障害者か障がい者か障碍者か
noteの下書きが142本になった。思いついたら下書きに放り込むのでタイトルだけのものや数行だけのものがほとんどだが、ほぼ出来上がっていて熟成中のものもある。そんな一つがこのnoteで、下書きの日付は2023年9月10日。7か月余り前。熟成を通り越し、もはや塩漬けになっている。
そんなところに石井健介さんのツイート(いまだに「X」「ポスト」と呼べず、青い鳥のいた頃を引きずっている)が目に留まった。
石井さんは、人生の半ばで突然視覚を失った。ある朝目覚めたらほぼ見えなくなっていたというのが衝撃的だが、それ以上に驚きというかワンダーに満ちた生き方をされている。「ブラインドコミュニケーター」を自称し、その名前を体現するパワフルな発信を繰り広げる姿に、「次はこう来たか!」とワクワクさせてもらっている。
石井さんが出演されているドキュメンタリー映画『こころの通訳者たち』がシネマ・チュプキ・タバタでアンコール上映されたとき、トークゲストにいらっしゃると聞き、会いに行った。それくらい、ファンだ。
昨年10月から始まったTBSのポッドキャスト「見えないわたしの、聞けば見えてくるラジオ」も楽しく聴いている。
ゲストに「見せびらかせたいモノ」を持ってきてもらい、紹介してもらうのだが、モノとともにゲストの人となりも見えてくるのが面白い。視覚を使わないラジオというメディアと上手に遊んでいるなと感心する。
初回ゲスト、ジェーン・スーさんが持ってきたモノも心憎い。モノを見るのは目だけではないし、究極のところは想像力なのだなと気づかされる。
石井健介さんは面白がり力と巻き込み力が抜群なのだが、視覚を超えたアンテナ、センスの感度が良いのだと思う。バイブスの受信感度が高いともいえる。
その石井さんが「障害者か、障がい者か、障碍者か」とつぶやかれている。そろそろあのnoteを世に出してはどうかねという啓示に違いない。
《このテーマでnoteを書きかけてます。「使う人のマインドとバイブス」同感です!》と返信すると、《そのnote、楽しみにしています!》と石井さんに言っていただいたので、書き上げます!
「障害を持つ」を訂正される
知人から「こんなことがありまして」とぼやきが寄せられた。
あるところで「視覚に障がいをお持ちの方」と話したところ、同席者から「視覚に障がいがある方」と訂正するように指摘を受けたという。好んで持っているわけではないからというのがその理由で、「言葉は難しい」とその人は嘆いていた。
わたしの夫は視覚障害者なのだが、公に発表する原稿に「障害を持つ」と書いたところ、やはり「障害がある」に直されたことがある。「持つ」という動詞には主語の意思が働く。つまり、自ら進んで障害者になったと受け取られかねないという配慮からだった。
「『持つ』が『ある』になっても、あまり変わらない気がするけどな」
人生の半ばで障害者となった夫は言った。
「『持つ』より『ある』のほうが当たり障りがないのかもね」
わたしはそう言い、当たり障りの「障」りは障害の「障」だなと思った。
「害」の字を避けるべき論
「障害者」の「害」の字を避けて「がい」とひらがなにする人がいる。「碍」の字を使う人もいる。その人なりの配慮なのだが、「害の字を使う人は配慮がない」と言われると、それはどうでしょうという気持ちになる。「害の字を使わない配慮(のある私)」への配慮を求められているようにも思えてしまう。
わたしは「障害者」と書く。「害は障害者本人を指しているわけではないので避ける必要がない」と考えるのがその理由だ。
「障害者」と似た単語に「障害物」がある。こちらは「物」そのものが「障害」となって立ちはだかっている。「障害(である)物」つまり、害=物。
これに対し、「障害者」は「者」が「障害」に立ちはだかられている。つまり、害≠者。
「障害者」を「障がい者」や「障碍者」と書くことは、障害(である)者と受け止められないようにという配慮からだと想像するが、そもそも障害は本人ではなく環境、社会にある。害の字を避けて「障がい者」や「障碍者」と書くことは、障害(に立ちはだかれている)者という現実を見えにくくしてしまう。というのがわたしの考えだが、人の数だけ考え方はある。わたしの正解は誰かの正解でもあるとは限らない。
新聞やテレビでも表記はまちまちだ。
ジャーナリストの堀潤さんの連載コラム「堀潤の社会のじかん」。「バリアフリー」をテーマにした2016.12.20の記事、NHKが「障がい者」ではなく「障害者」を使いつづける理由の考え方に共感する。
元々は「害」じゃなかった説
「元々は障碍者だったから、正しくは障碍者と書くべき」という意見がある。
「障害者 障がい者 障碍者」で検索すると、福祉tvというサイトの福祉ニュースの中に「障害者、障碍者、障がい者」の違いは?漢字を分ける理由と経緯というページを見つけた。
なんと平安時代にまで遡る!?
このページによると、
まず、「悪魔、怨霊などが邪魔すること」を意味する仏教語の「障碍(しょうげ)」が日本に伝わる。
↓
江戸末期の頃に「障害」という文字が使われ始めたものの、読み方は「しょうげ」のまま。その頃には「物事の発生や持続の妨げになること」を意味する。
↓
明治に入ると「しょうがい」と読まれるケースが出てくる。
↓
同じ読みの2つの漢字があるのは不便という理由から「障害」に統一することに。さらに、戦後日本で定められた、現代の常用漢字の元となる「当用漢字」に「障害」の文字が採用される。
という経緯を辿っている。まとめると、
障碍(しょうげ)→障碍(しょうげ)+障害(しょうげ)→障碍/障害(しょうげ)+障碍/障害(しょうがい)→障害(しょうがい)に統一
という流れ。
「障害者 障がい者 障碍者」で京都光華女子大学看護福祉リハビリテーション学部社会福祉専攻のニュースコラム、「障害」「障がい」「障碍」どれが正しい?のページもヒットした。
《大正時代になると「障害」と書くことが一般的に》なり、《第二次世界大戦後には、法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で,使用する漢字の範囲を示した「当用漢字表」(昭和 21 年)や、法令に国民に理解しやすいものであることを要するとの認識から作成された「法令用語改正例」(昭和 29 年等)の中で、「障害」と法律などにおいても「障害」と表記することで統一されました》とある。
ただし、表記については現在も検討が続けられており、《国が定めている正式な文章の中では「障害」という表記が用いられますが、それが絶対に正しいという事ではありません》と記している。
このページで知ったのだが、「障害」の表記に関する作業チームを国が設置し、平成 22 年8月以来、計6回にわたって議論が行われていた。「障害」の表記に関する検討結果についてにまとめられている。
「障碍」が「障害」より前だったことはわかったが、「障碍者」と「障害者」がいつ頃から使われていたかはまだ辿れておらず、どちらが先かはわからない。「障害」から「障害者」という言葉が生まれ、「害」の字を避けるべきではという議論が起こり、元の「障碍」を使う案が浮上したのだろうか。
表記の向こうにあるもの
「障碍者 障害者 初出」で検索すると、障害、障碍、障がい その表記の違いはいつから?(2019.3.17)というページが見つかった。次世代型電動車椅子 近距離モビリティWHILLの公式サイトのお役立ちコラム。
こちらでも「障碍者、障害者、どちらが先?」の答えは得られなかったが、「どの表記を使うか」についての考え方が《障害者は社会の障害に向き合う挑戦者》の小見出しとともに明記されていた。
また、《大切なのは表記ではなく、その奥にある気持ち》の小見出しとともに、《「現状で大切なのは、表記そのものではなく、どのように表記するかが話題になることで、一人でも多くの方が障害と社会のあり方について考えるようになること」ではないでしょうか》と問いかけている。
京都光華女子大学看護福祉リハビリテーション学部社会福祉専攻のニュースコラムも《皆さんも「しょうがい」を漢字で書く際には、どの意見に近い考えを持っているかを考えてみてほしいと思います。そこに当事者や支援者など多くの人のさまざまな思いが込められていることを知ってほしいです》と締めくくられている。
歴史的背景を学ぶことも大事。言葉の向こうにある立場や思いを知ることも大事。
それを言うなら「被障害者」
「害」を避けることが配慮だと考える人がいる一方、好ましく思わない人もいる。当事者であっても、なくても。
どうでもいいという人、好みの問題と言う人、当事者の間でも意見は分かれる。人によっては、個人の事情も加わる。文字を音声で読み上げるvoiceover(ボイスオーバー)では「障がい者」と表記すると「さわる・がいしゃ」と読み上げてしまうのだよねと夫に言われ、「害」をひらがなにすると使い勝手に影響することを知った。
視覚を使う人にとっては、「障害者」か「障がい者」か「障碍者」かで受け止め方が変わるが、夫のように「音で文字を読む」人にとっては、表記の違いよりも「しょうがい」と音で伝わるかどうかが関心事だ。
「当事者への配慮」と一口に言っても、当事者もさまざまで、配慮に報われる人もいれば、配慮からこぼれ落ちてしまう人もいる。どれかに絞るのは難しそうだねと話していると、夫が言った。
「それを言うなら『被障害者』だよね」
4つめの選択肢が登場した。
「被障害者」
なるほど。言い得て妙だと思った。被害者は害を被った人。被障害者は障害を被った人。望まずして負わされている受け身の状況がわかりやすい。
話を「障害がある」か「障害を持つ」に戻すと、好き好んでなったわけではないと言うなら、「持つ」を「ある」に変えても大きな違いはない。実態に近づけるなら「障害を持たされている」あるいは「障害を負っている」。
障害者を「障害を持つ人」ととらえても、「障害がある人」ととらえても、「障害」は当事者本人にくっついている。つまり、「当事者本人の問題」になる。
「障害を持たされている人」と受け身で考えると、障害は「本人の問題」から「社会の問題」になる。
立ちはだかっている障害をどけることで、(被)障害者は(被)障害者でなくなる。バリアフリーとは「被」のマイナスを解消することだ。
配慮ってどうするんだっけ
「被障害者」という言葉を夫から聞いて、「そんな風に感じているのか」と知った。「障害者か、障害者か、障碍者か」の話をしなければ、出てこなかった言葉であり考えだ。
「障害者」という言葉が夫婦の会話に上る機会もあまりなかった。どちらかといえば避けていたかもしれない。気遣いと配慮は紙一重で、相手のために気を遣っているようで自分を守っていることもある。
障害者か、障がい者か、障碍者か。
正解は一つではない。三択ですらない。「被障害者」という考え方もあるし、「害」よりも「障」という漢字を避けたい人もいるかもしれない。ひらがながいいという人、いっそカタカナや横文字にしちゃえばという人もいるかもしれない。「しょうがいしゃ」という響きを変えたい人は、新しい呼び方を考えるかもしれない。
相手や場面によって使い分ける人もいるだろう。それぞれの、そのときそのときの正解がある。その向こうに、それぞれの事情や考えがある。表記の違いよりも、その向こうにあるものに思いを馳せたい。石井健介さんの言葉を借りれば、《大切なのは「しょうがいしゃ」という言葉を使う人のマインドとバイブス》。
わたしが「害の字を使う人は配慮がない」と言われて釈然としない気持ちになるのは、正解を押しつけられ、議論を閉じられたように感じるから。
わたしはこう考えますが、あなたはどうですか。
そんなやり方もあるんですね。
それぞれのマインドとバイブスを受け止めるアンテナをひらいておきたい。
折しも連載中の「漂うわたし」の最新回、第154回のタイトルは「配慮ってどうするんだっけ」。
わたしがnoteを始めるきっかけをくれた西田梓さんがモデルの白杖のカズサさんが久々に登場。梓さんには日々たくさんのことを教えてもらっている。良かれと思ってやったことと当事者が求めていることがすれ違うと、善意が空回りしてしまうということも。
漢字一つの取り扱いを巡っても、意見は割れる、分かれる。でも、違いを掘り下げた先に発見がある。広がりがある。答えを決めつけないしなやかさは、どんな場面でも求められると思う。
【あとがき】どっちかじゃなくて
公開したnoteを石井健介さんに読んでもらえた。
「障害者」は「健常者」の対義語でもあるし、立ち位置も対照的だ。社会はマジョリティである健常者を基準に設計されているが、障害者を基準にとらえると、健常者は「障害者ではない人」ということになる。角度を変えると、見え方が変わる。
視覚障害者を「目の不自由な人」と言い換えたりするが、西田梓さんが「視覚を使わないプロ」と言ったときに、そういう言い方があるのかと膝を打った。子どもの頃、背の低い友人と「うちらは背が低いんやない。胴が短いんや」と発見し、自己肯定感が当社比2割増しぐらいに跳ね上がったのを思い出す。とらえ方を変えると、ネガとポジは反転する。
障害者か障がい者か障碍者か。
答えを一つに押し込めようとすると、窮屈になる。
「配慮しているつもり」の人たちの、一方的に線を引いてこっちとそっちに分けるような言動に覚えるモヤモヤは、「君はイルカじゃない」と言われたイジラ、「君はクジラじゃない」と言われたクルカの淋しさややるせなさに通じる。
障害者と障がい者と障碍者。
いろんな表記があるから議論が生まれる。いろんな立場、いろんな考え方に出会えたら、視界がひらける。世界は広がる。
どっちかじゃなくて、どっちもだ。どれかじゃなくて、どれもだ。
目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。