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私の「金閣寺」(3)

「金閣寺」を読んでいて戸惑いを感じることの一つに「美」に対する表現があります。

例えば、主人公の溝口が同級の少年たちに自分の吃音をからかわれたときの描写。

『嘲笑というものは何と眩しいものだろう。』

『私には、同級の少年たちの、少年期特有の残酷な笑いが、光りのはじける葉叢のように、燦然として見えるのである。』

「嘲笑」や「残酷な笑い」が「眩しい」「燦然として見える」とは、いったいどういうことなのだろう。

あるいは、

『「美しい景色は地獄だね」』

『若葉に包まれた静かな何気ない目前の風景にも、地獄が揺曳していたのである。』

また、金閣寺についての

『威厳にみちた、憂鬱な繊細な建築。』

という表現。
「威厳にみちた」と「繊細な」の間に何故、私には正反対の意味と思われる、「憂鬱な」があるのだろう。

そして、今朝読んだ部分で、遂に溝口は『金閣を焼かねばならぬ』という「想念」に包まれました。

このまま先へ読み進めるべきかどうか、迷っています。