居た人が居なくなる時期

 先日、職場近くの学校が卒業式だった。垣間見える校舎からは、卒業式の日独特の寂しさが漂っていた。きっとその奥の教室の黒板には、その前の日に誰かがメッセージを書いてくれて、当日教室に入ると否が応でも「もうここに『日常』は無いんだ」と思わせられる。

『日常』は、そんなもんだ。きっかけなんてあるかないかわからない。学生時代は『引退』とか『卒業式』いう通過儀礼によって、なんとなく変わりゆく日々を明確にさせて、受け入れていく。一方の職場は新卒の入社式と定年退職くらいでしかきっかけなどなく、なんとなく人が入ってきて辞めていく人がいて、慌ただしくそれまでの『日常』が変わり、やがて落ち着いて新しい『日常』が始まる。

 家族の場合はどうだろう。
 先輩が部活引退するだけ、思い出の田んぼが駐車場に変わっただけでさめざめと泣く私は環境の変化を一番に苦手としており、それは強いストレスの要因となる。なので、『日常=家族のカタチ』が変わることはずいぶんとしんどい出来事である。自らが望んで、大学進学を機にひとり暮らしを始めて何を言っているのかとは思うが。

 日常=家族のカタチの変化として大きなものは、それこそ進学や就職、結婚や出産、離婚や退職、介護等あらゆるライブイベントだろう。それはハード面の同じ『家』に住まうメンバーの増員や欠員の変化が主である。そこに自分たちの気持ちが納得していれば受け入れられるし、納得してなくても受け入れざるをえない場合もある。

 
 父が癌を患ってしまった今、『日常』がそう遠くない未来において変化することが決まってしまった。
 わたしは家族社会学を研究したがーーしたからこそ、なのかもしれないがーー家族の在り方やカタチについての正解はてんでわからない。ただ、わたし自身にとっての家族はいつも帰る場所で、そこで日々の生活を営んで、そこに居てくれるだけでよかったのだ、ということはひとり暮らしを始めた日から変わらない。

 不幸中の幸いとも言うべきか、有難いことにこれが不慮の事故による「ある日突然」ではないことがせめてもの救いである。新しい『日常』が来ようとしているそのカタチは、なんとなく想像がつく。だから、自分たちで事前にたくさんのパターンを想定しておける。今はその新しい『日常』に備えるための、心の準備が徐々に出来つつある。

いつかおとずれるその日、100点で迎えられる自信はないし、欲を言えばそんな日はずっと来なければいいのにとさえ思う。欲どしい願いなのは百も承知なので、せめて、一日でも長く、このままの日常が続けばいいのにとあらゆる神さま仏さまに願うばかりだ。

 居た人がそこに居なくなったという点を見つめるのではなく、居なくなった人が歩いてきた道を見て、残された自分の未来を新しい『日常』として線にしていけるように生きなきゃな、と思ってなんとか、事実、この日々を受け入れつつあるというお話。


追伸:お父さん、元気でいてほしいので病院から言われたミッションという名のリハビリは頑張ってください。

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