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心のバリアフリー

私は双極性障害を患う精神障がい者です。
精神障害者福祉手帳(障害者手帳)を持っています。

昨今、「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」という言葉を耳にすることが増えてきました。
駅にはエレベータが設置され、階段の横にはスロープが設けられている所が増えています。
ほとんどのエレベータでは「○階です」「ドアが閉まります」などの音声案内もなされています。
このエレベータの音声案内がなかった頃、視覚障がいのある方は後ろめたい気持ちを抱きながらも、すべての階のボタンを押し、エレベータが止まるごとに「1階、2階...」と数えて自分の行き先階まで行っていたという話を聞いたことがあります。
小銭の投入口をお皿のようにして小銭を楽に投入できる自動販売機も増えています。

このようにモノのバリアフリー化は進んできましたが、まだまだ不十分です。
例えば、車椅子利用者が書店で見たい本や雑誌を自由に手に取って見ることができるでしょうか。

そしてそれ以上に遅れているのが人々の「心」。
「心のバリアフリー」はどうでしょう。
車椅子利用者や高齢者を差し置いて駅のエレベータに駆け込んでゆく健常者。
毎朝、「誰でもトイレ」でタバコを一服する人。
手話で会話をしている人たちを面白がって動画撮影する人。
「いつ休まれるか分からない」精神障がい者の雇用を敬遠する企業。
挙げればきりがありません。

社会に私たち障がい者のことを理解してもらうためにはどうしたら良いのでしょう。
それには私たちが様々な機会を通じて声をあげるのが一つの方法だと思います。

「障がい者は社会が作り出している」という考えもあります。
社会が障がい者を理解し、「合理的配慮」をすれば、障がい者が障がい者でなくなる。
これは極論だと私は思いますが、そういう部分もあることは否定しません。
ただ、闇雲に障がいや病気を理由にして、本来できることも「できない」とすることもすべきではないと思います。

例えば、私の職場には、入社後2ヶ月経ってもパソコンの電源の切り方を覚えない精神障がい者がいます。
これは障がいのせいでしょうか。
違うと思います。
メモをしておくなり、パソコンに順番を書いた付箋紙を貼るなり、工夫できることはあります。

また、終業の40分も前から帰り支度をし、40分間ほとんど何もしない軽度の知的障がい者がいます。
これも障がいが理由とは思えません。

このようなことがあると周囲から「障がい者はこれだから...」という目で見られても仕方がありません。
できることはきちんとやり、その上で障がいが理由でできないことを周囲に分ってもらう。
そういう工夫が障がい者側にも必要だと思います。

その積み重ねが障がい者の理解へと繋がるのではないかと考えています。
障がい者に対する「心のバリアフリー化」。
それは障がい者自身と社会の双方がともに工夫を重ねながら進めてゆくものではないでしょうか。