした。
 だが萩原さんはそれを申し訳なさそうに否定してきた。
「いえいえ、白石君。そうでもないの。さっきの様子だと、白石君なら吉田さん的にも全然OKだと思うし。あ、そういう意味じゃないよ? そのくらいの想像力は持ち合わせてるよね?」
 萩原さんのおどけるような仕草を見ていると、どんな言い合いもこちらに分があるように思えてくる。だからこそこの人は嫌われないのだろう。頭が良くないという前情報がより好感度を上げるのだろうか。やはりバカは得なのかもしれない。
「白石君なら?」
 ここで後ろから状況を眺めていたハルが何かに引っかかった。
 すると萩原は怪しげな目をハルに向け悪戯っぽく微笑んだのだ(これもまたおどけている感じなのだが)。
「ええ、そうよ。だって二人そろっちゃえば完全に新聞部じゃない。かの悪名高い新聞部」
 にこやかなままハルと向き合う萩原さん。聖女と悪女。スタイルでは悪女の勝ち。いつの時代もそうなのだが。
「単体ならいいんですけどね。新聞部だと警戒しちゃうでしょ。記事にされるって」
「新聞部には私しかいないはずですが?」
 本当に不可解そうな表情でそれを言うハルだった。
「おいコラ! ちょっとそうかもしれないし……」
 まったく部の仕事してない俺は正面から言い返すことができなかった。
 萩原はこのやり取りをクスクスと笑って見ていた。何と屈託のない笑い方。
「悪名高いなんて嘘よ嘘。だって私、新聞部の大ファンだもん。テストの山張りが掲載された時はカッコいいとさえ思ったわ。体制側に屈しないその姿勢! それと津崎先生三十年史の企画。先生には悪いけど、お腹抱えて笑わせてもらったわ。何なのアレ!」
 彼女はケタケタと笑った。
 萩原さんは本当に楽しそうに新聞部の功績を褒め称えてくれるのだった。
「萩原さん、面白い事なんて一つも無いわ」
 悪女が嘘しか出てこないその口を開いた。
「津崎先生三十年史は大真面目な企画よ。津崎先生の教員生活の苦労の全てを本人のインタビューに基づいて紹介するという、教訓以外何の目的もない素晴らしい記事になったと私は自負しているわ。彼も乗り気でインタビューを受けてたわ。すごく単純な生き物だったわ」
 こんなことを言うハルの表情はわざとらしく真剣だった。
「そういう津崎先生を笑ってやろうという魂胆だったんでしょ。まったく、どっちが考えついた企画なんだか」
 萩原さんもニヤニヤしながらこの話題に関心を寄せている。やはりああいうのが好きなのか。
「コイツです。この女が全面的に考えた企画です。そして一人で最後までやり遂げてしまいました」
 俺はハルの悪事を暴露してやった。
「私はただ津崎の教師としての志のなんたるかをここの生徒諸君に知らしめてやりたかっただけよ。今でも思い出すわ。新聞に掲載した彼のアップのグラビア」
 この瞬間、聖女がブウっと吹き出し、その後ゲラゲラと爆笑を続けた。
 あのグラビアを思い出したのだろう。津崎の免許証の写真の大アップ。ハルが勝手に掲載したあの弛緩と放心の合間を切り取ったようなオッサンの顔面。
 大真面目な表情でコイツがこんなことを言う時、それはバカにしているのと同義であることを俺はよく知っていた。
「私、廊下ですれ違う時、毎回、笑っちゃうんだけど、あんたらのせいよ……」
 笑いを漏らしながら必死でそれを弁明する聖女だった。
「そりゃ津崎のポテンシャルだろ」
 俺がそう言うと、彼女はそうねと相槌を打ち、笑顔のまま軽く俺を睨みつけてきた。
「てか、白沢君さあ」
 そして腰に手を当て、下から俺を覗き込むようにして顔を近づけてきた。
「ずっとあなたに謝罪と感謝を述べたかったのよ。せっかくなんで今言わせてもらうわね。ごめんね、そしてありがとう」
「はあ。では説明を」
「あなたのせいで私は毎回下から二位! 一年の時からずっと! 前回も、前々回も、恐らく次回も! 永遠のケツから二位! これは非常に、非っ常に助かってるの! どうもありがとう!」
 両手で握手されてしまった。
「そう、じゃ、殴るよ」
「女の子だからダメというのが世論であります」
「よし、じゃあこうしましょう」
 ここでまた愉快な女が絡んできた。
「次回の考査の時、ナツは総計三十分勉強する。萩原さんは総計五分勉強する。これならナツにも分があるわ」
 そんな提案をしたハルの方に顔を向けたまま萩原さんが口を開いた。
「これはつまり私をバカにしているってこと?」
「違う違う。俺も含めてバカにしてんの。コイツは常にそういう姿勢ですので」
 俺はハルを責めた。
「覚悟が足りなかったわね」
 これを聞いた聖女は苦笑いを浮かべてこう言った。
「邪悪な出版社であることはよーくわかったわ。でも私が新聞部のファンだってことは本当よ」
 ではでは、と言ってこの場を去ろうとした萩原を俺が止めた。
「ちょっと待って。次回考査で俺が手加減する代わりに……」
「そっちの方が下でしょ!」
 こちらが何かを要求する前に彼女はその部分に反応した。
「インタビューを受けてくれない? ネタが無くて困ってるんだ」
 俺の卑屈な笑顔に、彼女は即答でOKしてきた。
「いいよ! おもしろそうじゃん!」
 浮足立った萩原さんにどんなことを訊かれるのか色々探られたが、それは本番のお楽しみと全て突っぱねてやった。そもそも新聞部のインタビューなどいつも無計画のアドリブオンリーなのだから、現時点では何もお答えできないのだ。
 放課後が楽しみと言い置いて、彼女は笑顔で廊下を去っていった。
 窓の外を眺めることしか用が無い廊下に、問題児二人が取り残された。
「……吉田さんは、萩原さんのことどう思ってるのかな」
 俺はふとハルの意見を聞いてみたくなった。
「自分の母親を告発した萩原さんとその母親のことを、ですか?」
「そう。結果的には自分をこんな廊下に追い込むことになったその二人のこと」
「邪険には出来ないでしょうね。怪我をさせた負い目もあることでしょうし、その上正しいことをした側を責めるなど重犯も同然です。何より萩原さんは気落ちしている自分を今も気にかけてくれている。それは事件前からもそうだったはずです。そんな萩原さんやその母親を吉田さんが責めることなんてできるはずもないし、してはいけない。してはいけないと吉田さん自身が思っている。だから今の状況に対しても何も言えないのよ。あんなふうに窓の外を眺めて時が過ぎるのを待つことしかできない。あの事件と言うよりも、その後到来した状況こそが彼女を縛り上げているような気がしてならないですね。誰も責められないこの状況こそが彼女を最も苦しめている――」
 などと、つらつらと語る我が部長。
 やはりこいつは人を知りすぎている。何でも見抜いてしまう。
 なんと邪悪なことか。
「案外、家に帰ったら毎日のように自分の母親を責め苛んでるかもよ」
 俺は安直な意見を述べてみた。
「それが出来ていれば、こんなところで窓の外を見ながらボーっとしていることもないのではないでしょうか」
「ふうん」
「なんですか、ナツ。その邪悪なものを見るような目は」
 ほらね。全て見抜いてらっしゃる。
 俺は目を逸らした。本人に目を逸らしたことが伝わるくらいハッキリと目を逸らしてやった。
「よく考えたらさあ、事件のことを外部に漏らしたやつが一番の悪じゃね?」
 そのまま俺は話まで逸らそうとした。
「ほう。ナツにしては良い目の付け所です」
「だってさ、そいつさえいなかったら、話は萩原家と吉田家の間に学校を挟むだけで済んでいたはずなんだ」
「現代社会が抱える闇ですね。当事者間で済むような個人的問題が瞬く間に拡散され、事件は個人ではなく全体のものと化してしまう。そしてこの場合の全体とは常に真相を知らない無責任な大衆のことです。それなのに事件の結末は彼らが要求する方向へと導かれてしまう。情報が拡散しなければ、関係者の中だけに留まっていれば、世界はあちらでもこちらでも平和なままだったはず」
 その「全体」とやらは全員、漏れなく正義面しているんだろうなとも思う。
「誰だよ、情報漏らした奴」
「それに該当するスマホを持った猿はどこにでもいますよ。そんなどこにでもいるお猿さんよりも、こんなにあっさりと外部にマル秘情報が漏れてしまう我が校の老朽化した情報管理能力の方が問題なのです」
 おっしゃる通り。我が校は底の抜けたガバガバのお鍋なのだ。
 だからこそ俺たちも自由に動けるというか、なんというか……。
 そして放課後、萩原さんを部室に招き入れインタビューを敢行したが、案の定ハルが面白半分の質問ばかりするので記事にはならなそうな気がしてきた。メモを取る係の俺の右手は俺の意思で止めた。
 事件のことには触れず、関係者とのかかわりも問い質さず、萩原瞳個人に対する掘り下げに終始。好きな食べ物、好きなタイプ、普段どんな服を着ているのか……。
 俺はハルのことだから何か作戦があるのかと思って聞いていた。
 萩原さん本人は新聞部のファンだということで滅茶苦茶楽しそうに受け答えしていた。
 結局、何も得るものの無いまま萩原さんとは別れた。
 これじゃ記事にはなるまい。
「お前にしては珍しいね。事件のこと一つも訊かなかったじゃん」
 萩原瞳こそ両事件に共通する最重要参考人のはずなのだ。
 するとハルはあっさりとこう答えたのだ。
「油断するのを待ってるだけですよ。今は何を訊いても答えてくれそうにないので」
 随分としれっとした顔をしているものだ。
 コイツにはこういうことがあるのだ。相手の厚意を利用し、油断させ、罠に嵌める。情報を得るためなら邪道も厭わない。他愛のないインタビューはすでに蜘蛛の巣の上。
 まさに悪魔のような女である。
「結局このままだと休刊になっちまうけどな。それとも、さっきのどうでもいいインタビューを記事にするか?」
 いつものようにハルが面白おかしく編集すれば笑える記事にはなりそうだ。本人の許可は知らないが。
「いいえ、しません」
 残念そうにするでもなく、ハルがそう言った。
「どうしてよ?」
「誰かの表の顔になど私は興味がありません」
 一体コイツは、人の何に価値を見出しているのやら。


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