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妹は知らない⑥

  6

 令和四年7月10日。

「めちゃくちゃ儲かってるわね、零の会って」
 宝生は日々の部屋に入るなり、さっそくそれを言った。
 日々がリビングにいる時はリビングで、自室にいる時は自室で密談は開始される。自室の場合、宝生は日々のベッドに腰かけ、部屋の主は散らかりすぎている部屋の床で、器用に物体を避けながら胡坐をかくのだった。
 労働の義務を果たしている月見は今日も今日とて出勤していた。
「あなたが昨日、副代表の御国に浴びせていた嫌味の内容が少し理解できたかもしれない」
 宝生はそれこそ嫌味な微笑みと共にそれを言った。
 日々は画面をいじるでもなく、終始スマホとにらめっこしていた。それでも耳は全方向にアンテナを広げているような男なので、たとえ日々がゲームしている横で会議を開いても、同時進行で話にはちゃんとついてくることができるのだ。そういう特殊能力を持っている男だった。
 そして日々はその視線のまま口を開いた。
「前にテレビで熊田代表が話しているのを見た。クラウドファンディングで零の会の活動資金を得ているとか」
 宝生は相手が見ていなくとも頷いた。
「要するに、ネットを使って賛同者に寄付を募るみたいなやり方ね。これが昨日あなたが言っていた上手いやり方ってわけね」
「零の会の賛同者など想像以上にうじゃうじゃいるということだ。それがそのまま零の会がどれくらい儲けることができるかの指標となる。そいつらがクリック一つで零の会の口座に金を送りつけているのだから」
「資金提供してくれる賛同者が容易に集まると踏んで会を設立したってことね」
「当然だ。毎日垂れ流されているネットニュースに対するユーザーのコメント欄を見たことがあるか?」
 日々はまだスマホとにらめっこしていた。
「ないわね。ネットの意見なんて興味ないもの。書き込んでいる人間はそれが世界の全てだと思い込む傾向があるから、そこで賛同を得られた自分の意見が多数派だと思いこんでいるのかもしれないけど、そもそも、ネットニュースのコメント欄を真剣に閲覧している人間の絶対数自体が少ないものだから、どんなに「いいね」を押されたところで、それが多数派になることは絶対にないわ。相変わらず少数派のまま。私はそこに民意も総意も無いと思っているの。あるのは常に狭窄的視野の個人的な感情論だけ。それがどんなに冷静な意見に見えたとしてもね。だから見ない」
 宝生は膝で頬杖を突きながら、どこかうんざりした様子で自論を述べた。
「ネット上の掲示板なんてどこもそうさ。参加している奴等にとってはそこで議論されたことがこの世の唯一の真実みたくなってしまう。狭い世界で、その狭い世界に住んでいる狭量の人間達だけで意見し合うことに、実は何の向上も新発見も無いというのに。あるいは、世の中を俯瞰できている自分たちだけが高尚で特別な存在であると思い込んでいるだけなのかもしれないけどね。ネット上に匿名で何かを意見できるということは、自分の中だけの「正しさ」を振りかざすことができるということ。しかもそれで賛同でもされてしまえば、その狭い範囲の中だけで通用するはずの「正しさ」がその者の唯一無二の真実と化してしまう。ほら、世の中をわかっているでしょ、と傲慢になる。特別になる」
「内弁慶なところがむしろ匿名世界での傲慢さを生み出す要因となっているのかしら」
 宝生が楽しげに茶々を入れた。日々本人に向けて。
「自分の持っている正義がちゃんと正しいものであるということを認め合いたいのさ。心から話し合える相手のいない連中がこぞってネットの向こう側にその臆病な承認欲求を求めようとする。正しいはずの自分の人生がうまくいかないことの代償を、腹いせを、正しくないと見做した何者かを叩くことで清算しようとしている乱暴な無法者どもがその正体だ。身勝手で闇雲な自己救済措置を盲目のまま振り回し続けているのさ」
「自己救済――」
 どこかあざけるかのように、皮肉るかのように、日々は笑った。
「人生がうまくいかないのは自分の無能さの結果だとは考えないらしい。自分はこんなにも頑張っているのに、苦しい思いをしているのに、報われないのは不条理であると世を憎み、正しいはずの自分が誰にも認められないのは認めてくれない側全体の見る目の無さであると断定し、これを敵視する。そこに登場したのが彼らの仮想敵を退治してくれる新勢力だ。正しくない連中を懲らしめてくれる正義のヒーローだ。何故零の会に糾弾された側が無能どもの仮想敵として選出されたのかは何となくの曖昧な基準でしかない。感覚的で恣意的な無理性的判断でしかない」
 宝生はめんどくさそうな愛想笑いをわざと日々に見せつけた。はいはい、そうですね、というメッセージだ。
「不平不満でパンパンに膨れ上がった連中がこぞって参加しているネットニュースのコメント欄なんかを見ていると、そこには様々な共通点が浮かび上がってくることがわかる。まずはどうせ似たような奴らがコメントなんて行為をしてしまうってことだな。わざわざ「コメントなんてものをする人間」という時点ですでに少数派だというのにね。そして、彼らの数ある共通点の中でも最大公約数が犯罪に厳しいという点。しかもその理由は簡単で、自分たちは法を順守して正しく生きているし、それこそが自分の正しさであると信じて生きてきた、なのにどうしてコイツは、という不満とやっかみ根性、それと大っぴらに叩いてもよい「悪」、気兼ねなく叩ける条件がそろったその「悪」を叩いてやろうという加虐精神がブレンドされたどす黒い感情こそその由来だ」
 すらすらとこれを語る日々は伊達に引きこもっていないということだ。ネットサーフィンをしながらも、ちゃんと脳を動かして分析なんてことをしていたということだ。
「……つまりは、クラウドファンディングを通じて犯罪に厳しい零の会に資金提供しているのは大半が自分が正しいと思っている勘違い連中だってこと?」
「ああ。この世で最も多い人種だ。ズレた自己救済しか考えていない連中のやっかみ根性にカタルシスをもたらしてくれる唯一の存在。その正義を応援している自分自身が正しい存在であると胸を張りたい欲求がまんまと満たされるわけだ」
「相変わらず、嫌な言葉しか選ばないわね」
 宝生が呆れた表情で指摘した。
「褒め言葉か?」
「いいえ。全然。でもそのまま喜んでくれて結構よ」
「俺はね、零の会がクラウドファンディングを利用して活動資金を調達していると知った時から、ずっと疑っていたんだ」
 僅かに目を細めて、日々は言った。
「集められた金額は、きっと莫大なものであり、会の活動資金などその割合からすればほんの一割二割に過ぎないであろうということ」
「それってつまり、指で数えられる程度の賛同者が送金しているのではなく、もっと桁違いの大人数が大手を振って金を寄越していると?」
 日々は首を縦に振った。
「間違いないね。お前も調べているうちに儲かっていることを確信したんじゃないのか?」
「集められた資金の合計まではさすがにわからなかったけど、どのくらいの人数が支援しているのかは大体把握できたわ。それだけで十分、資金の規模の大きさを想像できた。でも一番強く零の会が儲かっているだろうと思ったのは、今あなたの話を聞いた時なんだけどね」
「さっきお前はネット上で盛り上がってるだけの賛同者など、飽くまでも少数派だと言ったな」
 猫背だった日々が背中を反って、両手を後ろで突いて体を支えた。宝生は目だけで頷いた。
「それはそうに違いないだろうな。日本国全体からすると、何かを変えるに足る人数には程遠い。マジョリティに達するには桁違いに数が少ないんだ。ゼロの数が二つも三つも足りていない。しかし、一つの組織を活かす分には実は多すぎるのさ」
 またわけのわからないタイミングで日々は優しげに微笑んだ。
「そっか。私の考えていた少数派とは、飽くまで国レベルの話では少数派になるってことね。これを一企業並みのミクロの視点で見ると、逆に多すぎることになるのか」
「ああ。死ぬ程いると言っただろう。罪を暴けば暴くほど、それが報道されればされるほど零の会の正義は光を浴び、賛同者は増え、寄付は膨らむ」
「それが、あなたが昨日指摘していた上手い商売の全容ね。未発覚の犯罪を商品にするというのはこういうことだったのね」
 宝生は金目の話を茶化すというより、商才を褒めるかのように嘆息を漏らした。
「賛同者にとってそれは売れ筋の商品と同じなのさ。金を出してでも買いたいんだ。そうして告発の成果が報道されるたびに零の会には金が舞い込んでくる。それが奴等の仕組みだ。それも莫大な数。こんなボロい商売は無い」
 日々もまたそのやり方を発見した人物を表情で賞賛しているようだった。
「隠された犯罪を糾弾する正義の集団が、一方で大儲けしている。もしこれが設立当初からの目論み通りだったとすると、零の会の本来の目的は何なのかということになってくる」
「つまり、犯罪者を野放しにはしないという彼ら独自の正義の追求とは別に、お金を集めることに執心している節があると。そしてそれは何の為かということね」
「ああ。もしこれが当初より予定していた零の会の在り方なのだとしたら、そこで発生しているはずの有り余る資金はどうするつもりだったのか。ここまで大儲けできるということを予想していなかったはずがないのさ。この仕組みを考えた時点でそれは絶対にそうなのだ。ただ幹部たちの金儲けのための活動だったのか。それともその有り余る資金を使って何かを成すつもりだったのか。零の会を潰すとしたら、そこに鍵があるのかもしれないということだ」
 日々が結論部分を述べたところで、ようやく彼の目に昨日と打って変わってスーツスタイルの宝生が映り込んだ。
「寝不足のようだな」
「おかげさまで。あなたと違って忙しいのよ。ああ、こんな嫌味しか出てこないわ。処理する仕事がもう一つあるのよ」
 ほう、と日々はマジマジと似合わないしかめ面を見せてくる宝生の顔を覗き込んだ。
「英雄死の事件だな」
 日々は断定的にそれを指摘した。
「なんでわかるのよ。正解だけどさ」
「俺の勘でしかないことだが、実は報道されている英雄死はほんの一部で、似たような事件はもっと起こってるんじゃないか? それを政府の都合で可能な限り封じ込めている」
 宝生は思わずやれやれと首を振った。
「それで、そっちの解決にも私が動いていると踏んだわけ」
「認めるんだな」
「今のところ報道に圧力をかけるくらいのことしかできないけどね。死を厭わない英雄たちのムーブメントにならないように、国民の知る権利を奪い続けるの」
「政府が嫌がっているってことか。ああ、そーか。犯した罪よりも刑が軽いと思われている元凶悪犯が狙われているとなると、普段悪いことやってるくせに何のお咎めも無い自分たちも狙われるかもしれないって考えたわけだ。与党のお歴々たちは。そーかそーか」
「何がそーかそーかよ。そう思ったから私が動いてるって推測したんでしょ、あなたは。ま、大枠はその通りだけどね」
「確認されているだけで何件だ? 報道されているのは三件だぞ」
「十二件」
 日々が少し目を丸くした。
「多いな。いや、変だな」
「ええ、変でしょ。ちなみに世間の人たちの知っている三件は、どちらかというと後半の三件。初期の半分は誰も知らないはずだった。最初の一件はフィリピンでのことだったから、報道すらされなかった」
「そりゃ変だな。知らないはずの英雄たちの真似をどうやってするというのだ。お前がそこまで報道を抑え込んでいるのに、十件以上にわたって模倣犯が続出したってことだろ。これはつまり……」
「何者かの意図があるということ。偶発的な流行なんかじゃない。誰かが指示している。だから忙しいって言ってんのよ」
「なんだそれは? あいつを殺してお前も死ねと、そんなことを指示されてホイホイ承る人間が十二人もいるってことか?」
「あら、興味湧いてきた? いいのよ、あなたが解決してくれて」
「月見が元凶悪犯とやらになった時に考えるよ」
「現政権が崩壊したら少なからず月見ちゃんにも被害が及ぶって考えない?」
「電話、鳴ってるよ」
 宝生のショルダーバッグの中からブーブーと振動音が鳴っていた。
「樹だわ」
 スマホを取り出した宝生は振動音が続く中、ジロリと日々を睨みつけた。
「あなた、私のスマホの方に連絡するようにって言ったんでしょ」
「今日はだって、俺のスマホは別のことに集中してもらわなきゃならないからね。そうだろ?」
 日々は手に持っているそれをぶらぶらと掲げた。
「効率的な人は意外と嫌われるのよ」
 宝生はスマホをハンズフリーの状態にしてベッドに置いた。
「もしもし、水城ちゃん?」
 樹の声だった。
「ええ。日々もいるわ」
「いてくれなきゃ困ります」
 樹にはすでに事情を話しておいた。
 日々が少し身を乗り出して話しかけた。
「なんだ、こんな朝っぱらから」
「あのね、僕は水城ちゃんのスマホに連絡しろと言われてるんだから、お二人がお会いになる時間に電話しないと意味ないでしょ。あと、もう朝っぱらっていう時間じゃないですよ。先輩のそういう突き放す態度が……」
 樹はペラペラと言いたいことを言い募ったが、日々は半分くらい聞いていなかった。
「あ、先輩、全然聞いてませんね。せっかく親切心で零の会について知ってること教えてあげようと思ったのに」
 樹は電話越しでも口をとがらせていることがわかるような声を出した。
「樹、日々の為に何かをするって考えるとやる気をなくすだけよ。これは月見ちゃんの為だって考えれば何かしようって思えるはずよ」
 宝生がなだめ、日々は物言いたげな視線を宝生に送っていた。
「月見ちゃんには力になってあげたいですね」
 樹は納得し、日々の不満だけが残った。
「あのですね、最近僕への依頼が急増しているんですよ。それは何故か」
 樹は次に吐く重要なセリフをそうやって演出した。
「実は全部零の会のせいなんですよ。いや、零の会のお陰って言った方がいいのか」
 日々がこれにすぐに反応した。
「そうか。お前を使って探りたいのは企業スパイがいるかどうかではなく、零の会に嗅ぎまわられていないかどうかだったわけだ」
「そういうことです。みんな不安なんですよ。薄皮一枚めくればどこの会社も不正だらけですからね」
「実際樹が摘発して追い出した例なんてあるの? 零の会の調査員を」
 宝生が興味津々で訊いた。
「ありますよ。これまで三人追い出してやりました」
 ここで日々が笑った。
「それがお前の正義というわけだ」
 正義を実行しているはずの零の会を追い出し、不正を行っている企業を守る。樹のやっていることとはそういうことなのである。
「もちろん。これからもそうですよ」
 樹は自信をみなぎらせてそれを言い放った。
「みんなそうだよ」
 日々も何か言った。
「それで、樹。KSマーケットも同じような依頼だったってこと?」
 宝生が話題を軌道修正した。
「ええ。調査自体はあと一週間くらいやる予定なんですが、今の段階だと零の会に潜入されているようなことはないですね。きっとこれからも出て来ないでしょう」
 樹は断定的に聞こえるような言い回しをした。
「どうして言い切れるのよ」
「零の会ってのはね、水城ちゃん、システムは素晴らしく効率的で美しくもあるんだけど、それを実行する人員は素人に毛が生えた程度のやつらしかいないんですよ。僕や水城ちゃんみたいなプロからしてみれば、それはもう明らかなド素人。正義感に駆られた人間が入会してくるだけで、間諜になるための試験があるわけではないからね。何が言いたいかと言うとね、僕からしてみればすぐにわかっちゃうの。そいつが本当に社員なのか調査員なのかなんて。だから断言しちゃえる。KSマーケットに零の会は潜入していない」
 樹はまたも言い切った。
「てことは、月見ちゃんの会社が狙われているわけではなかった……」
 宝生は安心と不安が入り混じった言葉を発した。
「おい樹。調査員が下手クソだっていうなら、どうやってあいつらはバンバンスクープを挙げているんだ?」
 日々が自分の気になっていることを訊いた。
「そこですよ。先輩。僕はかつて追い出した三人の調査過程を僕なりに検査してみたことがあったんですよ。そうしたらやはり、三人とも、不正の証拠まであと一歩のところまで手が届いていたんですよ。それも最短距離で」
 ここで日々は結論が何か見えた。
「てことはだ、案の定、零の会は九割方情報が出揃っている依頼しか受け付けないということか。それなら素人でも何とかなるくらいの難易度だったわけだな」
「そういうこと! 正義の組織を標榜しているくせに、あいつら、成功する依頼しか受け付けないんですよ! 巨悪であろうが小悪魔だろうが、いけると思ったものしか採用しない!」
「結局は人気取りか金儲けでやっていたということだな。成功実績をメディアが垂れ流しにすることを利用して。これでだいぶ零の会の実態が見えてきたな」
「ほらね。僕が役に立ったでしょう。今後も無下にしない方がいいですよ」
 相手に押し売りするような言い草だった。当然日々は聞いていない。
「樹、お前は相馬の身辺を洗ったんだそうだな」
「ええ、誰かさんの御指示で」
「出身大学は?」
「北海道の札幌白馬大学です」
「え?」
 とここで宝生が何かを思い出した。
「白馬大? それって熊田記理子と同じはずよ」
「ああ、やっぱりか」
 わかっていたような顔でわざとらしくニヤリとする日々。
「あの二人、同じ大学の出身だったのね……。というか、あなたどうしてそんなこと推測できたのよ。その仮説はどこからもたらされたものなの?」
 宝生が日々に目顔だけで詰め寄った。
「いや、点と点が繋がってくれればいいなあ……、程度に思っていたことが見事に繋がってくれたってだけのことだよ」
「だからどうしてよ!」
「先輩、それ僕も知りたいです」
「お前の情報が役に立ったからさ、樹。特に昨日の……」
 ここで何やら考え込んでいた日々が口を開いた。
「なんです?」
「昨日の謎の十万だ」
「ああ、最初に引き出した十万のことですか。まさか、あれの使途が判明したんですか?」
「おそらく、実際に使用した正確な金額は、99500円」
 日々が具体的な数字を出した瞬間、電話越しの樹の驚く声が日々の部屋に響き渡った。
「ちょいちょいちょい、何でそんなこと分かるんですか!」
 宝生が不思議そうな顔でどういうことかを日々に訊ねた。普段は表情の薄い宝生だが、心から驚かされた時などは少女の顔になってしまう。
「指輪の値段だよ」
 種明かしは一瞬で終わった。日々は税込みでね、とも付け加えた。
「月見が相馬から贈られた指輪。俺の記憶の中にあるあの指輪の画像だけを頼りに、一晩中情報の渦の中を泳ぎまわっていた」
 日々はチラと黒くなっているパソコンの画面に目をやった。
「徹夜の甲斐あり、あの指輪は札幌にしか展開していないジュエリーの安物であることがわかったのさ」
「それで札幌に何かあると思っていたのね」
「そんであの熊田の指輪の跡。あれが月見と同じものであれという願望の元、一番面白い仮説を立てて一人で遊んでいたんだ」
「それはそれは。英雄ね」
「それなら熊田も札幌に、あるいは相馬に関係があるという図式になる、面白いことこの上ない」
「月見ちゃんの指輪と同じものかもしれないというのは、あの口座の十万から推測したことね」
「ああ。最初に引き出したのが十万。最後に引き出した記録も十万だった。同じものを買うために引き出したもんであれと」
「願望していた」
 日々は頷いた。
「想像の中だけで死ぬまで楽しめるやつね」
「まあね」
 面白い仮説が面白い現実になったと日々は嬉しそうに言った。
 これに樹が反応した。
「熊田記理子は、一千八十万円の出所を知っているのかもしれませんね」
「さあ、どうだろうな」
 答えを避けている割に、自信しか感じられないその微笑は何なのかと、宝生は訝った。
「それにしても変ね。もし日々の仮説が現実だとしたら、どうして相馬は同じ口座から引き落としたお金で二人ともに同じ指輪を贈ったのかしら?」
「真っ当な金でもなさそうだしな」
 日々はそのことを確信していた。
「罪を犯して得たお金で愛を買っているとしたら、気味が悪いわね」
「面白い言い回しをするなお前は」
 日々が宝生を褒めた。
「ねえ樹、お願いがあるのだけど」
 ここで宝生がスマホに身を寄せて話しかけた。
「なんすか?」
「熊田代表と相馬の関係を調べられない?」
「そういうことは水城ちゃんの方が得意じゃないですか」
「私は日々のお守りがあるから身動きが取れないの」
 日々は何も言い返さず、それもそうだなあという納得の顔を見せている。
「調査自体は簡単でしょ。それに、日々のためではなく月見ちゃんのためだと考えればやる気になってくるでしょ」
 そうやって宝生はまたまた最後のスイッチを押した。電話の向こうの男はOKして電話を切った。
「いやはや、まさか人の妹を無断で取引材料に使うとはね」
 日々がまず嫌味を放った。
「月見ちゃん可愛いから。しかも人に愛される可愛さ。彼女をだしにしてお願いをするとアラ不思議。すんなり話がまとまる。物事がスムーズに進む。兄に不足している栄養素を兄の分まで体に保持している健康優良児。それが月見ちゃんよ」
「その逆もまた然りだな」
 宝生の指摘など特に気にしていないことを、その素っ気ない態度で表明しながら日々は言った。そして何故か宝生はそれを嬉しがった。
「そうかもね」
「なんだよ」
「別に。それよりも、だんだんとあなたの仮説が正しい気がしてきたわ。同時に相馬という男がどんどん怪しくなっていく。同じ指輪を、謎の口座から引き出したお金で、二人の女性に贈るなんて、何考えてるのかしら」
 この疑問に日々はちょっとした遊びを思いついたみたいに宝生の顔を見上げ、小憎らしい表情で答えた。
「自分で言ってたじゃないか、罪を犯して得たお金で愛を買っているって。謎の答えはそこにあるんじゃないか」
「言ったわ。言ったけど、今聞いたらまるで謎の因果関係よ」
「それが謎と思っているのは俺たちだけで、それも説明されてもわからない程の謎で、それでも本人にしてみればそうすることが当然なんだろうな」
 宝生は特に疑問にも思っていないような日々の顔を見て少しだけ納得した。ああ、コイツも似たようなものなのだと。
「あ、動いた」
 日々が突然スマホに視線をおろした。。
「あら、もう? それじゃあ行きましょうか」
 二人同時に立ち上がり、足早に駐車場に停めてある宝生の車へと駆けこんだ。
 尾行の開始である。
 宝生はこの日、日々宅へ上がる前に日々特製の発信器をマンション周辺に停めてあったある車に取りつけたのだった。
 もちろん、それは日々の指示だった。
「昨日、お前と出かける時と帰ってきた時、二回見かけたんだ。同じ女がマンションを張っているのを。往きと帰りで張っている場所がズレていたのは、きっと張り込みを悟られないために場所を固定することを避けていたためだろう。往きの時は路駐している車にその女は乗っていた。眼鏡をかけた冴えない女だった」
 宝生の運転技術により尾行はスムーズにいった。
 日々のスマホの地図に贈られてくる発信器からの情報を基に宝生は車を走らせた。
「よく気付いたわね」
 宝生が前方を見ながら助手席の男に言う。
「零の会に張られているという想定で外を見てみると、あの眼鏡の女がよく目立っていた。それだけだ」
「そうじゃないわよ。私が以前にあなたに渡された発信器のストックをまだ持っているなんて、よく気付いたわねってこと」
 それで昨日の夜に日々から連絡がいったのだ。車の車種と女性の特徴を詳細に宝生に告げて、その車に俺が以前渡した発信器を取りつけろと。
「お前が捨てているはずがないと思ったのさ。役に立ちそうなものは残しておく女だからな」
 この言に宝生が反応した。
「役に立つって、あの発信機はあなたのスマホにしか情報を送らないじゃない。私が持っていてもしょうがない物よ」
「だから言っている。役に立ちそうなものは利用すると。俺も含めてな」
 妙に納得してしまい、反論を控えた宝生だった。
 てっきり昨日訪れた事務所に向かうものだと思っていた発信器搭載の車は、尾行しておよそ二十分、別の場所で停止した。
 そこには安くも高くもない、古くも新しくもない、老朽化もまだ始まったばかりのマンションが建っていた。
 二人は路地に入り、端の方に車を停めて下りた。そしてマンションの正面に回った。
「ここは……」
 宝生が何かに気が付いた。
「何だ?」
「熊田代表のお住まいよ」
「それはそれは……」
「どうやらあの張り込みの女は代表に会いに行ったらしいわね。他に人のいる事務所ではなく、自宅に直接」
「てことはだ。今まさにこのマンションのどこかの部屋で報告会が行われているということか。それと、今後の方針説明会も」
 二人は一旦、正面入り口が見える路地の角まで引き返した。
「どうします?」
 宝生は日々の指示に従おうとしていた。それを面白がっている節もあった。
「何のためにお前にスーツで来いと指示したと思ってんだ。報告会終わりにマンションから出てくる尾行女にお前が近づくんだよ」
 自分には出来ないことを女性に押し付けようとする日々だった。
「近づいてどうすんのよ」
「同じ任務でここに呼ばれたと嘘を吐け。そしてまだ何も聞かされていないので、不安だから任務の概要だけでも教えてと言え」
 日々は人に仕事を押し付けておきながら自信満々の顔をしていた。そして一体どこから取り出したのか、度の入っていない黒縁の眼鏡を取り出し、宝生に手渡した。
「今日だけはあの女に見られないように注意してマンションに入ってこれたが、これまでに何度かマンションの出入りを見られている可能性が高い。普段着のお前を。眼鏡もかけていないお前を」
 宝生は眼鏡をかけ、思わずため息を吐いた。
「まさかここまで見越して私にスーツを着せてきたとはね」
「大丈夫だ。きっとうまくいく。俺が保証する」
「根拠は?」
「お前の嘘は上手いということを俺が良く知っているからだ」
 ここでも何故か日々が自信満々の顔を宝生に見せつけたのだった。
 宝生はフッと笑った。
「あなたは人を見る目がないわね」
「それも嘘だ。ああ、来たぞ」
 玄関の方に動きがあったようだ。
「お前よりスーツの似合っている女の登場だ。お前は全然似合っていない。眼鏡も似合っていない。だから別人にもなれる」
 宝生は路地から出た。
「素敵な褒め言葉ね」
 宝生は玄関から出てきたその女性と、玄関先で、真正面から向き合うような位置取りで出くわした。そして、軽く会釈してきたその眼鏡の女性に対し、宝生は小首をかしげてこう言った。
「えと、もしかして、代表に呼ばれて?」
 わざと「熊田さん」ではなく「代表」と使った。零の会の仲間であることを暗に含ませたのだ。
「え? あ、じゃあ、あなたも……」
 想像とぴったり一致するような薄暗い声で彼女は言葉を漏らした。眼鏡越しの視線はどんな相手であろうと卑屈さを感じさせてしまうような、疑り深いものであった。
 それでも宝生のことはまるで知らないような素振りだ。変装が成功したのか、もともと目撃されていなかったか。あるいは樹の指摘通り、何の警戒心もない単なるド素人なのか。
「ええ。川瀬月見だっけ? たしかそんな名前の人物の調査で呼ばれたのよ。あなたも同じ内容の?」
 相手の目を見て、自然体で。
 こういう嘘の吐き方はたしかに得意かもしれないと、宝生は自分で感じていた。
「ええ、それじゃあきっと同じね。あなたも何も聞かされてないんでしょ」
 ここにはいない誰かを非難するようなその目つき。感情優先型。イコール、ド素人確定。宝生は慎重に次の一手を選んだ。
「ええ、そうなのよ。もう不安で。本当に何も教えてくれないの?」
 相手は小刻みだが力強く首を振った。
「何にも。これがいつもの任務だったら、零の会が手を付けた時点である程度証拠集めは出来上がってるわけじゃない。犯罪自体は確実にある。あとはどうやってそれを証明するかってだけの話。でもこの件に関しては犯罪があるかどうかも確信がないじゃない。きっと何かあるはずだから探ってくれだって。そんな簡単に言われてもねえ……」
 見るからに不満気なその表情は、見ている者も不快にさせるほど醜かった。
 それにしても、不満の源泉に関して簡単に人に垂れ流してしまう。宝生はラッキーと思う反面苛立ちもあった。もっとしっかりやれと。樹の評価は間違いではないらしい。
「覚せい剤の一件は、やはり偶然と……」
「ああ、はいはい。あれね。私じゃないんですけどね。同じ任務で動いていた別の人が取り敢えずターゲットのマンション張ってたら、マンション内で噂になってた放火魔を偶然見つけちゃって、慌ててそっちを追っかけてって、その結果大物釣っちゃったって感じみたいですよ。それだって、出された指示があんな曖昧なものだから途中でターゲットを変えてもいいやって判断できたわけで、まるで偶然の産物なんですよ。こういうのなんて言うんでしたっけ……、怪我の功名? 不幸中の幸い?」
 宝生は頭の中で情報を整理しながらも演技を続けた。
「ああ、やっぱりその程度の曖昧な指示でしたか。なんなんでしょうね、一体」
「さあ。もしかしたら、意外と重要な任務かもしれないですね。あんまり表沙汰にできないことの処理を任されているのかも……」
 最後にはしっかりとプラス思考になったその女性と別れ、宝生はエントランスに上がる振りをして手前で止まって女を遣り過ごし、通りから人の気配が消えたところで飛び出した。すると今度は日々が目の前に立っていて、大いに驚いた。宝生は日々に眼鏡を返して、獲れたての新鮮で重要な情報を与えた。
「きっと何かあるはずだから探ってくれ……か。まさかそんな曖昧な理由で月見が狙われていたとはな」
 日々は腕を組んで考えていた。
「本当よね。これが月見ちゃんではなくあなただったら何も疑問に思わないのに。むしろ絶対に何かあるはずだもんね」
 宝生の茶々に全く取り合わない日々だった。
「確信しているようで、何もつかめていない。そんな感じ。そうだ、あの代表の女はどうしてか月見に妙な確信があるのだ。どうしてか犯罪の気配を感じ取っている。だがその確信の根拠はなんだと訊くと、「勘」と返ってきそうな、ひどく曖昧なもの……」
 一体何だこれはと、日々は楽しそうに目の前の謎と遊んでいた。
 取り敢えず今のままではわからないことなので保留ということになった。
「あの女がお前に色々と話したのは、お前がキャリアウーマンに見えたせいだ」
 日々がからかうように言った。
「お前はいかにもエリートでございって顔して歩いているからな」
「心外ね。普通に生きているだけの女性に対して」
「エリートっぽいからこそあの女も饒舌になったんだ。こんなエリートと同じ仕事をしている自分をこの世に存在させたかったんだな。ええ、私も同じ苦労をしているのよ、あなたも頑張ってね。お前みたいな女と対等な関係性になれたことが嬉しいのさ。だからあっさりこんな怪しげな女を同業者として認識した」
「そうやって人間のことを深く考えすぎるから、人間嫌いにもなっちゃうのよ」
 最初は単なる気紛れの悪口としてしか取り合わなかった宝生だが、後に日々の言っていたことを思い返し、自分にスーツを着せた裏に何重にも罠が張り巡らされていることを知ってゾッとしたという。
「ちょっと行ってみるか」
 日々はマンションのエントランスの方に目を転じた。好奇心に支配されたその目。
「あのね。昨日、御国副代表にどんな態度とったかもう忘れちゃったの? あなたは零の会に喧嘩売ったのよ。取材なんか受けてくれるはずないじゃない」
 宝生は順序立てて正論をかざした。
 だが日々の余裕の表情は変わらなかった。
「五分五分だと思うよ」
「何が?」
「熊田は今日も御国に断りもなく兵を動かしていた。つまり、「熊田主導の尾行に気付いている奴がいる」という大事な情報を熊田は御国から与えられていないんだ。恐らくは御国から疑われているからだろう。真偽を確かめるために泳がされているのさ」
 言いながら日々は悪戯っ子の微笑みを自然と浮かべていた。
「あなたがそう仕向けたんでしょう。それでわざわざあんな嫌らしいやりかたで熊田代表に疑念の目を向けさせたわけね」
 それこそ疑念の眼差しで宝生は一人納得していた。
「本当に罠を張るのが好きなんだから」
「そうでもないさ。ここからはローラー作戦だからな。一階から順にインターホンを押していき、熊田さんを訪ねてきたという芝居を愚直に繰り返すのみ。熊田さん本人にぶち当たるまでね」
「あ、間違いました、ドウモスミマセンを延々と繰り返すのね」
 宝生がうんざりした顔で察した。
「その通りだ。だがそんな苦労など必要ないかもしれないな」
 日々はエントランスに現れたその人影に気付いた。
「あら。噂の熊田代表。お出かけかしら」
 宝生の普段着のような、無彩色の味気ない装いで熊田記理子は玄関先に現れた。その5メートルほど前方に日々と宝生。
 彼らの姿を目に入れた瞬間、熊田は露骨に驚いた表情を見せた。
「あなたたちは……」
 ここで宝生など問題にならない程の悪質な嘘が日々の口から飛び出した。
「御国副代表が是非本人にも訊いてみろと言うので、来てしまいました」
 熊田は理解できないことをそのまま表現したような顔をしていた。
「小説の取材のことですよ。御国さんはとても乗り気でしたよ」
 嘘の微笑を浮かべて、日々は明らかな方向性を持った嘘を並べた。
 もし本当に零の会を実質牛耳っているのが御国だとしたら、熊田に対しても彼が許している、認めている、勧めている、というようなニュアンスを匂わすのは効果的なはず。それだけで熊田のガードも緩む。日々はそう推断したのだ。
 御国が自分に訊けと言ったのなら、別に取材を受けてもいいか――。
 熊田がそう判断するのを願って。
「そう、でしたか。それでわざわざここへ」
 やや疑念を残した目で日々の顔色を窺う熊田だった。
「ええ、御国さんが御自宅の場所を教えてくれたので」
 日々のこの嘘が決め手となった。宝生などは彼の隣で冷めた目をしていた。よくもまあ、ポンポンと効果的な嘘が出てくるものだと。
「でしたら、近くの喫茶店でお話を伺いましょう。そこはあまり繁盛しているとは言い難いお店なのですが、人気のない方がよいでしょう」
 日々の目には昨日も見た、演技派ではない女優のいかにもな笑顔が映り込んでいた。これを嘘と疑う者だけが違和感と不快感を覚えるいかにもな笑顔。
 ガードは解かれたらしい。
 二人がそう判断した瞬間に、二人して一瞬だけ左手の薬指に目を向ける。
 皮膚をへこませている赤い指輪の跡。今の今まで皮膚を締め付ける物体がそこにあったかのような。
 二人は言われるがまま、本当にすぐ近くにあった喫茶店まで彼女についていった。
 閑古鳥が住みついたその店内。引退したコーヒー好きの老人が趣味でやっているような古ぼけた店で、テーブル席など二つしかなかった。
 四人サイズのそれに落ち着いた一同は、白ひげの店主がコーヒーを運び終えたのと同時に取材を開始した。
「私に何をお聞きになりたいのでしょう?」
 コーヒーを一口飲み、熊田は二人に均等に目線を配りながら訊いた。
「会の理念ですよ」
 日々は昨日御国に訊いたことと同じ内容の質問をしようとしていた。
「理念、ですか」
「ええ。それを会の設立に携わった方々にお伺いしているのです」
 普段は重度の引きこもりのはずが嘘になると饒舌になる。得意気になる。
 熊田は斜め上に視線をやって少し考えた後、口を開いた。
「我々は不完全な法を補うという役割を自覚して活動しています。理念と言われればそれですね」
 教科書通りの回答――。
 日々も宝生もそう思った。昨日聞いた御国の回答とほぼ一致。そういう意味では教育は行き届いているらしい。あるいはほんとうに理念として共有していることなのか。
 当然、日々はそれが面白くなかった。
「それは会としての理念ですよね。僕が訊きたいのは熊田代表御自身の理念です。何を思って零の会を設立しようと思ったのか」
 ――御国副代表にもそう言って個人的な意見を聞かせてもらいました。
 最後にそう付け加えただけで効果的だった。熊田は意を得たように語り出した。
「私が零の会を立ち上げようとしたのは、大学時代に研究していたことがきっかけになっているのです」
 予想外なほど迷いなき瞳で、二人にとっては予想外の話が展開された。
「ひょっとして、法律か何かの研究ですか」
 日々は御国が核心と評した「法」というワードを持ち込んでみた。が、
「いえ、私の専攻は犯罪心理学です」
 どこか申し訳なさそうにそれを口にする熊田だった。
「犯罪心理学?」
「ええ、大学の研究室で私はある一つのテーマに取り組んでいました。学士論文もそれで提出したほどの」
 真剣な表情で彼女は語った。
「罪を犯した者がその罪を償う機会を与えられず、またはそのような機会から逃げ出してしまい、発覚することなく罪だけが宙ぶらりんになってしまった場合、その犯罪者は罪を犯したという事実を基にその後の人生を築いてしまう。罪が解消されなかったという過去がその後の人生の方向を決めてしまうのです。償うことを免れたと笑っている愚か者が、自分でも気付かずに一定方向に歩まされてしまう。罪という悪霊に呪われるかのごとく……」
 何かを暗誦するかのように少し駆け足で、どこでもない一点を注視しながらそれを口にする熊田だった。
「……罪を犯す者も被害者なのです。罪という呪いを祓わなければ、彼らもまた救いようのない人生を歩むことになるのです。一度発生した罪を放置してはいけないのです。私は罪の持つ悪性とそれに対する救済を真剣に考えてきました。それこそが私が心血を注いできた研究テーマでした」
「それはつまり、形は違えど、零の会の活動内容とほぼ一致していることでは? 過去に犯した罪を見逃してはならないという点でね」
 日々は色々とある疑問はさておき、まずはそれを訊いた。
「ええ。まさしくそうですね。未発覚の罪を暴き出す。その背景には苦しんでいる被害者と同じ数だけいるはずなんです。本当は苦しんでいることにすら気付いていない加害者が」
「本当は苦しんでいる加害者……」
 日々は単純に興味をそそられた。その研究内容だけでなく、それを真剣に語る熊田本人にも。その真剣さだけは演技ではない。そう判断できるものだったのだ。
 熊田記理子は被害者側ではなく加害者側の為に活動しているのだった。本当は苦しんでいるであろう加害者を楽にしてあげるために。
「それはつまり、加害者側の救済、という目的ですか?」
 これは宝生が訊いた。宝生の方に目線を動かした熊田のその目は、少しだけ挑戦的な色を帯びていた。芝居ではない、真剣な目。
「それは結果的にそうなるだけということ。私は罪という呪いを零にしたいのです」
 保持し続けられるその濁り無き真剣な目。
 宝生はわずかながら戦慄した。
 謎の口座で愛情をやりくりしていた相馬のことを知った時と同じ不気味さが、この時襲ってきたのだ。
「私たちが摘発しようとしている人々はみな過去に罪を犯しています。そしてそれを償うことができずにいつまでも苦しんでいるのです。私はその人たちを檻に閉じ込め、裁判にかけ、懲役を与えることで責苦を与えようとしているわけではありません。むしろ救済しようとしているのです。彼らの罪を零にする。その機会を与えてやることで。それが私たちの仕事です」
 彼女の真剣なプレゼンを聞いた宝生の感想としては、この熊田の個人的理念を御国は知っているのだろうかということ。御国の意見が会の方針となるならば、御国の掲げた理念以外は要らないはず。彼は不完全な法というものを補うことを重視していた。だが熊田は違う。あろうことか犯罪者側の救済を目的として動いているのだ。
 これは彼女自身が重視している彼女だけの密かな理念なのでは――?
 宝生はそんな感想を抱いた。
 続いて日々はこんなことを訊いた。
「ではあなたと同じ犯罪心理学の研究室に在籍していた学生が、他にどんな研究をしていたか覚えていますか?」
 この質問の意図を宝生は測りかねた。日々の口調はそれを問うことが当然と言わんばかりの自然なものだったからだ。
 想定しているのは相馬栄達なのだろう。
「どうしてそのような質問を?」
 熊田は単純な疑問としてそれを訊いた。当然である。
「ああ、取材とは別に、単純に興味が湧いたんです。あなたの研究していたことが面白かったので、他にも興味をそそる研究をしている人がいないかどうか訊いてみたかったんですよ。次回作はもしかしたらそっちの方向で話が出来るかもしれない」
 宝生はもはやどれが嘘なのかわからなくなっていた。虚実を逆転させるほどの嘘吐きはこの男しかいない。そんな能力を期待して引っ張り出したわけでもないのに褒めたくなってくる。それくらいの特殊な能力。嘘。偽証。
「罪の共有……」
 熊田は心なしか目を細め、ボソッと呟いた。
吐き捨てるかのように。
 日々はその瞬間、どうしてか彼女の薬指に目をやった。どうしてか。
「罪を共有し、それを互いに意識し合うことで当事者間の愛が深まる。そんなことを臨床的に実験して証明しようとしていた人がいました」
 熊田は、今度は落ち着きのある大人びた表情を見せた。緊張も弛緩も無く、ただ視線の行く先だけが不透明。それは人が何かを懐かしむ時に自然となる表情だった。
「あなたが興味を抱くとしたら、その人の実験くらいでしょうね」
 遠い目で彼女は語った。
「別に、今さら罪の共有による一体感なんかを持ち出されても興味なんてそそられませんよ。古くからある説の一つじゃないですか」
 日々は新たな説を期待する意味でわざと否定した。
「いいえ。違います。罪の共有ではありません。肝心なのはそれを意識し合うことです」
 怒りにも似た鋭い目つきで熊田は日々を睨みつけた。
「どういうことですか?」
「ただ罪を共有するのではなく、それによる罪悪感や良心の呵責を、絶望的なその苦しみをこそ二者で共有するのです。それが意識し合うということ。二人は……」
 語気が荒くなってきた。過去へ飛んでいた目の焦点も次第に合ってきた。
「二人は、犯した罪による苦しみにのた打ち回るその時も、同じくのた打ち回っているもう一人のことを想像できるのです。それが愛を深めるのです。それを延々と繰り返すことによって愛が深まっていくのです……」
 熊田の語調が強くなったことなど気にも留めない感じで日々は話を繋いだ。
「ですが代表。それを臨床的に実証するとなると、実際に罪を犯さねばならないことになる。そんなもの大学側が認めないでしょう」
 日々が常識的な疑問を提示した。
 すると、急に熊田の目が険しくなった。表情も見るからに硬くなった。
「……ですから、その実証だけはどうやら諦めたみたいです。他にも色々と趣向を変えて罪の共有に関する実験をしていたみたいなので、研究のメインはそちら済ませたようです」
 声が急に小さくなった。それを見逃す日々ではなかった。
「だとすると、なぜあなたは実証できていないことをまるでメインであるかのように、あれだけ熱く語ったのですか? 罪を犯すことが前提のその実験を」
 日々はニヤニヤしながらそんなことを追及した。その攻撃は熊田の急所に当たったらしい。瞬間、鬼の形相になり、彼女は立ち上がったのだ。
「あなたが聞きたいというからお教えしたのでしょう! 人の親切心をそのように穿って見るなど、なんと浅ましい!」
 肩を怒らせて鼻息を荒くしている。
「本当に、なんて浅ましい人なんでしょう! 冗談ではないわ! 私には何の他意もありません! あるわけがない! それをあなたは……、実に下らない! 下劣な奴!」
 歯を食いしばり、爪を手に食い込ませる。テレビ画面の中では絶対に出会うことのできない熊田記理子の姿だった。彼女は今、完全に感情のコントロールを失っていた。何かが彼女をそうさせたのだ。
「一千八十万」
 日々がボソッとそんなことを呟いた。
 すると赤鬼同然だった熊田の顔がみるみると青鬼に変わっていった。
「もう、しゅ、取材はお開きです! これ以上あなたに話すことなどありません!」
 金を置いて熊田はさっさと喫茶店を出て行ってしまった。怒りで我を忘れたふりをして、実のところ逃げ出すように。店主が出て行ったあとの入口を驚いて眺めていた。
「逆鱗に触れたみたいね」
 残ったコーヒーを飲み干しながら宝生が言った。
「罪の共有の実験をするにはまず罪を犯すことが前提、というあたりだったかな」
 日々が腕を組んで冷静に分析する。
「その後、逆鱗に触れられたことすら忘れたみたいね」
「俺がとある数字を口にしたあたりだったかな」
「相馬が会社設立の資本金として利用した謎の大金一千八十万」
「そのうち十万は普段あの女の薬指にちゃっかり納まってるんじゃないか」
「彼女、何か罪を犯したのかしら?」
「あるいは、その研究に従事していた誰かさんとな」
 楽しげな日々の顔を見た宝生はすぐに気が付いた。
「もしそうだとしても、自分の罪と直結するような研究内容をあんなに気合い入れて語るものなのかしら。暴かれたくない罪どころか、どうしても知ってほしかったって感じだったじゃない」
 財布を取り出しながら宝生は言った。
「暴かれたくない罪ではあるが、その実験については知ってほしかった。いや、聞いてほしかった。そんな感じかな。人間は理性と感情を併せ持つことでしょっちゅう矛盾した行動を取る。それまで感情的になって話していた人間が、ある一定のラインからは損得勘定や利害を優先して次の行動を選択するようになる。急に理性的判断に切り替わる。主に恐怖がそうさせてしまうんだろう」
 ふうんと言いながらジトッとした目で宝生は日々を見ていた。
「あなた、その実験を考えた学生に心当たりがあるんでしょう。だからいきなり同じ研究室にいた学生の研究内容なんて訊いたのよ」
「お前が言ったんだろ罪を犯して得たお金で愛を買っていると。犯罪心理学ではないのかそれは?」
 すがすがしい笑顔で日々は喫茶店を出た。支払いは憮然とした宝生が済ませた。
 その後、日々らは適当なファミレスで少し遅いランチを取った。もうスーパーで夕方の特売品が売り出される時刻だ。
 ビシッとスーツを着こなしたキャリアウーマン風の美女と、寝間着姿とほとんど変わらない格好の不健康そうな猫背の男の取り合わせに、ウェイトレスは色々と想像を膨らませてしまったらしい。
 日々は宝生のおごりということで、食後のスイーツをいくつも注文していた。宝生は日々がそれを平らげる様子を冷めた目つきでじいっと見つめていた。その宝生のスマホに樹から着信が入った。
「樹からよ」
 その名前を出してもなおアイスを食べる手を止めない日々を無視して、宝生は電話に出た。日々が注文したものを全てやっつける頃に宝生も電話を切った。
「樹が何だって?」
 腕と足を組みながら日々が確認した。
「口、拭いてからね」
 腕と足を組みながら宝生が強めに指示した。日々の口の周りには白い物が広範囲にわたってついていた。
 日々が備え付けのウェットティッシュでそれをきちんと拭き取ったのを見届けてから、宝生は樹から届いた情報を伝えた。
「熊田代表と相馬の関係、すぐにわかったらしいわよ。二人の大学の同期に訊いてみただけで一発だったって。二人の大学」
 事実を強調する宝生。
「札幌白馬大学だったな。そこで素敵なキャンパスライフを送っていたと」
 二人はやはり大学の同期だったのだ。
「同じ犯罪心理学研究室所属だったみたいよ」
「専攻が同じだったというだけか? 大切なのは愛だろ愛」
「残念ながら、元恋人同士だという話は無かったみたいね」
「そりゃおかしいな」
「そうよね。あなたが切望している仮説と合わない。もし熊田代表が相馬と恋仲であったとして、その時に贈られたであろう指輪をまだ嵌めていたとすると……」
「女の方はまだ想いを捨てきれていないってことになるな。苦節十年。未練たらたらだ」
「そう考えると辻褄が合うわよね。熊田が相馬の現恋人である月見ちゃんを追い回していることに説明がつくわ」
「嫉妬。あるいは単純な嫌がらせ。それかもしくは零の会と同じ目的。罪を暴くため。いずれにしろ自分の想い人の想い人に対する許せない気持ちの歪んだ発露だ。月見のような聖人君子であれ何かしらの犯罪に抵触する事実はその者の過去に確実に存在している。俺たちは生まれつき六法全書などを諳んじる生き物ではないのでな」
「月見ちゃんに対してもそれを見越してしつこくつけ回しているってことかしら」
「それは飽くまで俺の理屈だ。まあ、世の中の真実ではあるが……」
 はいはいという顔をわざと宝生は見せた。
「でも残念ながら二人は元恋人同士でもなんでもなかった」
「そういうことだ。月見を追い回すのにはまだ何か理由がある気がする」
「それはもしかして……相馬の研究していた内容と関係があるのではないかしら」
 宝生はあなたもそう考えたんでしょと、日々の顔を軽くにらんだ。
「その内容によっては、元恋人同士ではなくても嫉妬は発生する可能性があるということだ。そっちの線も面白くなりそうだ」
 自分だけが分かる言葉で日々は説明した。
「聞かせなさいよ」
「白馬大学に行きたいな」
 追加でパフェでも注文するかのように気軽に北海道旅行を所望してくる日々。
「ああ、暑い。七月って暑いわね。それだから新たに発生したあなたの仮説の証明に避暑が必要なのかしら」
 宝生はドラえもん扱いされた報いとしてそんな嫌味を吐いた。
「札幌に行く前に、白馬大学の心理学部が発行しているであろう十年前の紀要が欲しいな。俺のパソコンにデータを送っておいてくれよ。ああ、どら焼き食うか?」
 日々がわざとらしくメニューに目を通そうとする。
「あなたの脳みその内訳をきちんと説明してくれたら、どら焼きなしでも構わないけど」
「二人とも同じ研究室に所属していたんだろ? じゃあ二人とも同じ人を師事していたわけだ」
 宝生はハッとなった。
「教授」
「あるいは元凶」
「もしかしたらラスボス」
 日々は小さく頷いた。
「キーワードは「罪」だ。これは間違いない。この「罪」とやらをどう捉えるのか。その解釈が月見を取り巻く不審人物どもにそれぞれ不気味な運動を与えている気がする」
 気がするという程度の日々の意見。だがそれに仮説段階で興味を惹かれている正直な宝生がいた。その「罪」とやらに向き合う姿勢。その発生源。
 ラスボス。
「そう考えると……」
 日々が考え込んだままの姿勢で目だけ宝生の方にずらした。
「何よ」
「英雄死」
「は?」
「キーワードは「罪」。そう言ったはずだ」
「英雄死の事件もその範疇?」
「だから、お前だけが握っている情報を漏れなく俺に寄越せ」
「あの事件が……月見ちゃんのことにも関わってるっていうの?」
「それを判断するために要求してるんだ。紀要も、現地調査もね」
 分かりやすく冷めた顔を浮かべて宝生はため息を吐いた。ハイハイという最低限の首肯の表示。
 帰りがけに日々は運転手の宝生に頼んで品ぞろえ豊富な大型書店に寄ってもらった。そこで『監獄白書』という元受刑者の体験記を購入した。あらかじめ何を買うか決めていたような段取りの良さだった。
「それは?」
 日々を送っていく車中で、当然宝生は購入したものを気にした。
「刑務所内でのリアルな生活の実体が綴られた本さ」
 愛でるように日々は本を見つめていた。
「刑務所の? それって昨日あなたのパソコンに送った資料と関係があるの?」
 宝生は前日に日々からある指示を受けていた。それは御国九十九(つくも)という人物が大学時代に書いた論文を取り寄せることだった。
「元矯正監、御国九十九。その人の孫にあたるのがあの御国副代表ね」
 宝生は確認するように言った。矯正監とは刑務所長のことだ。
「知っている」
「ええそうでしょうね。でも、何で副代表本人でなくそのお祖父さんを調べるのよ」
 信号待ちになり、助手席の男の方に顔を向けながら疑問を提示する宝生の目を、日々は横目で鋭く見据えた。
「理屈などない。それでも、まあ、俺としては十分理屈になる考えがあるのだが、飽くまでそれは俺の理屈の話だ」
 宝生は車を発進させてからまた訊いた。
「いつものことじゃない。あなたの悪癖よ。私は毎度、その理屈がなんなのか知りたいのよ」
「元刑務所長」
 日々がぽつりと言った。
「それが?」
「罪に対する罰の執行と、その罰を受ける罪人をずっと見続けてきた男……」
「罪……。またそれか」
「実のところ、法治国家に不満を抱いているのはこういう人物なのではないかと俺は思ったのさ。それが零の会と通ずるところがある。そんな人物が団体のナンバー2の近親者にいた」
 あまり乗り気ではない日々のこの理屈とも言えない説明に、宝生は結構納得をしていたのだ。宝生はリアリストではない。想像力の欠如した現実主義者には無能が多いと思ってすらいる。なので、毎回説明不足の日々の仮説を腹立たしく思ってはいるけど、同時に興味深いとも思ってしまうのだ。
「私もちょっと調べてみたのよ。御国九十九なる人物のことを。でも所在はつかめなかったわ。失踪届は出されていないみたいだけどね。生きていれば今年で七十一歳」
 宝生は調査した内容をほとんど暗記していた。
「彼の娘とその夫、つまり御国千次のご両親はずいぶんと前に亡くなっていたわ。不幸な事故だったみたいね」
「へえ、両親がいないのか」
 日々が強く反応した。
「ええ。それと、御国九十九の奥さんもだいぶ前に亡くなっているらしいのよ。肺がんだったみたいよ」
「それで千次は監獄の主に引き取られて教育されたってわけか。やがてその少年は零の会を設立する」
「わざと洗脳を匂わせるような言い方してない?」
「匂わせるも何も、育児などどれも洗脳と同義だ。みなしごの俺や月見だけがこの世でまっさらな存在というわけだ」
「はいはい。孤児がみんなあんたみたいになるなら親の重要性が再認識されちゃうわよ」
 そして日々は今日も今日とて、月見が帰ってくる前に自宅まで送られた。宝生は別れ際に思い出したように零の会の資金の使途に関しては引き続き調査するということを告げた。
 日々はしばらくリビングで取り寄せた資料や『監獄白書』を読み込んでいた。そしてその間に送信されてきた十年前の白馬大学心理学部の紀要も。英雄死の報道されていない内容も。
 かつて速読の王と呼ばれた日々は次々と読み終えた資料を床やテーブルの上に投げ捨てていく。あとで資料を月見に拾われたとて、どうせ何をしているのかなどわかるはずもないのだと、日々は余裕だった。また変な趣味に走ったと思われてオシマイ。それより散らかしたものを片付ける方が日々にとって遥かに面倒なことだった。
 一通り読み終えたところで、日々は部屋に戻りインターネットの海にダイブした。
 資料の中には論文の他に九十九のプロフィールみたいなものが紛れ込んでいた。宝生の気遣いである。こういうところが使えるのだと日々は彼女を評価していた。
 そこに記載されてある基本情報を基に色々と独自に調査しようとしたのだ。その矢先、早速日々の脳に引っかかるニュースを彼は見つけた。本当に単純に、プロフィールにあった九十九の出身地をネット検索にかけてみただけのことだった。
『茨城県の赤食(あかじき)村付近の山中で集団服毒自殺発生。自殺サイトで知り合ったと思われる男女九名が遺体で発見され――』

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