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悪魔の子供たち⑧

8 印象操作

 あっという間に時間が過ぎていく。
この二日間、新聞部は我らの成すべきことの事前準備の為に奔走していた。
 ハルが立案し、ハルが実行するのが新聞部のモットーだった。だが今回はそうはいかなかった。色々と出かけるところがあったので、俺もスマホ片手に市内を駆けずり回った。
 俺の頑張りもあり、新聞部会心の一作は決行予定日の前日に仕上がった。もうすでにそれは大量にプリントアウトしてしまっている。
 あとは明日の授業参観日の早朝、これを学校中に貼りまくるのみ。その下準備のためにはまず既存の掲示物を剥がしておく必要がある。
 校内掲示物。はっきり言ってあんなものは邪魔だ。学校という組織はとかく壁という壁に何かを貼り付けたがる傾向がある。生徒の成果物を表彰するみたいに教室の外に貼り出すのもいただけない。あんなことして満足しているのは教師のみで、生徒は誰も何とも思っていない。もしかしたら教師ですら「こういうことやらなきゃまずいんじゃない?」くらいの感覚であんな面倒な作業を敢行しているのかもしれない。それもナントカ係の生徒に放課後残らせてまで。
 あれらを剥がしたところで生徒側の損害はゼロだ。いずれ誰かが剥がす役目を負うのなら、この機会に俺が全て取っ払ってしんぜよう。
 俺が大車輪の働きをしているさなか、放課後の新聞部の部室に訪ねてくる者の姿が見えた。俺はちょうど正義の実行をやり遂げて戻ってきたところだった。回収した掲示物は全て新聞部の部室に保管してある。念のため処分は控えている。俺は両手に掲示物の山を抱えながら部室と各廊下とを五往復ほどしてきた帰りだった。廊下の端から萩原瞳が部室に入っていくのが見えたのだ。どうやら山尾先生不在のバド部は全然まともに機能していないらしい。さっき体育館の方にも様子を見に行ってみてそれが分かった。参加人数も極端に少なかった。萩原さんも練習を早めに切り上げてここにやってきたようだ。まだジャージを着ている。
 俺は回収してきたブツを両手で抱えながら、廊下の角から様子をうかがうことにした。
 新聞部の部室は普段から散らかっているが、今日はそれに輪をかけてゴチャゴチャしていた。明日の仕込みのために大量にプリントアウトした紙と俺が回収してきた正義の痕跡がその主犯である。
 萩原さんはちょっと寄ってみただけなのだろう、ドアは開いたままになっていた。入口を一歩またいだところで止まってそこからハルに話しかけているようだ。
「桜井さん、なんか忙しそうねえ」
「実際忙しいんです。萩原さんこそ、何か用?」
 ハルの声は外から聞くと案外冷徹に聞こえるのだなと感じた。
「いやあ、少し気になって。新聞部が色々と動き回っているとの情報があちこちで飛び交っているもので」
 俺は思わず手に持っていたものを落としそうになった。
「あらあら。本当に新聞部って警戒されてるのね。米軍の空母が動いたわけじゃないんだから」
 すると萩原さんは嬉しそうに笑うのだった。
「いやいやいや、そりゃ気にするわよ、あんたらが動くと、みんな、何かスクープでもあったんじゃないかって思うもの」
 ハルがこれを聞いてクスクスと笑っていた。
「スクープって何のこと? 誰かのスキャンダルのことを言っているの?」
「そう! 自分の隠している重大な秘密が暴かれたりとか! みんなもよく知るあのカップルのあの男が実は浮気しているとか!」
 何やら楽しげな声が部室に響き渡っていた。
「安心してください。仮に何かスクープがあったとしても絶対にそれは誌面には載らないから。津崎による検閲のせいで100%落とされるんだから」
「ええ? 本当? なんか、いっつもそんなような記事出してる気がするんだけど……」
 萩原の心から驚く声が聞こえてくる。
 ハルの言うとおり、スクープなどと称されるような衆目を引く記事など一度も載せたことがない。許可されたためしもない。せいぜいテストの山張りが限度だった。俺たちが、というかハルがやっていることは面白半分のネタでしかなく、スクープなどにはまるっきり興味が無いのだ。醜聞よりも風刺や皮肉が主。笑いに繋がるかどうかがポイントで、スキャンダラスかどうかなどは気にしていない。むしろ真面目なネタを真面目に扱う振りをしながら裏の意味を考えさせて笑わせる、という手法をあの部長は好んでいるので、パッと見は意外と真面目なネタが多くなっているはずなのだ。だから津崎の目もごまかしやすい。
 一度も出したことがないはずのスクープを警戒し、あるいは期待している人々が大勢いるというその事実。これも「新聞部」という印象(イメージ)の成せる業なのだろう。俺たちはそう思われているのだ。実際は一度もやったことがないというのに何度もやっていることよりもその印象が強いというのだ。恐るべし、イメージの魔力。いや、この場合新聞部というよりも「桜井葉流」や「白沢南都」といった印象なのか。
 俺たちに与えられた印象とやらを冷静に分析するとそんなところになるのだろう。なるほど目立つわけだ。悪名高くもなるわけだ。
「で、今回はどんなネタを仕入れてきたんですかね?」
 萩原さんの声だ。悪代官を前にした越後谷の嫌らしい声。
「明日、分かります」
 悪代官にされたハルはだが、きっぱりと断った。萩原さんはチッと分かりやすく舌を鳴らした。そんなお茶目な萩原さんにハルは、今しがた俺が抱いたのと同じ考えを萩原に聞いてもらっていた。つまり俺たちに対する印象のことだ。ハルもちょっと気になったのだろう。
 すると萩原さんは、
「ああ、そんな感じかも。大体あってる」
 あっさりと認めたのだ。
「もっと言うと、二人ともいつも先生に怒られてる、という印象も付加ね」
 威張るように萩原さんは言っていた。
「それは印象ではなく史実です」
 ハルは恥じることなく肯定していた。
「しかし、少々みっともないですね」
「いやいや。みっともなくないよ。むしろみんなそういうところをカッコいいと思ってるんだから」
 聖女が意外そうな口ぶりで驚くべきことを言ってきた。
「カッコイイ?」
「そうよ。先生に怒られることよりも、それに平気で耐え、懲りずにまた同じことをする姿がカッコいいのよ。反体制っていう面もあるし、何より自分らにはできないことをしているって感じがスゴいの」
 萩原さんはまるで自分のことのように誇らしげにそれを語った。
「萩原さんは、私のことカッコいいと?」
 ハルとしてはやりたいことをやり抜くために周りの声を無視しているというだけの、いわばわがままの範疇に入ることなので、それをカッコいいと言われてもいまいちピンとこないのだろう。
「そりゃもう、学年一カッコいい女子よ。間違いなく」
 萩原さんもオーバーな語調でハルを崇めてきた。
「では、私に憧れていると?」
 真顔でこんな馬鹿なことを相手に訊いているハルのその真顔が目に浮かぶ。これを冗談であることに気付くかどうかで対応が変わってしまう。
「憧れる憧れる。現在進行形で。いや、未来でも過去でも」
 萩原さんはどうやら冗談だと気付く人のようだ。
「では私も萩原さんに憧れることにしましょう。具体的にどこと訊かれても困るのですが」
 萩原さんがすぐさま激しくツッコむと、二人してケラケラと笑うのだった。
「あーおかしい。じゃあ私たち丁度いい関係性じゃない。どっちともどっちともに憧れているのよ。尊敬し合ってる」
「なるほど。これが噂の友情ってやつですか」
「そうそう。例の友情」
 今度は萩原さん一人で笑った。
「なんか、今回のことで桜井さんとはもっと仲良くなれそうな気がしてきたわ。これからはコッソリ却下されたネタも教えてもらおうかしら」
「意地悪な顧問の許可がいるのよ」
 じゃあだめね、あの人本当に性格悪いからねと萩原さんは苦そうな声を出した。
「それじゃあ、頑張ってね桜井さん」
「はい」
 萩原さんは笑顔のまま部室から出てきて、廊下の反対側へと消えて行った。
「あら。ナツ」
 部室のハルは分かりやすく機嫌が良さそうだった。珍しく顔に表情がある。
「ゴキゲンだなちくしょう」
 俺は抱えていたブツをドシンとテーブルの上に置いた。
 ハルは刷り上がったものの仕上がりをチェックしていた。
「そうですか。あなたの目には機嫌が良く見えますか」
「違うってか?」
「いいえ。半分当たってます」
 ハルが顔を上げてこちらを見た。
「自分の中で新たな目標が生まれそうで、それが嬉しいんです」
 微笑みながらこんなセリフを吐くハルこそが俺には真の聖女に見えてくるのだった。
「じゃ、もう半分は?」
「お芝居の延長でニコニコしているだけですよ」 
 ニコニコしながらこれを言うのだ。
「女ってのは怖い生き物だな」
 そんな分かりきった事実はさておき、俺はテーブルの上の仕込みに目をやった。
「取りあえずは現在進行形のイベントをきちんとハッピーエンドにするためにも、明日これをみんなに見てもらおうじゃないの」
「ええ、そうね。あなたと二人なら、その後の大説教大会にも耐えられるでしょう」
 それはただ突っ立っているだけの大会なので、まあ楽勝だろう。
 
「お前らっ! 正気とは思えんな!」
 白髪混じりの天パとシミの浮き出た皮膚をお持ちの五十代の鬼が唾を飛ばして激怒している。卑屈そうな顔が彼のトレードマークだ。五十代男性のそんな顔は正直見てるだけでキツイ。彼は津崎という鬼だ。鬼の中での序列は低い方だろう。給金も低そうだ。
 こともあろうに彼は校長室で怒鳴り声を上げている。なんと恥知らずな鬼なのだろう。育ちが悪いか、やはり序列が低いかどちらかだろう。
「話を聞いとるのかお前らっ! おい! なあ!」
 残念ながら聞いていない。同じ鬼にでも話せ。
 ハルはというと、俺の隣で直立不動で黙って津崎の話を聞いているが、毎度のこと、コイツがただ黙って説教を受けている時は別の何かに集中している時である。
 ハルの真っ直ぐな目線を追っていくと、その先には澄まし顔をしているちょび髭の校長の禿げ頭があった。あれを凝視して楽しんでいるのだろう。
 俺はどうしよう。ただ無視しているのも退屈になってきた。
「ただでさえ学校が大変な時にこんな馬鹿げたことしおって! 一体何を考えとるんだお前らは!」
「津崎先生」
 校長が一声かけると、津崎の勢いが一瞬だけ止まった。
「もういいでしょう」
「校長! 何言ってるんです! コイツらにはガツンと言ってやらにゃ! 毎度毎度こちらの迷惑も顧みずに好き勝手しおって!」
「もう、いいと言ってるんです」
 校長が澄まし顔のまま圧を強めて言い聞かせた。津崎は憮然とした顔で黙り込んだ。そういうところが序列の低いところなのだ。雑魚鬼。
「君たちも、今回は大目に見るが、次はないと思いなさい」
 校長は面倒くさそうにこちらを見ながらそう厳命してきた。
 ようやく幕引きかと安堵し、適当にハイと返事をしようとしたところ、それまで大人しくしていたハルが急に口を開いたのだった。
「次はないとはどういうことですか」
 今度はハルの澄まし顔である。まあコイツの場合はいつもこうなのだが。
これには雑魚鬼も校長も驚きを隠せないようだった。
「何口答えしてんだ、おい!」
 鬼の大声が響き渡るが、校長ががなる彼を目顔で制して、自分が話をしようとした。
「だから、君たちが今回のような騒動を起こしても、見逃してやるのは今回限り……」
「見逃してやる?」
 ハルが物凄い眼力で睨みつけながらそこを指摘する。
 校長の顔に冷や汗が浮かんでいるように見えるのは気のせいか。この校長は去年の入学式、このハルにド偉い目に遭わされた経験をお持ちなので、もしかしたらその苦い記憶がフラッシュバックしているのかもしれない。
 ハルは相手が口を開くまでただただ一直線に睨み据えている。
「いや、まあ、なんだ。君たちも無許可にこういうことをしたのだから、一応学校側としてはその点について指導しなければならんということで……」
 ボス鬼がボソボソと言い訳めいたことを仰ってきた。そもそも悪さをした俺たちよりも校長の言い分の方が絶対に正しいはずのに、ハルは雰囲気だけでそれを覆そうとしているのだ。
「では、私たちは無許可でやったことについて注意を受ける為にこうして呼び出しを受けた、ということでよろしいでしょうか? 許可を得たかそうでないかの一点のみの罪状で」
 ハルの真っ直ぐな質問が狼狽気味の校長に真っ直ぐ飛んでいく。
「うん? ああ、まあね」
 こうしてハルの誘導により問題の重点は見事にずらされてしまった。本来ならば校長は俺たちがやったことの内容について言及したいはずなのだが、新聞部が活動する際にちゃんと事前申請したのかどうかに論点がずらされてしまったのだ。校長だって津崎のようにあんなことしやがってバカヤロー、停学だコノヤロー、などと言ってやりたかったはずだ。
 それができないのは俺たちのやろうとしたことをもし権力で黙らせたり、揉み消したり、あるいは下手人である俺たちを罰したりしてしまえば、学校側もそれ相応のあおりを食ってしまう恐れがあるからだろう。当然ハルはそんなこと織り込み済みであり、事後の説教は意外と避けられるかもしれないと俺に教えてくれていた。
 確かに校長の態度は明らかに踏み込みが甘かった。何かを警戒しているのがバレバレである。もし俺たちを罰してしまえば、それ自体がまた問題になってしまうからだろう。
 俺たちがやったことはもう衆目にさらされてしまっている。その周知の主張を学校長自らが否定するということはまた新たな問題を呼び起こすかもしれないということだ。
 校長が俺たちに手出しできないことを知っているハルは校長の形だけの上から目線の、その尻尾をつかまえて弄んでいるのだ。挙句にはしでかしたことの内容については不問にさせ、この校長室でのお説教も「無許可でそういうことをしたから」という垢抜けない理由に刷りかえるという豪快な荒業までやってのけようとしているのだ。
 そしてそれは認められ、俺たちは解放された。校長も津崎も最初からハルの掌の上の鬼に過ぎなかったのだ。約八年後、コイツが被選挙権を持つようになったら、この国はそこで終わりである。
 津崎の熱暴走した赤ら顔を横目に、俺たちは校長室を出た。
「ちょろかったなあ」
 俺たちは部室に向かって歩き出した。放課後の廊下はしいんと静まり返っていた。
「俺もああなっちゃうのかなあ」
 言いながら俺は自分の頭を触った。
「あなたはハゲないから安心してください。あなたはあらゆることにストレスを感じない特殊な生き物です」
「ものすごく適当なことをあっさり言うよね、ハルって」
 ここでもコイツは澄まし顔をしている。
 そんな俺の足元に、問題となっている自作の新聞が一枚落っこちていた。
 俺はそれを拾い上げ、改めて感心した。
「よく撮れてるなあ」
「あなたは画面をタッチしただけ。撮ったのはスマホという科学の結晶です」
「それを操ってるのが人間様でしょ」
 記事の一面には大きな写真が三枚掲載させられていた。ハルがパソコンソフトという科学の結晶を駆使してレイアウトを組んだグラビアだ。そしてその三枚の写真は、それぞれの事件の被害者とされている人物と加害者とされている人物が非常に友好的に握手をしながら、剰(あまつさ)えカメラ目線でピースなどもしている写真だったのだ。
 吉田すみれとその母。
 高屋美樹と木田涼子。
 沖田充と山尾先生。
 どのグラビアも両者ともに悪ふざけのようなポーズで戯れていたり、おどけていたり、悪戯っぽく笑ったりと、普段着の仲の良さがぎゅっと詰まった一枚になっていた。
 手の握り方も政治家のようないかにもな握手とは全然違う、握手の体(てい)を成していない自由気ままな握り方でやってもらっていた。木田さんなんか自分のほっぺに握った高屋さんの手を自分の手ごと持っていって擦りつけているような写真になってしまっている。
 そしてこの新聞記事の見出しはこうだった。
『勝手に事件を大きくした大衆』
 この記事が何を言いたいか分からない人間はアホすぎるので、おそらく進学校の茜灯高校には一人もいないことだろう。
 本当は事件など何も起きていなかったのだ。どれもこれも写真に映っている両者の間だけで終始できるはずの問題だった。それで万事解決できるはずのことだった。
 それを大事にしてしまったのは、生徒、保護者、そして学校。つまり部外者たちだ。
 当事者以外の人間がイメージ先行で事件を捉えてしまった。たったそれだけのことで小火(ぼや)騒ぎが大火事にまでなってしまうのだ。
 愚かで浅はかな大衆と学校。先入観や印象のみで事件を切り取り、勝手に解釈し、事実とは違うレッテルを貼る。当事者間で解決できたはずの些末な問題を、自分たちの身勝手な思い込みで大げさにし、何の問題も無かった当事者たちを無駄に責め苛んだ。不登校や謹慎という実害すら出すほどに。
 記事の内容はそんなようなものだった。
 俺とハルは朝六時に校内に侵入し(これは一度やったことがあるので可能だということは知っていた)、この新聞を学校中に貼りまくったのだ。警備の見回り時間と見回りのルートに関してはすでに下調べは済んでいたので、貼りつける場所と順番を間違わず、かつこっそりやれば、当局が事態に気付くころには取り返しのつかない量を貼り出すことが可能だと踏んでいた。
 それに本日は授業参観日であり、茜灯高校では朝のホームルームから参観が可能となっているため、始業前から保護者が校内をうろつくであろうことも見越していた。そして実際そうなった。そうなってしまえば学校側にも事態の収集が難しくなる。
 無論、俺たちは職員室を混乱させようとしてこんなことをしたわけではない。この記事を生徒の目にも保護者の目にも触れさせることこそが新聞部の最大の狙いだったのだ。一連の事態を大事に仕立てた大勢の姿なき実行犯たちに直接その記事を、その事実を目の当たりにしてほしかった。
 かくして俺たちの仕掛けた大型爆弾が朝も早よから大爆発し、更にそれが様々なルートから連鎖爆破を引き起こし、全校生徒のほぼ十割と大半の保護者がその記事を知るところとなった。
 学校側には当然許可など取っていなかったが、グラビアに映っている六人には事前に許可を取っていた。写真を撮らせてもらったのだから当然なのだが、一応それでもこれを参観日に貼り出すことには許可を取りつけておいたのだ。これを掲載しバラ撒くことであなた方に迷惑がかかるかもしれないと断りを入れなければならなかったからだ。
 六人ともそれには異論も文句も不平もなく、彼らは意外なほどすんなりと了承してくれた。俺たちがこういう企画を提案したことでみんな気付いたのかもしれない。本当に戦うべき相手は勝手に一人歩きしているイメージとやらだと。
 さて、学校側はどう出るのか。あるいは保護者側はどう働きかけるのか。教育委員会まで情報はいくのか。あとは待つのみ。
 賽は振られたのだ――。
 
「ナツ、お前そういや課題出してなかっただろ?」
 廊下で捕まってしまった俺は、やっぱり家で大人しくしてやがれと心内で呪っていた。
「先生が謹慎してる時に他の先生に提出しました」
「何先生?」
 凶悪な目が俺を睨みつけている。もはやここまで。観念して平謝りでいこう。
「ちょっと忙しかったもんで、つい」
 チラとジャージ姿の教師を見上げると、人を殺す直前の目つきの女とバッチリ目が合ってしまった。
「忙しいからという理由で義務をサボるような大人になるな。あんたらを待っている社会はあんたの忙しいという都合にいちいち合わせてくれない。忙しいからこそ、その中でもきちんとやるべきことをやる人間になりなさい」
 そう言われて頭を軽く小突かれた俺は、去り際の先生の微笑みをこの目で見た。
 謹慎が明けた山尾先生は普通に先生をしていた。自分の基準を振りかざしながら。
 もちろん、教師をやめることなく。やめさせられることもなく。
 ……くそ。いてーな。
「白石君」
「え!?」
 何故か大慌てで振り返ると、そこには笑顔の吉田さんがいた。一応この表情は「笑顔」なのだろうが、やはり目だけは攻撃的なのだ。
「ああ、こんちは。ちょっと厳しいだけのお母さんはお元気?」
 俺は嫌味たっぷりに挨拶した。むしろ虐待事件の元凶はそのたった一事に尽きるというのに。
「ええ。白石君から見るとさぞかし厳しそうな人なんでしょう。勉強の鬼なんだから」
 向こうも嫌味たっぷりに返してきた。
「でも吉田さんは全然気にならないんでしょ?」
「ええ。子供の頃からああだから。私にとってはアレが普通。でも、きっと人それぞれの普通があるんだよね」
 そういうことなのだろう。勉強に厳しく多少折檻するようなことがあっても、それが普通かそうじゃないかの基準は、そうじゃない人達が決めることではないのだ。それで平気だし、かつ文句もなく親のことも大好きで関係も良好という親子だっているのだ。もう目の前にいる。
 彼女はその良好な関係性を虐待とされたことにショックを受けていたのだ。そもそも虐待などと感じたこともない吉田さんにとっては。
「お母さんが、今度お礼がてらあなたたちをうちに呼べって」
 吉田さんは地獄からの招待状を持ってきたようだ。
「いつかそのうちと、曖昧にしてもらえれば助かります」
 俺は苦笑を隠さずそう答えた。
「OK。任せて」
 笑顔で吉田さんは消えて行った。
 任せて?
 どっちの意味だ?
 とりあえず、吉田さんと保健室で顔を合わせることはなくなった。健康な人には特に用の無い場所なのだから。
 高屋さんらのクラスの前を通りがかると、さっそく騒がしい声が聞こえてきた。教室の入り口付近でグループになって戯れている一団がいる。
 その中には笑顔の木田涼子ともっと笑顔の高屋美樹もいた。
 俺に気付くと二人は廊下まで出てきてくれた。高屋さんに覆いかぶさるような格好で大柄の木田さんが後ろから親友に密着していた。そして後ろから高屋さんの頬を潰したり戻したりして遊んでいる。どちらも楽しげで幸せそうだ。
「やあ白石君。私のこの扱いと白石君の桜井さんにされる扱いとどっちが哀れなんだろうね」
 頬を弄ばれながらむにゃむにゃとそんなことを気にしている高屋さん。哀れと言いながら見るからに生き生きしている。
「そりゃ俺だろ。高屋さん人間じゃん。俺には人権が無いっていつも言われているし」
「かあ。桜井さんスパルタねえ」
 的外れなリアクションをする高屋さんは高屋さんらしいと思った。
「ねえ、てか、桜井さんは?」
 元いじめっ子が高屋さんに覆いかぶさりながら訊く。
「また新たな記事書いてる」
 内容は知らない。
「白石君のお姉さんにお礼言っといて欲しかったんだけど」
 頼み込むように目を細めて木田さんは言う。
「私の気付かないところですごく優しくしてくれたらしいんだよね、お姉さん。だからさ」
「言っとくよ」
「よろしく」
 仲間に呼ばれて二人は教室へと戻っていった。俺はその様子をなんだかじいっと眺めてしまった。
「今、私の悪口言ってませんでした?」
「うわ!」
 いきなりハルが湧いて出てきた。
 いきなり会うと何故かとても綺麗な女性だなと思ってしまう。これをハルだと認識してしまうともうどうにもならないのだが。
「言ってませんでした?」
 形の良い目が見上げるようにして俺を睨みつけてくる。しつけーな。
「そりゃ言うよ。俺はお前のいないところでは常にお前を貶(して生きてるんだから」
 俺がこう言うと、何故かまた天使のように微笑んできて、こんなことを言うのだ。
「お互い様ですね」
「最低な関係性じゃねーか」
「慣れれば平気です」
 そう言ってハルは教室の方を見渡した。慣れたくはないんだけどね。
 俺は、いつの間にか微笑みを消していたハルの横顔を見ていた。今がちょうどいい不機嫌さかもしれない。これぐらいが一番綺麗になる。
「全て元通りになっていく」
 ハルが呟いた。
「謹慎が解け、保健室通いがなくなり、不登校がなくなった。それぞれから感謝もされた。全てが元通り。全ての印象が元通り……」
 俺もハルもこんな結末を望んであの記事を学校中に貼りつけたわけではないが、これはこれでいいのかも。
 そう思いながら俺はまだハルの横顔を見つめていた。
「混沌が去り、ようやく平和と退屈が戻ってきました。平和だったあの日々が戻ってきました。でも少々物足りない」
「そう」
 そのハルの見つめる先には萩原さんの姿が無かった。
 その日から萩原さんは不登校となり、二度と学校に戻ってくることはなかった。

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