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テクノロジーを基礎とした新しい現象のとらえ方

新しい事象への人々の反応パターン

新しいテクノロジーがもたらす驚くべき革新に対して、人々はこれに大いに注目し、私たちの社会生活を一変させる可能性や既存の価値観の揺らぎを論じ、盛り上がる。

曰く、AIが人間社会や民主主義を破壊する、仮想通貨が通貨体制を破壊する、ブロックチェーンがもたらす分散金融が従来の金融秩序を破壊する云々。このたぐいの言説には枚挙に暇がなく、また非専門家であるメディア記者が飛びつきやすいこともあって広く拡散され、それを聞きかじった目端の効く人が更にそれをそれっぽく語ることで、幻想が広がっていく。

こうした現象は別に否定されるべきことでもなければ、これに苦言を呈したいわけでもない。

起業家たちは、新たなテクノロジーを応用した自らのサービスが、そうした世界を創り上げるものと喧伝するし、それを真に受けたメディアはこれらのサービスを取り上げてアテンションを稼いでマネタイズする。また、そうした大騒ぎが起こりそうなサービスには、有名になる前にベンチャーキャピタルが資金を入れて、有名になることによるバリュエーションの向上による富を享受する。

こうした活動によって毀損されるのは、そうしたfuss(大騒ぎ)に関係者としてアクセスすることができない一般の人々との間に生まれる、情報格差に淵源する富の格差によって生じる社会のインテグリティであって、これが目下のところイノベーションがもたらす負の外部性の最たるものだと言ってよい。

たしかに、富の格差は社会全体にとって深刻なものではあるし、それを抑え込むシステムは別途しっかりと構築しなければならない。けれども、これは資本主義社会のある意味根幹をなす仕組みに基づくものなので、そのこと自体を批判したりその体制に挑戦したりしても生産的ではない(もちろん、そこにチャレンジする革命家というポジションはそれはそれでリスペクトに値する)。

メカニズムを理解することの大切さ

特に現在大きな話題を呼ぶイノベーションは、新たなテクノロジーを起点とするものであることが多い。

テクノロジーは魔法ではないので、テクノロジーを応用して出てくるアウトプット(現象)には、その後ろに必ずメカニズムがある。

鄙びた温泉宿にある木製の古い引き戸を開けたら自動的に閉まる、ということを初めて経験した人は、そこに紐と滑車につながった大きな錘を目にしてその仕組みに気づくだろう。そして、その引き戸を制御するためにはどうしたらよいかに気づくはずだ。

AIだろうがブロックチェーンだろうが、その他のどんなテクノロジーでも、その実態は同じだ。

電気も流れていないのに開けた木製の引き戸が自動的に閉まるという現象面だけを見れば、それを実現しているのは魔法であると言われてもこれを説得的に反証することは難しい。しかし、現象の観察にとどまらずそれを実現するメカニズムを理解するように努めれば、なにがその現象を可能にしているかを把握することができるし、その結果、その現象の限界はなにか、同じメカニズムを用いてできることとできないことの境界を理解することができる。

おそらく理系と呼ばれている人たちは、こうしたことは当たり前のことで何をいまさら言っているのか、と思うかもしれないが、僕の見るところ、いわゆる文系と呼ばれている人たちを中心に、こうした思考に入っていかずにその社会的な影響であるとか人間性に対するインパクトなどという話に直に飛んでいってしまう人が結構たくさん存在する。しかもそれは、高学歴かどうかということとはあまり関係ない。

世界の見え方、捉え方についての思考の癖とか限界とかに起因するものだと思う。

更に、それを社会システムとして理解することの大切さ

あるテクノロジーがもたらすインパクトについて考えるためには、そのテクノロジーのメカニズムを理解するだけでは足りない。

たしかにテクノロジーのメカニズムを理解することは、そのテクノロジーの内在的な可能性や限界を理解することにつながり、それはそのテクノロジーが社会にもたらす影響のポテンシャルを考えたり、夢物語のような言説を排除するためには有用だ。

けれども、社会はそのテクノロジーだけで成り立つわけではない。既に存在する(もしかしたらよりイケていない)テクノロジーと、そのテクノロジーを前提として形作られた価値観や世界観、それらを背景としたルールやビジネスの慣習、利害関係などの社会的な仕組みが横たわっている。

革新的なテクノロジーはたしかに新しいかもしれないし、テクノロジー単体としてみれば、世界を全く違うものに塗り替えるだけのポテンシャルがあるかもしれない。しかし、残念ながら世界はそのテクノロジーの出現以前に既に「成立」している。いかに新しいテクノロジーが生まれても、それが世界を一旦白地にして、そのテクノロジーを中心に一から社会を作り始めるということは起こらない。

そこで理解しなければならないのは、現状の世の中が今のような形で成立しているのは、各要素がどのような力学関係で均衡しているからなのか、という仕組みの全体像だ。つまり、そのテクノロジーの外にあってそのテクノロジーによって影響を与える可能性のある領域に存在している社会システム全般を理解しなければならない、ということだ。

おそらく文系と呼ばれている人たちは、こうしたことは当たり前のことで何をいまさら言っているのか、と思うかもしれないが、僕の見るところ、いわゆる理系と呼ばれている人たちは、これを理解していない人たちが多い。技術的にはこうしたことが可能であり、このほうが世界をより良くするのだから、このサービスは社会に受け入れられるべきであるし、これを受け入れないのは社会が間違っているか後進的なせいだ、という話に飛んでいってしまう人が結構たくさん存在する。しかもそれは、高学歴かどうかということとはあまり関係ない。

マージナルな領域を歩くことの大切さ

専門領域のど真ん中で生きていると、なかなかこうしたことには気づきにくいようだ。専門領域のど真ん中での熾烈な競争から一歩身を引いて、マージナルな領域を歩いてみると、様々な場面でこうしたことに気づく機会に出くわすだろう。

それはどこかのオーソリティが創出したKPIをターゲットして、そのKPIを高めることに汲々とするという行動様式を採用する人たちには見えてこない世界だし、そういう人たちを生産することに汲々とする社会や教育を採用する国には見えてこない世界だ。

だけれども、これまで生み出されてきた新しい価値は、両方のものの見方を行ったり来たりしながら試行錯誤する人たちによって創出されてきたものだ。そして、新たな事象のメカニズムを理解して、これを既存システムの中にどのように定着させるか、という思考様式は、それ自体がイノベーション実現のためのメカニズムである以上は、今後生み出される新しい価値についても、同じことがあてはまるのだろう。

この視点は、日本をこれからどうしていく必要があるのか、ということを考えるにあたって、常に念頭に置いておかなければいけないことだと思うし、個人が自分の生き方を選び取るにあたっても、欠かせない視点なのではないかと思う。

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