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悪魔の子供たち⑥

 6 呪われた学校

 すでにそれは「パワハラ事件」と呼称されていた。それでもそこに体罰が無かったことだけは確かなようだ。
 生徒に叱責を加えている様子を動画に撮られること。この時代、教員にはいくらでもその危険性がある。そして場合によってそれは世界中に拡散されることもある。
 山尾先生も撮られてしまったのだ。しかも山尾先生の「お説教」はインパクトが違う。もう段違いだ。動画を見る者に圧倒的なマイナスのイメージを植え付けてしまう。あの迫力、殺気、恐怖。山尾先生のお説教がたとえ100%正しい事であっても、ちゃんと考えればそのくらい誰にでも分かることだとしても、動画としてその様子が口さがない世間に流布されてしまうと、あの恐怖と迫力に比例する強いあおりを食らってしまうものなのだ。子供の俺たちにだってネットの持つその身勝手な強制力みたいなものは理解できる。
 山尾先生はバドミントン部で指導している時、悪ふざけをしていた男子部員を全力で叱り飛ばした。その様子が動画として流れてしまったのだ。山尾先生の怒り方を知っている俺のような生徒にとっても今回はかつてないほどの熱量で激怒しているのが分かった。これを初見の人が目にしたのなら確かに問題になるかもしれない。動画にはそれほどの「おっかなさ」があった。
 だが山尾先生がそれほどまでに激怒するにはそれなりの過程があったのだ。新聞部は普段見せないような頑張りで色々な関係者からこれを聞き出すことに成功した。
 この前、廊下で素振りをしながら歩くほどに山尾先生が荒れていたのもそれが原因だったのだ。山尾先生がその男子部員、沖田充を叱ったのは撮られた時が初めてではなかった。その時で三度目だった。仏の顔も三度までだったのだ。
 どうやら山尾先生の授業を受けたことのない沖田は遊び半分でバドミントン部に入部してしまったらしい。そもそも何かを真面目にやるということが苦手な生徒だったこともあったようで、とにかくなんでもかんでも冗談で済むと思っているタイプらしいのだ。しかもその入部のきっかけとなったのが、彼と仲の良い男子が先にバドミントン部に入部したことなのだとか。その仲良しの男子こそ、山尾先生がベタ褒めしていたバド部期待の星、小泉修こと米軍のレーザービームより強力なショットを放つ逸材だったのだ。
 小泉の練習にとって沖田は明らかにお邪魔だった。何かとちょっかいをかけ、小泉も新入部員の友達に気を遣ってか、そのちょっかいに付き合ってしまう。沖田はそもそも練習に来ているというより遊びに来ているのが見え見えだった。当然、山尾先生は彼を叱った。他の部員が見てる中、かなりの勢いで叱った。そしてその大噴火に一堂は恐怖を感じたという。山尾先生が恐いということをみなが知っていたにも関わらずだ。噴火の日の練習はどの部員も身が入らず、どれだけラケットを振っても楽しくなかったという。
 沖田本人もその日だけはしおれるのだが、翌日からはケロッとして同じことを繰り返した。彼は反省することなく、友人の小泉にちょっかいをかけ続けた。
 そして噴火二度目。ちょうど我々が先生にインタビューした日だ。
 沖田相手に長い間先生は怒鳴り散らしていたという。その間も沖田は周囲の部員に冗談めかして笑いかけていたというから火に油のようなものである。お説教は普段よりも長くなったらしい。
 部員達もげんなりしてしまい、退部したいという子まで出てきたのだとか。
 そこで奮起したのが女子バドミントン部所属の聖女萩原だった。彼女は津崎教頭に直談判しにいった。山尾先生の指導は行き過ぎの感があると。前々からバド部は先生の恐怖政治のような強圧的な指導に悩まされていて、今回その問題点がいよいよ顕在化したのだと。せっかくバドミントンの指導は適切であり的確なのに、あれでは楽しく練習を続けていくことができないと。
 萩原さんいわく、どうやらそれは前々からバド部一同が抱えていた暗黙の問題事だったらしい。
 しかし津崎はおざなりに対処した。「ちょっと厳しいだけだろう」と聖女の告発を突っぱねたのだ。津崎としては前の二つの事件がまだ尾を引いていたので及び腰になったのだろう。小さな問題でも今は黙殺したい。そういう保守観念が奴にはあったのだ。
 そして結果的にその対処は間違っていた。
 三度目の大噴火。山尾先生の本気モード。年に一度あるか無いかの。そしてそれは体育館にいた人間全員が凍りつくほどの破壊力を有していた。何者かがその様子をこっそり撮影していたのだ。
 その動画は限定的な界隈で広がりを見せた。放課後、いくつかの教室の黒板に謎のURLが書き出されていたのだ。それを見た生徒がそのURLにアクセスすると、山尾先生大噴火の一部始終の動画が流れるというわけだ。
 生徒とほぼ同時に先生もそれを発見したことで、情報封鎖の手は早めに打たれることとなった。すでに動画は削除されているが、何人かの生徒はそれを保存し、中には親に見せた生徒もいたようなのだ。それにより今回の騒動が持ち上がった。
 茜灯高校から外にその動画が出ることはなかったが、こういったことを保護者が知ることになってまた学校側は対処を迫られることとなった。すでに教育委員会の人間も知っているようで、またぞろ保護者説明会が開かれることになるのではと先生方は噂していた。
 しかも学校側は萩原さんの事前忠告を無視したこともあり、最終的に山尾先生一人の責任にはできなくなってしまった。学校側の対応も問題視されることとなったのだ。校長や津崎にしてみればこれが最も厄介なことなのかもしれない。言い訳が難しい。山尾先生が一人自滅してくれた方が彼らからしてみればダメージは少なかっただろうが、萩原さんの直訴があったことによりそうもいかなくなってしまったのだ。
 これでまた茜灯高校は短期間に立て続けで問題が発生したことになる。保護者連中や教育委員会からもすでに怒りの声が上がっている。学校の上層部は頭を抱えていることだろう。
 ……以上、ハルの見解でした。
「そういえば、アイツ教頭だったわね」
 俺としてはハルのこの言葉が最も印象的だった。
 いつの間にか茜灯高校には妙な二つ名がつけられていた。
 誰が呼んだか、「呪われた学校」――。
 学校中ですでに「パワハラ事件」のことは噂されていた。あっちでもこっちでも。あることないこと。津崎のバカは頼んでもないのに記事にするなよと厳命してきた。血圧が高そうだったのは気のせいではないだろう。
 昼休み、俺とハルはすぐに萩原さんの教室に向かった。
 教室の外に俺たちの姿を見つけると、萩原さんは高屋さんとの会話を切り上げ、少し神妙な面持ちで出迎えてくれた。
「山尾先生のことね?」
 俺が頷くと、萩原さんは悔しそうにため息を吐いた。
「だから言ったのに。津崎のあんちくしょうは何も問題視しなかったんだから」
 冗談めかしてはいるが、明らかに萩原さんは憤っていた。
「山尾先生は普段から……」
 俺が最後まで言う前に萩原さんは答えた。
「ええ。お二人も元担任だったんだから知ってるでしょ。正直、恐かったわ。ほら、先生ってみんな授業中よりも部活動の時の方が厳しくなるでしょ? 山尾先生もギアが一段上がるのよ。それでみんなピリピリしてたの」
 萩原さんは真っ直ぐに俺の目を見て言ってきた。なんとか分かってもらいたいという真摯な態度にも見える。
「じゃ、誰があんな動画なんかを」
 俺はこれが訊きたくてここに来たのだ。
 萩原さんは力なく首を振った。
「撮影者になる可能性なんて、きっとみんなにあるのよ。みーんな。私が教頭先生に談判に行ったように、誰かが別の方法で訴え出てもおかしくない状態だったの。特定なんてできないわ。それに部員は男女合わせて四十人以上いるけど、当時体育館にはそれ以上の生徒がいたのよ」
「さすがに犯人の特定は難しいか」
 そんな俺の落胆を見てハルが口を開いた。
「ナツ、誰がやった、とかではないのよ」
 俺は隣にいるその女の顔を見上げた。
「誰にでもそういうことができる世の中だっていうことよ。撮影が可能な機械を誰もが持っていて、その使い方を誰もが知っている世の中だということ。一人を捕まえたってまた同じ状況で山尾先生は同じ憂き目に遭うことになるのよ。犯人を捕まえたところでそれは変えられないし、現在の状況が好転するわけでもない」
 ハルは視線も口調もやけに冷静だった。
 ハルは更に言葉を接いだ。
「ただし、山尾先生が山尾先生たる所以はあの大噴火にあると私は思っています。あれに代表される一連の頑強さが山尾先生を山尾先生たらしめているのです。これに懲りて先生も大人しくなれなんて私は言いたくありません。もう一度動画を撮られたくなかったらあなたのその「基準」を変えなさいなどとは言いたくありません。そんなのは全然「良い先生」じゃない。あんな動画なんてのは山尾先生という人物のほんの一部、彼女が特殊な状況下にあるほんの一瞬間のみを切り取って際立たせ、その前後にある「良い先生」としての文脈をまるで無視した悪意しかない動画です。犯人を探すことに意味はありませんが、見つけ出してお前のやり方は間違っているとは言ってやりたいですね」
 ハルの目が力強く光り、口元がささやかに持ち上がった。
 やはりこの女の言葉には魔力がある。何度も実感してきたことだが、今回は強烈だった。
「先生にも言ってやりたいね」
 俺は応じるようにそう言った。
「何を?」
「先生のやり方は間違ってないって」
「あ、そう。じゃあ、今日ちょっと行ってみようかしら」
 ハルが何でもないような顔で驚きの提案をしてくる。
「え! 先生んちに?」
「謹慎しているのなら確実にいるはずでしょう」
「そういうことじゃなくて!」
「あなたが言ったんですよ。先生に言ってやりたいって。面白そうじゃないですか」
 ハルの抑揚のない表情を見ていると、何事にも慌てる必要は無いのだと思ってしまう。
「ハイエナ新聞部として?」
「ゲスな野次馬としてですよ」
 ハルはニコっと笑った。男子が卒倒しそうな笑顔を何故かこういう時だけ見せてくるおかしな女なのだ。
「よっしゃ。行ったろう。奴の泣きっ面拝んでやろうじゃねーか」
 あの、と声をかけられた。
 萩原さんが申し訳なさそうにしている。
「なんか、悪い事しちゃったみたいで……」
 山尾先生を糾弾した側の代表みたいに萩原さんは謝ってきた。こちらが山尾先生びいきなことに気後れしているのだろう。
 これにハルが応じる。
「あなたたち部員が見た山尾先生は罰せられるべき教員であり、あなたたちはそう判断したのでしょう。もしそれに本人が納得し反省もしているのなら気に病む必要などありません。年中先生に怒鳴られている私たちは感覚が麻痺してますから、部員さんたちとは別見解だということです。そんな奴らの意見はまるで参考にならないしお話にもならないので申し訳なくする必要もありません」
 そう言いきってハルは歩き出した。いまいち飲み込めていない萩原さんは置き去りだ。
「じゃ、俺もそれで」
 ハルのをコピペして俺も去った。
 それにしても今のハル、口調は優しかったがいつもの温かみが感じられなかった。
 もしかして、本当はちょっと怒ってる?
 教室に帰る道中、ちょっと寄り道して以前に吉田さんが物思いにふけっていた窓のところを通った。今日も吉田さんがそこにいるかもしれない。
 だが今日は別の人物がいた。それも渦中の。
 窓の外を眺めている割に実は何も目に入っていないその虚ろな眼差し。それもまた吉田さんと一緒だ。
 間違いない。あれは沖田充だ。
 のっぽで面長で、坊主に近い短髪。いつもニヤけているからか目は細い。そして今はそのニヤニヤは一ミリも見えない。
 放心状態とはこのことを言うのだろう。
 沖田には悪いが、この光景を見た山尾先生派は溜飲が下がる思いをするのではないだろうか。いい気味だと。
 さあ何を言ってやろう。
 ざまあみろ?
 大丈夫?
「沖田君」
 ハルが声をかけた。
 俺が何もしない時はいつもハルが何かをやってくれる。
 沖田は名前を呼ばれたから振り返ったというより、音がしたから反応したという程度の曖昧な目つきでこちらに体を向けた。
「あれ? 新聞部?」
 囁くような声で彼は目の前の現実を認識した。定まらない視線が俺とハルの間をうろついている。口は困惑気味に開けたままになっている。
「顔色が悪いわ。窓の外に広がる空よりも真っ青」
 ハルが不安そうにそれを告げた。本人がその蒼白さを分かっていなさそうだからハルがわざわざ伝えてあげた感じだ。
「俺、やっぱり何か書かれるの?」
 泣き出しそうな表情で身構える沖田。新聞部の悪名が隅々まで広まってしまっている。マジでこれは何とかしなくてはならない。俺個人としても身動きが取れなくなってしまうじゃないか。
「取材じゃありません。たまたまここを通りがかったら病院服が似合いそうな悲愴感漂うあなたが、見たくもない窓の外を眺めていただけです」
 それでもまだ恐怖の色が引かない沖田はおそらく、ハルの言っていることをちっとも理解していないのだろう。理解するための回路がエラーを起こして停止してしまっている感じだ。
 俺はエラーを起こしているうちに聞きたいことを聞けるチャンスだと思った。
「おい、沖田」
 私はナツを押しのけ大きな声で言いやった。
 こういう時は大声が最も効果的なのだ。ドラマとかでも事故に遭った人に救助隊員がまず最初にやることは大きな声で話しかけることだ。
 狙い通り、沖田はまた音に反応した感じでこちらを向いた。
「いいか? よく聞け! 今日俺たちは山尾先生んちへ行く予定だ! お前も一緒に来るか?」
 俺は沖田の肩を鷲掴みにしながら声を張り上げた。
 沖田は目を丸くしながらフルフルと首を振った。
「合わせる顔、ない……」
 このか細い声を聞いて俺とハルとは視線を合わせた。
 何事も冗談としか捉えないあの沖田充が、今は反省している。ちゃんと事の重大さを理解している。
「それじゃあ、先生に何かメッセージあるか? 伝えたい事、何でも」
 俺は声のトーンを落として訊いた。
 この時、沖田充からようやく表情らしい表情が垣間見えた。
 落胆、そして後悔。
 彼は目を伏せたまま答えた。
「ごめんなさい……」
 このあまりにも素直な謝罪を聞いて、またもや俺は次にくる適切な言葉に迷ってしまった。
 ふざけるな?
 キャラに合わないこと言うな?
「後悔してるってこと?」
 再度ハルが空白を埋めてくれた。
「これは結構大事な確認なんです。あなたが後悔しているかどうかって」
 ハルが重ねて不可解なことを言う。
「後悔は……、してる」
 項垂れたまま沖田は肯定した。ボディランゲージで今言ったことを実践しているように見えた。
「その後悔っていうのは、こんな大事になるとは思わなかったという意味ですか? それとも、ただ友人と悪ふざけがしたくて部活に入ったという自分自身の身勝手さに対してですか?」
 結構厳しくハルは問い質した。
 前者だったらまだ身勝手さが直っていない証拠ともなる。
 被告は少し顔を上げて答えた。
「俺が馬鹿なことして、先生が大変な目に遭ってることだよ……」
 それは吐き出すような声だった。
 彼の後悔は後者だったのだ。
「よかった……」
 ハルが何故か安堵の表情を見せた。
「何だよ?」
「別に。さあ、もう一人にしてあげましょう」
 俺の腕を引っ張ってハルはその場を離れようとした。
「ちゃんと、先生に伝えておくからな」
 取りあえず別れる前にそれだけは言っておいた。
 明らかにハルは早足でその場を去ろうとしていた。しかも進行方向ではなく来た道を引き返しているのだ。どうかしたのかと思いきや、曲がり角でもう一人の重要人物と行き会った。
 まるで不意を突かれたようにその男の顔は強張っていた。
 そうか、ハルはこの人の気配に気付いていてそれで……。
 ハルを早足にさせた人物。それは沖田充の友人にしてバドミントン部期待の星、小泉修だった。
 男子にしては長めの髪と犯罪者のような鋭い目。俺たちに出くわして焦っているその態度とこの鋭い目とのアンバランスさはコミカルと言っていいほど奇妙だった。目つきは鋭いが、もしかしたら天然でおっちょこちょいなのかもしれない。
「小泉君だっけ?」
 俺が確認すると、彼はコクコクと首を小刻みに縦に振った。
「沖田君の様子を見に来たの?」
 続いてハルが全知の視点からものを訊いた。
「うん、まあ、ちょっと……」
 急に悪事がばれた時のように照れ出した小泉。
「慰めにいこうとしてたとか?」
 俺が訊いた。まさか、という非難の色を混ぜて。
 すると彼は思いっきり首を振った。
「違う! そうじゃなくて、お前が悪いんだって言ってやろうと思って……」
 そう言う小泉本人こそが自責しているように見えるのだが。
「そしたら沖田君は沖田君で、言われるまでもなく自責の念で押し潰されそうになっていたと」
 ハルが結論部分を引き継いだ。そして小泉は頷いた。
「今話を聞いてきましたよ。ちゃんと反省してるみたいでしたね」
 ハルがそれを教えてあげた。
 小泉はがっくりと肩を落としてこう言った。
「先生は悪くないんだ」
 犯人が取調室で自供する時、こんな消え入りそうな声が出るのだろう。
「俺と、あいつが悪いんだ。遊び半分で入部してきたあいつに俺はずっと付き合ってた。山尾先生が良く思っていないことを知りながら。山尾先生を怒らせたのは俺たち二人だ。怒られても仕方ないことしたんだ。それなのに……」
 小泉は言葉に詰まった。
「山尾先生ってさ、いつも怒ってたわけじゃないんでしょ?」
 俺は訊いた。
「指導は厳しいけど、怒ってたわけじゃない」
 ハッキリと首を横に振り、否定の意を見せつけてから彼は言った。
「雰囲気的にはどうだった? いつも部員は先生が噴火するのをビクビクしながら部活やってたの?」
 小泉君は反射的に腕を組み考えるポーズを取った。
「うーん。俺は鈍感だからなあ。そういうのってたぶん女子寄りの意見だと思うんだけど」
 意外に鋭い。
「そういう雰囲気は無いわけでは無いんだよね。ああいう先生だしさ。でも部員はみんなそれ知ってて入ってくるわけだからさ、怒鳴られたって想定外ってわけじゃないんだと思う。ただし沖田は例外中の例外。やっぱりあいつが部活動をやること自体が間違いだった」
 割と饒舌に語った小泉は、最後に失敗した時の表情を浮かべて沖田加入を激しく後悔していた。
「息が詰まるほどではなかった?」
 今度はハルが訊いた。
「うーん。男子は全然。ただ問題は女子だなあ。向こうはそういうのに敏感だから」
「じゃあきっと男子に動画を撮影したやつはいないね」
「多分、女子。これ内緒ね」
 しーっのポーズで厳命してきた小泉はきっと小心者なんだろう。
「でもあの時体育館にはバド部以外も大勢いたから。特定は難しいんじゃないかな」
 小泉がこれを言うとハルは何かを考え込んでいた。
「俺、どうやって償えばいいかな」
 沈んだ声と表情でいきなり小泉がそんなことを訊ねてきた。
 いや、訊ねてきたというより自問している感じだ。
「試合に勝つことと、真っ当に生きること」
 ハルがまたしても何でもないような顔で、あっさりとその突然の問いに答えを出した。
「指導者が生徒に求めるものはその二つだけよ」
 山尾先生の指導を無駄にしないことが償いだとハルは小泉に言い聞かせた。
 小泉はそれでも落胆からは回復できずに「そうだよな」と力なく返事をして。沖田のいる方向とは逆に歩き出した。
 気落ちしたその背中はやけに小さく丸まって見えた。
「相当参ってますね」
 その背中を見ながら俺は言った。
「本気で自分らのせいだと思っているのでしょう。だけど実際罰せられるのは山尾先生だけで、自分らは被害者扱いになってしまっている。いわば被害者は本当の被害者ではないということ。なのに被害者と思われている。彼が憤っているのはそんな現実になのでしょう」
「前の二つの事件も同じような感じだったような。根拠は無いけど」
 俺がこう言うとハルもそれに同意してきた。
「そうですね。ということはどの事件の加害者も実は加害者ではないかもしれませんね。根拠は無いですけど」
 放課後、俺とハルは山尾先生の家へと向かった。二人とも制服のままだ。
 マンションの駐車場には山尾先生が毎朝出勤に使っている黒色のバンがポツンと寂しそうに停められていた。忙しい大人が大勢いる中で先生だけが部屋に引きこもっている現状を風刺しているようだった。
 一人暮らし用のワンルームに先生は住んでいた。あまり生活の質にはこだわらない性格なのだろう、大学生向けの安上がりなマンションでこじんまりと暮らしているのだ。
 部屋の前でインターホンを押して待っていると、チェーンを外す音も鍵を外す音もしないうちにドアが開いた。女の一人暮らしには少し不用心な気もするが、本人はおそらく自分のことを「女の一人暮らし」に該当するとは思っていないのだろう。
「あら、マスコミの犬二匹」
 予想外に自然体の山尾先生が出迎えてくれた。普通に休日に遊びに行った時の反応みたいだった。先生はサンダル履きで玄関から一歩進み出てきて、それから後ろ手にドアを閉めた。
 見覚えのあるジャージの上下。部屋着と職場の服装が同じ大人の女性など数えるほどしかいないだろう。当然、今の山尾先生はすっぴんなのだが、学校でもどうせすっぴんなのでその点も一致している。つまりこの人は部屋の中の姿と職場での姿が完全に一致している稀有な女性労働者ということになる。
「先生、日本ではジャージ以外の服の購入も認められているんですよ」
 ハルが真顔で何かを糾弾した。
「知ってる。スーツも買えるのよね。喪服用に一着持ってるわ」
 ケロッとした顔でハルの嫌味を難なく返す。
「先生、着なくなった俺の服あげよっか?」
 俺も呆れ顔で提案した。男物でもジャージよりはましだろう。
「うーん、ナツではサイズが合わないなあ。こことか、こことか、ここのあたり」
 ジェスチャーでバストウエストヒップを見せつけてくる山尾先生は、それほどへこんでいるようには見えなかった。
「逆にナツがブラジャーを着けてみてはどうかしら?」
「逆って何ですかね」
 俺とハルがうるさくなると先生は嬉しそうにケラケラと笑うのだ。なんだ、いつもの山尾先生じゃないか。
「てか、あんたらTPOくらい弁えなさいよ。こんな時に何しに来たのよ」
 悪事を咎めるような口調と表情で山尾先生は俺たちに言い寄ってきた。
「あら、まずいですか?」
 ハルが訊いた。面白がる感じで訊いた。
「謹慎中!」
 自分を指差して堂々と宣言する豪胆な女教師。
「こうやって玄関先でうちの生徒と会っていること自体アウトなの! 私は大人しくジャージでも着て部屋で正座してることになってんのよ! ノー細胞のナツならともかく、あんたは分かってるでしょ!」
 先生はハルを叱り飛ばした。
「なんですか、ノー細胞って。せめて単細胞がいいな、俺……」
「私は謹慎の意味くらい分かっていましたけど、どうしてもナツが言いたいことあるっていうから付き合ってあげたんです」
 ハルがそう言うと、先生は目をパチパチさせて俺の顔を覗きこんできた。
「ざまあみろ?」
 先生が訊いてきた。そう言いにきたんだろうと。
「違います! それよりもまず、沖田君からの伝言をお聞きください」
「沖田君の……?」
 これにはさすがに先生も驚いたようだ。
「ごめんなさい、だそうです。顔面蒼白および人事不省で死ぬ程後悔しながら」
 俺はありのままを伝えた。
 先生は表情を消し、ため息を一つ吐いた。
「そう。後悔してるのか……」
「よかったですね」
 ハルが言った。先生も思わずハルのその一言に伏せていた目を向けた。
「そうね。よかった」
 先生もどこかホッとした様子だった。
 報われた、という意味の安堵だろうか。
「私が先生にお伝えしたかったのはそれだけです」
「そう。ありがとう」
 先生はハルに素直に礼を述べた。どちらの表情もやわらかい。
「では、ナツがまだ何か言いたいことがあるようなので、どうぞ聞いてやってください」
 ハルが親切めかして俺に全部投げてきた。まあいいけど。
「何よ?」
 先生の一対の目が無邪気に俺を目つめている。
 俺は山尾先生に一つだけ訊きたいことがあった。だがそれなりに勇気が無いと訊けないこと。恐らくハルも感じているであろう心配事。
 俺は意を決してそれを口にした。
「先生、教師やめないですよね?」
 俺は先生の自然体過ぎる態度がどこか不自然に思えたのだ。装っているか、あるいはもうすでに覚悟を決めているかどちらかだと思っていた。
 山尾先生は薄く笑った。目がわずかに細められ、それが俺の目をじいっと見ている。
 俺はそれを俺に対する感心と捉えた。「へえ、わかってたんだ」と。
「向いてないんじゃなくて、合ってないのよ、私」
 山尾先生は声を抑えてそれを言った。
「私なりの線引きというか、基準? それが学校内の教育者としての基準からは大きく外れているのよ。私が教育者ってこうだよなあと思う基準と学校が認めるそれ。この二つが大きく違っているのよ。これって結構致命的なことよ」
 少し寂しげに山尾先生は語った。
 寂しいのか、あるいは悔しいのか……。
「今回のことでそれがハッキリしたわけじゃない。私は別に間違ったことしたなんて思ってないけど、学校側、生徒側、あるいは世間側からしてみればそうじゃないみたいなのよ。このズレは結構厳しいわ。だったら退くべきかなあって思ってるわけよ」
 俺はこの意見を突っぱねた。
「みんな中身を見ないで、印象だけで先生のやったことを決めてかかってるだけです。先生の基準はちょっと厳しいかもしれないけど、先生のこと知ってる人なら間違ってるなんて誰も思わないですよ」
 すると先生は呆れ顔でため息混じりにこう言ってきたのだ。
「あんたがいつ教師を上から目線で語れるようになったのよ」
 俺は反論もなく肩に首を入れ込んで下を向いた。
 その肩を先生に叩かれ、ありがとうと言われた。
 見上げたその顔は、それでもやはり寂しそうだった。
「ナツの言うとおり、単なる印象なのですが……」
 一人冷静な女が坦々と話を切り出す。
「よく考えてみると、今回の騒動は沖田君と山尾先生の間ですでに完結していることなんです。教師である山尾先生が生徒である沖田君の不徳を見咎めてお説教し、説教された生徒がその内容を認め、何の文句もなく反省している。教師の指導として正しく完結しています。むしろどこにでもある学校生活の一場面です。ただの一教師の姿。これを悪魔の姿に変えてしまうのが印象やイメージという魔法の力なのでしょう。せっかく成立している正しいお説教を不成立なものに変えてぶち壊しにしている」
「印象……」
 そんな実体のない空虚なもので人ひとりの運命を判断してしまうなんて。なんとバカな人間、何とバカな世の中だとハルが色々を罵った。
「でもね、ハル」
 先生はおそらく教師としての指導ではなく、大人の教訓としてこれをハルに告げた。
「その印象が全てなのよ……」
 これに対するハルからの反論は無かった。

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