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わたしの存在を証明するには?

「わたしだよ!」が届かない悪夢

夢の中で「わたしだよ!」と泣きながら訴えたことはないだろうか。

「あなたの目の前にいるのは、わたしだよ!」

その声は、なぜか相手に届かない。遠ざかる背中を呼び止める自分の声で目が覚め、「夢か……」とほっとする。

そんな夢をわたしはよく見た。子どもの頃に。「わたし」の立ち位置がまだぐらぐらしている不安定さが不安になって、夢に現れていたのかもしれない。呼びかける相手は、たいてい「お母さん」だったように思う。

大人になるにつれ、「わたし」の輪郭がはっきりして、自信がつき、経済的にも自立し、次第に図々しくなり、「わたしだよ!」の夢を見なくなっていった。

「もう一人のわたし」への興味

人が「わたし」とそれ以外の境い目を意識するようになるのは、いつからだろう。

「わたしの!」という所有格の主張はかなり早い時期から現れるし、「わたしが!」と主語になるのも早い。魔の2歳児は「わたしの!」「わたしが!」を連呼する。けれど、「わたしとは?」という問いが生まれるのは、もう少し後のように思う。

「もう一人の自分」を想像するようになるのは、その入口かもしれない。

娘が幼い頃、子守歌代わりに「子守話」と称して即興の物語を語り聞かせていた。

3歳になる少し前、自分のそっくりさんが出てくる話をせがまれた。当時の娘は、親の言うことを「イヤイヤ」と突っぱね、親のいやがることを嬉々として繰り返す第一次跳ねっ返り期まっただ中。娘をモデルにした「へそまがりちゃん」と、見た目はそっくりな「おりこうちゃん」を登場させた。

へそまがりちゃんは、ママのことをほんとは大好きなくせに「ママだいきらい」と言って困らせるのが大好き。ママが「お食事よ。手を洗ってらっしゃい」と言うと、「はーい。てを よごしまーす」。

ある日のこと。いつものように、へそまがりちゃんが手にインクをつけて、せっせと汚していると、鏡の中からそっくりな女の子が出てきて、「おててを あらいました」ときれいな手を差し出した。へそまがりちゃんと姿かたちはそっくりだけど、やることは大違いなその子は「おりこうちゃん」。

おなかがいっぱいになると、へそまがりちゃんは「まずかったー。おなか ぺこぺこー」。
おりこうちゃんは「おいしかったです。ごちそうさまでした」と手を合わせる。

「どっちがうちの子かしら」とママ。へそまがりちゃんは「こっちにきまってるじゃない」と言おうとしたけど、ひねくれものなので、「こっちは にせものでーす」と言ってしまう。

「ってことは、こっちが本物なのね」と、おりこうちゃんを見てママが言うと、「はい そうです」と、おりこうちゃん。

と、そのとき。
「うえ~~~~~~~~~~ん!」
へそまがりちゃんは自分でもびっくりするくらい大きな声で泣きながらママに抱きついて、
「ほんものは こっちよ こっち! ママ そっちは にせものだよ!」

ママは、へそまがりちゃんの頭をよしよしとなでて、「そんなこと わかっているわよ」
へそまがりちゃんが驚いてママを見ると、
「あなたのこと、ママは世界で一番よくわかっているからね。どんなにそっくりなにせものでも、ママは絶対に見抜けるわよ」

へそまがりちゃんがあんまり意地っ張りなので、騙されたふりをしてたママ。いつの間にか、おりこうちゃんはいなくなっていて、ふと窓の外の空を見ると、ぐんぐんと空高く上っていく小さな星が。

もしかしたら困ったママを助けるためにお星様がおりこうちゃんに化けたのかもね。

……そんなお話。跳ねっ返り娘に手を焼く母親(わたし)の願望がかなり入ったストーリーで、娘は無邪気にへそまがりちゃんとおりこうちゃんの対決を楽しんでいた。

「わたしがいっぱい」をリクエスト

しばらくして、「そっくりさんがいっぱい」の話をせがまれた。自分だけでなく、ママやお友達やお友達のママのそっくりさんが次々と出てくる話がいいと言う。

そこで、保育園に迎えに行ってから帰宅するまでにそっくりさんがどんどんふえていく子守話をこしらえた。

保育園の玄関に着くと、娘と仲良しの男の子とそのママがいて、4人で一緒に帰ることに。すると、保育士さんがホールにまだ娘ちゃんいますよと告げ、「あれ?」っとなる。そこに、ママのそっくりさんがやって来て、ホールにいる娘のそっくりさんを引き取る。

「あれれ。ママも2人⁉︎」と驚いていると、今度は2階から、玄関にいる男の子とそのママのそっくりさんが下りて来る。2組の親子が2人ずつ、合わせて8人。「なんだかヘンだね」と言いながら、8人とも帰る方向が同じなので一緒に帰ることに。

「ちょっとお肉屋さんに寄ります」とママが言うと、ママのそっくりさんが「わたしも」と言い、男の子のママとそのそっくりさんが「わたしたちも」。

8人でお肉屋さんに入ると、なんとそこにはすでに2組4人のそっくり親子が。「あらまあ」とママ3人と男の子のママ3人は、大安売りのお肉を見たときよりもびっくり。

2組の親子が3人ずつ、あわせて12人。みんなで八百屋さんに行くと、そこにも2組4人のそっくり親子が。プチトマトみたいに目をまん丸にして、お互いびっくり。

「せっかくなので、うちに寄りませんか」と ママが言い、16人でぞろぞろとおうちへ向かうと、なんと2組4人の親子が先に帰ってお茶をお茶を飲んでいた。

2組の親子がそれぞれ5人ずつ、全部で20人。名前を呼ぶと5人が一斉に返事をするので「1号」から「5号」まで数字で呼び分けることに。

数字をつけると間違えにくくなったけど、
「どうしてわたしは4なの?」「2がよかった!」と一悶着も。
 
20人でにぎやかに晩ごはんを食べると、1号親子を残して、みんなおうちへ。きっと1号から5号まで、そっくりなおうちがあるんだね。

……そんなお話。はるか昔に作ったので、ふえすぎたそっくりさんをどうやって着地させるのかなと思いながら読み返したら、「みんな自分のおうちがあったのか」と拍子抜け。20人一緒に暮らすのは無理‼︎とおうちを建てる場面があっても楽しいと思う。



おじゃる丸「マロだらけ」

以前、おじゃる丸(Eテレ18:00-18:10)で「マロだらけ」という話を書いた。

放送されたのは2015年11月26日と2016年3月17日(再放送)。そっくりさん子守話を掘り出して、これをおじゃる世界で描いてみたらと膨らませた。

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自分のそっくりさんがいることに、最初は驚いたり、不思議がったり、面白がったり。やがて「どっちが本物?」の疑問が生まれ、「そっちが本物なら、こっちのわたしはどうなるの?」と不安になる。


自分が自分であることは、自分が一番よくわかっているけれど、それをどうやって証明する?

おじゃる丸は子どもにわかるように作っているけれど、子どもは無邪気に楽しめて、大人には刺さる話というのも多い。以前のnote「名前のない感情に名前をつける」にも書いたが、主題歌とエンディング曲を入れて10分、作品部分は7分半ほど。ひとつのネタ、ひとつの感情をじっくり掘り下げるのに向いている。

この感情をおじゃるで描けて良かった、いや、おじゃるだからこの感情を描けたと思う作品が時々あり、「マロだらけ」はそんな作品のひとつだ。

わたしがわたしである証拠

自分のそっくりさんが登場するのではなく「自分じゃない人が自分の名前を騙る」という子守話も作った。

これも娘が3歳になる前のこと。名前で呼びかけると、「◯◯ちゃんじゃないよ。わたしママよ」という返事が返ってきた。面食らって「ママはわたし!」と言い返すと、「違うよ。ママじゃなくてパパだよ」と言われ、「じゃあ◯◯ちゃんはどこ行っちゃったの?」となり、子どものこの発想はどこから来るんだろう、どこまで本気でどこまで冗談なんだろうと面白くなって「わたしはわたし」という話を作った。

ある日、おもちゃの取り合いをしていて、「これ、◯◯ちゃんの!」と主張すると、「◯◯ちゃんは わたしよ」とおもちゃばかりか名前まで取り上げられてしまう。

「なにいってるの? あなたは◎◎ちゃんでしょ」
「ううん。わたしは◯◯ちゃん。あなたが◎◎ちゃんよ」

保育園のお友達や先生までも「あなたは◎◎ちゃんで、こっちが◯◯ちゃん」と言い出し、途方に暮れてしまう。

「どうしたら、わたしがわたしだって、わかってもらえるのかな」

たしかにわたしとあの子はよく似てる。誕生日も近いし背丈も同じくらい。髪の長さも同じくらい。

どこか違うところはないかしら。

そうだ! わたしは牛乳が好きだけど、あの子は牛乳が嫌い。わたしはみんなの前でごくごくと牛乳を飲んでみる。ところが、あの子もごくごくと牛乳を飲んでしまい、おあいこ。

困った、困った、どうしよう。

そうだ! あの子は鉄棒ぶーらんができるけど、わたしはできない。ところが、鉄棒にぶら下がると、ぶーらん ぶーらん なんと成功してしまう。

ますます困った、どうしよう。 

わたしにぴったりな服は、あの子にもぴったり。わたしだけが覚えていると思っていた歌を、あの子も全部歌える。

何から何までおなじ。だんだん自分がどっちなのか、わからなくなってしまう。だけど、わたしがわたしであることは譲れない。

「みんながちがうっていっても、わたしにはわかる。わたしはぜったいに◯◯ちゃんで、◎◎ちゃんでもほかのだれでもないんだよ。だって、あなたは◯◯ちゃんじゃないっていわれたら、こんなにかなしくて、くやしくて、たまらないもの!」 

そして、自分でもびっくりするくらい大きな声で言う。

「それが わたしが◯◯ちゃんだっていうしょうこ!」 

自分の名前を呼ばれること

自分の名前を友達に騙られる子守話は、夢の中で「わたしだよ!」と訴える話だ。

自分の大声にびっくりして目を覚ますと、パパとママも目を覚まして、「◯◯ちゃん どうしたの?」と言って顔を覗き込む。

自分の名前を呼ばれて、こんなにうれしかったことはありません。



と物語は結ばれる。

名前を呼ばれるというのは「わたしはわたし」だと認められているということなのだ。

自分が関わった作品にクレジットされない悔しさやゴーストライターの空しさは、名前とともに存在そのものを消されてしまうことへのやるせなさから来るのだと思う。アイデアだけでなく、試行錯誤した時間も思いついたときの喜びもなかったことにされて、その間たしかに存在していたはずの自分は誰にも知られず埋もれる。

自分と姿かたちがそっくりな別人が現れる確率は現実では低いけれど、自分と似たような能力だったりキャラだったりの誰かが突然現れて足元をすくわれることはありえる。

そのときに「わたしがわたしである証拠」を挙げて、名前を呼んでもらえるか。

「わたし」の存在証明は大人になっても続く。

夢の中で「わたしだよ!」と訴えたことのある人、現実で「わたしだよ!」と訴えている人に、とくに観て欲しいおじゃる丸「マロだらけ」。初回放送から6年経って、2021年1月13日再び放送。に、間に合わせたくて書いたこのnote。ただいま放送50分前。ぎりぎりだけど観てたも。脚本家の名前は呼んでもらっているでおじゃる。

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間に合わなかった人、NHKプラスで1/20(水)18:10まで観られるでおじゃる。

clubhouse朗読をreplayで

2023.3.29 鈴木順子さん


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。