彼女の秘密(短編小説)
午後の日差しが差し込む喫茶店で本を読みながらコーヒーを飲む。これほどの至福があろうかとミヤコは思う。人の営みの中で最上級といってもいい。カップを置き、ソファにもたれかかる。
ふと斜め前に視線を感じて顔を上げると、ビジネススーツの男と目が合った。男は慌てて目を逸らし、目の前に広げたノートパソコンに視線を移した。メガネが良く似合っている。見たところ30手前くらいか。同じぐらいの歳かもしれないとミヤコは思いながら、小さく息をついた。ミヤコの切れ長の目や白い肌は人目を引くようで、今までにアプローチがなかったわけではない。けれど恋愛に関しては、完全にお手上げである。
最後のコーヒーを流し込む。男の視線をまた感じたが、気づかないふりをした。こんなところで昼間からパソコン一つで仕事ができる。いい社会じゃないの、と思う。伝票をとって立ち上がり、会計を済ませてカランと鳴るドアを押した。
銀杏の葉が秋の風に揺れる。ミヤコは目を細め、染まりつつある葉を見上げながら歩き出す。長い髪が後ろへなびく。おそらく美人の部類に入っているだろうと自分でも思う。けれどそれゆえに面倒なことも多い。きちんとお断りしているのにストーカーまがいのことも何度かあった。
「めんどくさい・・・・・・」
呟いてから、ふと立ち止まり、後ろを振り返った。さっきの男が3メートルほど後ろにいて、立ち止まった。男はおもむろにカバンから携帯電話を取り出し、話し出す。
ミヤコはため息をつき、早足で歩き出す。電話はどうせフリだろう。どこかでうまく振り切らなくては。
ミヤコは通りから住宅街に入り、公園を目指した。子どもの声が聞こえてくる。小さな公園だが、幼稚園の制服を着た子供が四人、滑り台と砂場で遊んでいる。母親たちは円になって立ち話をしていて、入ってきたミヤコにも気づかない様子だった。ブランコの隣にあるベンチに腰を下ろし、あたりを素早く見回した。
男の姿は見えなかった。気にしすぎだったのかもしれない。子どもの楽しそうな声と母親たちのおしゃべりが響く。賑やかなところはあまり好きではない。が、滑り台の側にある銀杏の老木が見事で、ミヤコは思わず見入ってしまった。幹の太さから見てかなりの樹齢だと思われる。もう少し季節が進んで、葉の色が染まったらどんなに美しいだろう。そんなことを考えながらぼんやりと斜めに伸びる影を眺める。
「そろそろ帰りましょうねー」
母親たちはおしゃべりを切り上げ、子どもたちへ声をかける。子どもたちは、いやだーとか、えーとか言いながらもしぶしぶ砂場から離れ、公園の入口にある手洗い場へ向かう。
もう少しゆっくりしていこうか、いや、もういいか。ミヤコは思案しながら何気なく滑り台のあたりを見た。滑り台の奥にちらりとスーツの端が見えた。銀杏の影になっていて気が付かなかった。いつからいた?
男はふらりと影から出て、ミヤコのいるベンチのほうへ向かってくる。立ち上がろうとしたが、足が動かない。子どもと母親たちはもういない。ミヤコはうっすら笑みを浮かべて近づいてくる男を精一杯睨みつけた。
「ずっとついてきてたんですか? どういうつもりです?」
最上級に非難をこめる。男はちょっと驚いた顔をしてベンチの手前で立ち止まった。
「あ、すみません。あの、話しかけようと思ったんですけど、タイミングを逃しちゃって」
タイミングを逃すというのは便利な言葉なのだとミヤコは知っている。そういうのを言い訳というのだ。
「だからって後をつけてくるなんて失礼すぎませんか? しかもずっとそこにいたんですよね」
気持ち悪いです、という一言はかろうじて飲み込んだ。逆上されても困る。男は持っていたカバンを地面に下ろし、頭をかいた。
「いや、あの、すごく気になっちゃって、あなたのこと。その、あの」
「わたし、お付き合いとかはできないんです。ちょっと人には言えない事情があって。でもそれをあなたに説明する義務はないので。失礼しますね」
いつものセリフを淀みなく吐き出しながら、ミヤコはやっと立ち上がった。向い合うと男はミヤコより少し背が高かった。メガネの奥で男の目が一瞬、光った。
「人に言えない事情って、人じゃなかったらいいってことですか?」
ミヤコはひるんだ。男は急にミヤコの右手をつかみ、「ちょっとこっち」と引っ張るように銀杏の木のほうへ歩き出した。
「やだ、やめて!」
男のほうが力は強い。ミヤコは抵抗できないまま、木の陰まで来て、ここは死角になるのだと気付いた。男は手の力を緩めない。
「ねぇ、わからない?」
「なにが?」
男の言っていることがわからないし、そのことが恐怖を引き起こしているのだとミヤコは気づいた。こういうときはどうすればいい?助けを呼ぶ? ミヤコは男をにらみつけながら思案する。
急に男に強く引き寄せられ、自分の唇と男の唇が重なった。渾身の力を込めて男を突き飛ばす。男はバランスを崩してしりもちをついた。お尻の下から茶色い毛のふさふさとした尻尾が見えた。痛ぇとつぶやく男の耳も同じように毛が生えている。ミヤコは力を失って崩れ落ちた。
「タヌキだったの・・・」
「あなたはやっぱり、キツネだった」
ミヤコは自分の耳に触れる。毛の生えた感覚。尻尾はおしりの下で窮屈そうだ。久しぶりの感覚だった。
「なんでわかったの?」
男はお尻についた砂を払いながら立ち上がる。
「匂いですぐわかったよ。ついうれしくて」
全然わからなかった。臭覚がずいぶん鈍っているみたいだ。
「だからってこんなやり方」
久しぶりに尻尾と耳を出してしまった。ミヤコは口をとがらせる。
「キスはしちゃだめだって、おばあちゃんにきつく言われてたの」
男は微笑んだ。
「キツネを見つけたら仲良くしなさいって僕は言われてたよ。タヌキの方が友好的だからって」
男が差し伸べた手を取り、ミヤコはやっと立ち上がった。尻尾のせいでスカートがおかしな形に盛りあがっている。
「せっかく出会ったんだから、仲よくしようよ」
ミヤコは大袈裟にため息をついた。
「恋愛はしないわよ」
「そう?」
「いろいろ大変だったのよ」
まぁ確かに人とは無理か、と男は笑い、手を離した。
「こうなる前に気づいてほしかったよ」
「コーヒーのせいよ、きっと」
「コーヒーってそんなにいいの? 依存性があるって聞いたけど」
「人の社会に適応していかなきゃね。でもコーヒーは好き」
ミヤコはあきらめたように笑った。
「誰かに見られる前に戻らなきゃ」
戻るための儀式をしなきゃならない。葉っぱと水を用意して、それから・・・・・・。男は不思議そうな顔をした。
「知らないの?手っ取り早いやつ」
言うなり男はやさしくミヤコを引き寄せ、唇を重ねた。
二人の影を銀杏の木が包み込む。タヌキなんか信用できないと思いつつ、ミヤコは懐かしい匂いの中で、しばらく忘れていた昔のことを思い出したのだった。二度目のキスが少し長かったのは、きっとそのせいだとミヤコは自分に言い聞かせた。
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