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破壊の女神⑦

 7

「だ、だからと言って、日向さんが光政大学を志望しているのは事実です!」
 魔法の解けた先生は大慌てで遅れを取り戻そうとしてきた。
「今のままでは絶対に志望校に受かることはできません! それでもよいというのですか? あなたは妹さんの希望を何でも叶えたいのではなかったのですか?」
 さすが百戦錬磨のネズミ先生。すぐに立ち直り別の手段を講じてきた。これはいわゆる誘導尋問というやつだろう。音々を言葉巧みに操り、別の角度からうまいこと丸め込むつもりらしい。一度敗北を喫したことで正攻法を捨てたのだろう。
 ネズミはさらに音々を追い詰めようとする。
「私が問題にしているのは現実の話です! 理想の世界の話ではありません! 妹さんが光政大学に無事合格するためには学力の向上が必須なのです! 今、勉強しなければならないのです! 今の成績のままでは決して受かることなど出来ません。あなたは妹さんが可愛いのではなかったのですか? 妹さんの希望を無視するおつもりですか?」
 奥の手、「妹さん」の連発。
 追い詰められた窮鼠は音々の妹愛を利用しようとしているのだ。
「それでしたら、別に進学しなくてもよいのでは?」
 ネズミの誘導もむなしく、いきなり場を凍りつかせてしまう音々の澄んだ声。
「あなた、あなたは一体何を!」
「もしや先生は……」
 このネズミの憤慨を見て何かに気付いた音々。
「大学進学のことをどうでもよいとは思っていないのですか?」
 訊くまでもない質問を、何故か真相に辿り着いたと言わんばかりに目を見開いて音々は訊ねるのだ。これには当然ネズミも怒りのボルテージを上げるのだが。
「当然でしょう! どうでもよいなどと誰が思うものですか!」
「そうですか。ですから先ほどから必死に妹に勉強させようとしていたのですね。私にはそれがさっぱり分からなかったもので。先生は進学というものを重要視している、ということですね」
 心底納得したように頷きながらそんなことを呟いてやがるのだ。怪人物による怪現象である。
 なるほど。これが音々を不勉強の宣教師みたいにしている理由だったか。どうしてネズミ先生が大学受験を重要視するのかが分かっていなかったのだ。何故なら大学進学することの価値を音々は知らないから。
「では具体的にお聞きしたいのですが、先生が美琴を大学に入れようと考えてらっしゃるその理由は何ですか? 何か美琴の得になることがあるということですよね?」
 ネズミの怒りを意に介さず、音々が純粋な気持ちで訊ねる。大学進学の意義を。
「理由? 得? あなた、何を言ってるの? 彼女が入りたいと願っている志望校なのだから、それを後押ししてやるのが教師としての私の仕事でしょう!」
 最高潮の熱量を取り戻し、ネズミが怒った。
「ではなくて、どうしてそれが美琴にとってプラスになるのか、そのことで美琴にどんな利益が生じるのか、そこのところを訊いているのです。もしかしたら私の知らない、先生しか知らないものすごい理由があるのではないかと期待しているのです」
「も、ものすごい理由? 何よそれ? どうして教師が生徒を志望校に入れてやりたいと思う気持ちに理由が必要なのよ。どうして!」
「となると先生はとりあえず生徒を志望校に入れてやりさえすれば生徒の為になるとお思いになっているということですか? そういった不確かな考えだけで受験を重要視しているということですか?」
「は? あなたは、何を……」
 このネズミの困惑を、音々の黒く透明な瞳がただ真っ直ぐに見つめている。
 自分は正しいはずである――。
 まだそうやって信じているネズミの顔が段々と青ざめていく。信じているからこそ。
 音々のこれは決して責めているのでも詰め寄っているのでもない。いつもの音々の興味本位の問答に過ぎないのだ。ただ謎が浮かんだので、その答えを知ってそうな人物に疑問をぶつける。そこには害意も嫌味も一切無い。
 それなのに謎を投げかけられたその人物が害意も嫌味も感じ取ってしまうとすれば、それは感じ取ってしまう側の心に問題があるのだろう。
 常識の中に隠れている矛盾点や後ろめたさを興味という触手で引っ張り出してしまう異世界の住人。その際に剥がれてしまう常識という名の生皮からの出血量など気にも留めないその女。その驚異を私は何度も目の当たりにしてきた。その度にいつも誰かしらが意識改革を強制させられてきた。
「先生は美琴が大学に入ることの意義を知ってらっしゃるんですよね。私は一つも知らないので是非ともお聞かせ願いたいです」
 追い詰める意志の無いハンターが、なぜか手を緩めずに獲物を追及する。
「あなたはじゃあ、大学に入らなかったのですか」
 鼻の穴を膨らませながらネズミが攻撃に転ずる。
「入りました。カンナさんと同じ大学です。光政大学です」
 わざわざ私を巻き込んで答える音々。ただ光政大とだけ言え。
「ならばどうしてあなたは光政大に入ろうと思ったのですか! 光政大に入ったというのなら、あなただってそれなりに頑張って受験勉強したはずでしょう!」
 質問に答えることよりも、ネズミは相手を非難することの方が先決になってしまっているような気がする。
「付属の図書館の蔵書が興味深かったからです。閉架書庫や一部の図書はその大学の学生証が無ければ閲覧することも借りることもできなかったのです。私は本を読むくらいしかやることがなかったのでそれに心血を注いだまでです。進学する意義も大学としての魅力もよく分かりません」
 あっさりと、そして坦々と答えた音々の表情には一点の曇りもなかった。目の前の教師は再度呆気にとられていた。
 そういや音々はあの大学で本しか読んでなかった。本を読みに大学に通っていたのだ。いや、本を読むためだけに生きていたのだ。
 今もなお、音々は本を読むためだけに生きているのだろうか。
「先生は図書館の品揃えという魅力の他に大学に入ることの意義を知ってらっしゃるんですよね?」
 音々はいつでも、真っ直ぐに訊きたいことを訊く。
「それは、将来、就職が有利になったり、様々な資格を得ることができたり、なんというか、とにかく色々と将来の選択の幅が……人生の幅が広がるでしょう!」
 人生の幅……。
 ややしどろもどろだったが、それでも真っ当な意見ではある。斎藤メガネ大先生もきっと今頃同じことを壇上で述べていることだろう。
 要約すると、就職に有利ということ。
 これ一本。
 大学生の本分である研究等は八番目くらいの理由にしかならない。
「ほとんど何を仰っているのか分からなかったのですが、とにかく就職に関わるメリットがあるということですね?」
「そうだと言っています! 良い大学に入らなければ人並みの生活すら手に入らない! 今はもうそういう時代なのです! だから子供達はみな幼い頃からその運命と必死で戦っているのです! 怠けたりする者がいれば、その人は残念ながら報われない人生を歩むことになります! 今の時代は何としてでも良い大学に入り人生の幅を広げ、選択肢を増やさなければ生きていけないのです! そうでもしないと生き残れない世の中なのです!」
 これは紛れもなく社会全体の代弁であり、同時に不変の事実でもある。
「人生の幅? 選択肢? 本を読むことが学生の第一義ではないのですか?」
「違います!」
 ネズミ先生、あっさりと否定したものだが……。
 音々の今の見解は、実のところそのように捨て置かれるものではないのでは?
「そうですか。しかしながら、そもそも大学とは本を読み勉強する場であって、研究を除いたらそれ以外に役割など無い場所のはずです。読みたい本も学びたいこともなければ、大学など無用の長物です」
 もの凄い偏見のようにも聞こえるが、これに一理あるのも事実だ。
 大学というものに対する音々の捉え方。それは一貫して本を読み勉強する場であるということ。大学というものが本来そういう場であるはずなのは間違いがない。いつしか別の役割が付与され、社会全体でその付属品の方に神経を傾けるようになってしまったのだ。
 資格取得と就職支援と学歴。
 この巨大な三つのアタッチメント。進学校などはこれだけを進学のメリットとして捉えているはずだ。そして音々は逆にこれらの付属品に大学としての価値など見出してはいないのだ。だからこそ大学受験など「どうでもいい」ことなのだろう。
 一方、その三つに最大の価値を見出しているネズミにとっては「どうでもいい」わけがないのだ。
 この議題での両者の話が噛み合うはずなどないということ。
「おかしなことを仰らないでください! あなたは現実を知らないだけです!」
 ネズミの真っ当なる反論。
「本を読み研究に没頭するだけで報われる社会などないのです! 社会に要求されたものを身につけた人のみが就職を有利にできる社会なのです! 現に企業側の採用条件の中に大卒というものが当然のように入ってきています! 大学を卒業していないと仕事に就くことすら難しい! 今はもうそういう時代なのです!」
 続、ネズミの真っ当なる正論。
「ですが、それと大学が何の関係があるのですか?」
 音々の暴論。
「はあ……?」
「大学を出たとしてもみな素人ではないですか」
 音々の……暴論か?
 この段階では彼女が何を言いたいのかまだわからない。
「四年間、デスクワークの修練でもするのですか? それとも外回り営業のノウハウを徹底的に四年かけて学ぶのですか?」
 なるほど。
 そういうことか。
 音々の言いたいことがだんだん分かってきた。混乱しているところを見るとネズミはまだ理解できていないようだが。
「四年間、専門的でニッチな学術分野の研究に没頭し、その分野の卒論を書いただけの人間がどうして就職に有利になるのですか? 仕事に関する知識や技術、経験値とは何の関係もないことを四年も無駄に研究してきた人材がどうしてそのように重宝されねばならないのですか? そのような役に立たない人材が就職に関して有利になるはずがないと私は思うのですが、違うのですか?」
 音々の客観視と偏見が導き出した破滅的結論がこれだ。
 大学は別に職場体験や技能習得の場ではないということ。学術研究が第一義。それなのに四年間学術研究に費やしてきたような、仕事に関してはずぶの素人をどうして企業側が受け入れてしまうのか。
 音々にはそれが分からないのだ。 
 では私たちには理解できるのかというと、全然そうではない。高卒者との違いを訊かれたところでせいぜい「色々な経験を積んできている」などというありきたりで不確かな返答しか思いつかない。つまりそこに世の中の隠された欺瞞のようなものが埋もれているということだろう。
 大卒者を無差別に賢く優秀な者とみなす、大卒者以外に対する差別と偏見。
 一体いつからこうなってしまったのだろう。
 Fラン大学と呼ばれる五流私大が乱立していったことの要因としてこの偏見が挙げられるのではないかと私は思っている。この偏見から逃れるためにもどうにかして大学に行きたい。だが試験を突破できるほど優秀ではない。そういう状況に立たされている人の数が需要と供給、つまり商売を生むのだ。学費さえ出せばどんなバカでも通えるような大学が横行する条件がこうして整ったわけだ。大卒者以外に対する蔑視や差別から逃れるために若者はこれを選択してしまう。ちゃんと中身が詰まっているかどうかは疑問の、とりあえずの「大卒者」がこうして出来上がってしまう。
「先生は就職に有利になるから大学へ行った方がよいと言う。ですが大学へ行ったところで就業するのに必要な能力が鍛えられるのかといえばそうではない。これだと根拠薄弱のまま進学を斡旋しているようにしか聞こえません。それとも、先生はまさか教員免許や医師免許のような、大学でしかその資格取得を認められていない職種のみについて就職に有利などと仰っているのですか?」
 音々の真っ直ぐな視線がネズミを追い詰める。
「そ、そうではありません! あなたが何と言おうと、企業側が大卒者を求めている以上、選ばれる側の若者たちはみなその条件を満たさなければならないのです!」
「では企業側がおかしいということですね」
「な……」
「そのおかしいものに大人しく追従している大学側も、そこに学生さんたちを送り続ける進学校も、それでよしとしているご家族も、あるいは社会全体も、みなおかしいということになります。先生がその中に取り込まれているとしたらそのおかしさに気付かないのも無理はありません。美琴にはおかしくなってほしくないので進学はさせたくありません」
 もう何度目の絶句になるのだろう。
 ネズミはまた気付かされたのだ。
 自分もこの世界にはびこる欺瞞の膜の中に、すでに取り込まれていたことに。
 ネズミ先生の言う通り企業側としても大卒者に優秀な人材が多いという確固たるデータがきっとあるのだろう。だが、突き詰めればそれもデータでしかないものなのかもしれない。どう足掻いても実際的な確認はできないのだ。第一、データデータというのなら新卒採用者の一年後の離職率や定職に就かずニート、引きこもり、フリーターになってしまった者の割合、二線級の企業に就職した者の割合、派遣社員になった者の割合などなど、優秀であるはずの大卒者にあるまじき結末を迎えた者たちのデータも添えて大卒者の優劣を判断すべきだろう。やはり「大卒者は就職に有利」という一般の認識に確固たる根拠など無いということになる。みんなそう思っているしデータもあるにはあるが、本当のところはどうなのかは誰にも分からないという曖昧な現実がそこにあるのだろう。
 そして曖昧な部分には常に都合の良い解釈を入れ込んでしまうのが人という種の変わらない悪癖なのだ。何を考えているのか絶対に分からないペットの思考を都合良く解釈して、お人形遊びの延長をする大多数の飼い主さまのように。
 ネズミはもう何も言わなくなっていた。自分もその先入観の内側にいる。そう気付いてしまった以上何も言うことがないのだ。
 こうして音々はあらゆる観点から妹の大学進学という未来を剥ぎ取ってしまったのだ。
 同時にネズミから進学校の教員としての意義をことごとく奪い取ってしまった。
 ネズミは完全に負けたのだ。こんな頭のおかしな女の変論に、自分の信じていた何もかもを絡めとられてしまって。
 使える手が他に無いのならもうネズミは手詰まりである。
「あなたは、たとえ、妹さんが、大学へ行けなくなっても、それでいいと?」
 いよいよ本当にネズミの呼吸が狂い始めた。
「美琴に学びたいことが何もなければ、行く必要は無いと考えております。受験勉強もやらなくていいのではないでしょうか」
「あなた……、あなた、正気ではないわ!」
 もはやはっきりと音々を非難する、ひきつった顔のネズミ先生。
「美琴、光政大で何か研究したいことでもあるのですか? 社会学ですか?」
 ネズミを眼中からどけた音々が妹に訊ねる。もし美琴ちゃんに勉強する理由があるのならそれは何だろうと思っているのだ。最後の一言だけは私や響に対する嫌味なのだろうが。
「いや、研究したいことは、特にないけど……」
 申し訳なさそうに、あるいは今展開されている現実から目を背けるかのように、消え入りそうな声で美琴ちゃんが応じた。
「では読みたい本があるのですか? 光政大は蔵書の優秀さという点では保証しますよ」
「いやあ、ないかな」
「おや。それでは美琴はどうして光政大を志望しているのですか? 先生は美琴が絶対に受かりたいと思っていると仰っていましたが」
 今度は妹に詰め寄る鬼姉。ネズミに対する嫌味も忘れない女だ。
「大学に入りたいというのは本当ですが?」
 音々はそこを疑っていた。
「うん。大学には行きたい……」
 これは本当らしい。
「日向さん! その気持ちをもっとお姉さまに強くお伝えした方がいいですよ!」
 やぶれかぶれのネズミがそう訴えた。
「では美琴はどうして光政大学に入りたいのですか?」
 ネズミを無視する形で姉が妹に問いかけた。
 そしてこれには無言になる美琴ちゃん。
 そこに理由が無いのだ。
 あるいは人には言えない理由なのか……。
 私は答えあぐねている美琴ちゃんを助けるべく笹舟を手配した。それが今日の私の役目だ。
「そりゃ、音々さんよ。学校から進路希望書けって言われたら取り敢えずでいいから書くっきゃないでしょうに」
 この私の声に強く反応したのはネズ公だった。彼女は無言のまま美琴ちゃんに強烈な視線を浴びせた。美琴ちゃんは私に真相を射抜かれたのか、腹痛時の表情であらゆる者の視線を避け続けていた。
「なるほど、大学へ行きたいというのは美琴の意志ではなかったのですか。ではもう受験勉強などしなくてもよいということですね。よかったですね」
 場違いなほど優しげなその口調。実の妹に対する姉としての気遣いとでも思っているのか。どこまでも勘違い女である。
「いい加減になさい! この時期に受験勉強を放棄するなど自殺行為です!」
 やはりネズミが吠えた。あれはチューとしか鳴かない生き物のはずでは。
「ですが、放棄するなら早い方が良いのでは?」
 音々の異世界はネズミが吠えた程度では揺るがないらしい。
「大学入試に合格する為だけの不毛な勉強に三年間費やすとなれば、大学にそれ相応の見返りを求めるのは当然です。ですが、この子には特に学びたいことが無いようなので、見返りはゼロです。そうなると受験勉強に費やす膨大な時間が無駄になってしまいます。若いのになんともったいない」
 音々の音々による暴論。
「見返りならあります! 何度も言ってるでしょう! 資格を取るのにも有利! 就職にも有利! 採用する側も大卒が当たり前! その上に出身大学の質を見られてしまう! それが学歴と呼ばれるものの正体です! これなくば真っ当な生活など保障されない、厳しい時代なのです!」
「もし仮にそれが本当だとして、それが理由であるなら美琴はそうだと言っています。でも美琴は大学に入りたいことは入りたいのですがその理由が無いと言っているのです。就職のことなど一言も言っていません。先生はちゃんと人の話を聞いておられましたか?」
「何を……! あなたは、私に……!」
「美琴に入りたい理由が無いのなら、家族が無理に入れさせることもないでしょう。勉強を支援するなどもってのほかです」
「なんてことを……!」
「あのっ!」
 と、ここで美琴ちゃんが叫んだ。
 ネズミはキッと美琴ちゃんを睨みつけ、音々はやんわりと妹に視線を移した。
「私、やっぱり大学に行きたいです」
 恐る恐る美琴ちゃんがそれを口にした。
「それはどうしてですか? 美琴にとっては無用の長物なのですよ?」
 一片の疑いもなくそういう言い方をするところが実に音々っぽい。
「あの、その、楽しみたいから」
 美琴ちゃんは言った。
 ついに言った。
「楽しみたい?」
「うん。キャンパスライフとか。同い年の子とサークルで活動したり、学祭で出し物したり、自由に課外活動したり、とか。社会人でもないし、子供でもない、何の責任もないモラトリアムの中で自由に生きるのって、ものすごく楽しいだろうなあって……」
 私は大いに納得した。
 就職がどうのという進学理由よりもずっとだ。
 美琴ちゃんのこれは世の学生諸子の隠された本音の立派な代弁である。
 これはこれで嘘の無いものすごく正直な意見なのだ。というか、大学進学を目指す若者の動機の半分以上はキャンパスライフをエンジョイすることに集約されるのだろう。
 これもまたみなが隠してしまった世の中の欺瞞の一つなのだ。どこもかしこもブラックだらけの今の時代に本気で就職活動したいと思っている人間などいるはすがない。仕方なくそうするしかないというだけの話なのだ。だが社会人になってしまう前に、まだやんちゃのできる若いうちに、しかもちゃんと大学に通ってますと豪語できるモラトリアムな時分に、思いっきり遊びたいと考える人間なら大勢いるだろう。それもできるならFラン大学と呼ばれる通っている生徒も環境も底辺の私大ではなく、将来学歴として役に立つ上位の大学を狙いたいと考えるのが普通だろう。一石二鳥を狙うわけだ。
 だがそちらの純粋な邪気の方は志望動機として口に出してはならぬというのだ。進学校は就職に有利になるからと子供たちを大学に送り出すのだが、そのうちの半分以上が実は遊ぶことしか考えていないかもしれないのにだ。
学校側と子供たちの認識には大いなる差がある。そして真実はどちらかということ。どういう人間がこの国の中で大学生を名乗っているのかということ。
 妹を追い詰めてまでその欺瞞の薄皮を無理やり剥ぎ取るような姉は万死に値するのだが。
「ああ、そうでしたか」
 音々は感心したような声を上げた。
「それなら納得できます。楽しいことのために美琴は受験勉強を頑張る必要があるのですね。それならば努力と苦労に見合う対価もあるというものです。対価と代償が過不足なく提示されてあります」
 とても満足そうに音々は言うのだった。妹の成長が嬉しいと言わんばかりのウキウキ感。
「先生」
 音々はネズミの方に視線を合わせた。それだけでネズミは蛇に睨まれたネズミ状態になっていたのだが。
「どうやら美琴は社会的に許された状況の中大っぴらに遊ぶために大学進学を希望しているようです。それで勉強をする必要があるというのなら、たとえ運任せの試験に挑むにしろ、それはとても筋の通った動機となります。私はやはり妹の進学を応援しようかと思います。美琴には幸せになってほしいです。とりあえず家庭でも勉強させればよいのですね。お任せください。どうにか丸め込んでみせましょう」
 このトリッキーな思考回路にネズミは一切反応することができなかった。ただ茫然と急転回する目の前の事態を眺めているだけ。
 そして、音々からのトドメの一言。
「それで、三者面談とやらはいつ開始するのですか?」
 ネズミの心は折れ、項垂れた表情で今日はお開きですと白旗を振った。
 我がアイドルの講演、アリーナ最前列観戦ツアーはこれにて幕引きとなってしまった。
 おもしろいものを見せてもらったので私は満足しているが。
「お姉ちゃん、やりすぎ」
 誰もいない廊下の一角で、美琴ちゃんが姉の不始末を詰った。
「美琴、やりたいことが見つかってよかったですね」
 表情に変化はないが、音々は嬉々としてこれを言っているのだ。
 どこの世界に遊び目的で大学に行こうとする子を褒める親がいるのか。モンスターペアレンツ界広しといえども、このような手合いは音々しかいないのだろう。
 しかし家庭でも勉強させようとするネズミの意志は叶ったわけか。なんだろう、この不思議な世界は。
「私、明日も明後日も、担任は田口先生なんですけど」
 口を尖らせジトリと相手を睨みつけながら文句を言う美琴ちゃんはただの愛らしい少女であるので、その睨みに効果など無い。
「あら、美琴は先ほどの先生が嫌いなのですか? 声が大きかったから?」
 的外れの極致である。
「怒りで声が大きくなったの! もう! どうせこうなるだろうとは思ってたから、こうして私が怒るところまで予想の範囲内でしかないんだけどさ! だからそんなに激怒してるわけでもないんだけど!」
 本当にたくましい娘さんだこと。自分の感情すら先回りして機先を制しておくことができる能力の持ち主はそれほど多くない。この姉を持ってしまったことで身についた特殊能力の一つなのだろう。
「美琴がやりたいことを見つけられてよかったです」
 やはり何も聞いていない音々。当然それも予想していた美琴ちゃんは外国人みたいなリアクションをとってから話を打ち切った。打ち切るのが最善だということを学んでいるからだ。
「美琴ぉ」
 廊下の向こうから先ほどのカレンとかいう女子生徒が歩いてくるのが見えた。
「あれ? あんたまだいたの?」
 美琴ちゃんが気楽に応じた。
「美琴モンペ探してるって本当?」
 一瞬目を見張る私と美琴ちゃん。
「なんでそれを……」
「石像が言ってた。つーか、私に気を付けろって言ってきてさ」
 なんのこっちゃわからん説明である。
「なにそれ? どゆこと?」
「美琴は高校からの付き合いだから知らないんだよね、私のこと」
 どこか我慢するような笑みを浮かべて彼女は言った。
「うちの母親もモンペなのよ」
「ええ? あの人そうなの?」
「まあねえ、最近はそういうイメージ無いからね」
 そうやってにやにやと笑う茶髪の少女の名前が相沢華蓮であると知った時、私は何故かミサイルに核弾頭が積まれる気配を感じた。

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