名前のない感情に名前をつける
Eテレ「おじゃる丸」で5月6日に放送された「アカネによく似た女の子」が8月26日に再放送される。
あらすじに「とくべつな日」とあるが、脚本を書いたわたしにとっても、ちょっと「とくべつな作品」になった。
「なんだか、あたいじゃないみたい」
劇中で子鬼のアカネが鏡に映った自分を見て言うセリフがある。
「なんだか、わたしの書いたお話じゃないみたい」
初放送のとき、テレビに映った作品を観て思った。
仕上がりが期待したものと違ったのではない。脚本を書いたときとは世の中が違っていた。
7分半でどこまで行けるか
「おじゃる丸」は主題歌とエンディング曲を入れて10分。作品部分は7分半ほどだ。ひとつのネタをじっくり描くのが合っている。そのワンネタがそのままタイトルになっているものも多い。
わたしが脚本を手がけたものだと、例えば、プリンネタで「あ」から始まるかるた全札を1話で作る「プリンかるた」、乾物屋のカンブツさんがプリンの干物を作ろうと躍起になる「干しプリン」、背中に各々がなんちゃって甲羅をのせて日向ぼっこするだけの「こうら干し となりの人も こうら干し」など。
ひとつの感情を掘り下げるのも、「おじゃる丸」は向いている。
昨年放送された「ガム子」は、恋多き虫・電ボに名前を聞かれて、「……名前なんて。ただのガムなんだから。それもくちゃくちゃかんで、味がなくなって、捨てられて、地べたにへばりついて、ひからびていくだけのガム……」といじけるガムの女の子が少しずつ心を開いて、電ボと一緒に空を飛ぼうとするまでを描いた。
7分半でどこまで行けるか。
思いつきを脚本で膨らませているうちに、思いがけない場所へ運ばれることがある。目の前に広がる景色を見て、「これが見たかったんだ」と気づいたり、「これが見たかったのか」と不意打ちを食らったりする。
いつもと違う「とくべつな自分」
「アカネによく似た女の子」を脚本にする前のストーリー案には、「アカネ?」というタイトルをつけていた。
ピンクの帽子をかぶったアカネは、子鬼仲間のアオベエと道で会う。「アカネ?」と声をかけようとして、「アカネのようでいて、ちょっと違うでゴンス」とためらうアオベエ。似た別人かもしれないとアカネをじっと見る。その視線に気づいて、「アオニイ、あたいのこと、あたいみたいだけど、あたいじゃないって思ってるかも」とアカネはドキドキする。
アカネに声をかけずに、すれ違うアオベエ。「やっぱりアカネに似た別人だったでゴンスか」と納得しかけるが、やはり引っかかる。「アカネではないでゴンスか?」と確かめると、アカネは「モモネ」と答える。
「モモネ」とアカネはいつもと違う自分に名前をつけた。
名前をつけると、ふわふわしたものに輪郭が生まれる。
「もし自分がアカネじゃなくてモモネだったら」
アカネは、もうひとつの人生を想像する。
アカネは子鬼仲間のアオベエ、キスケとともに、エンマ界からおじゃる丸の暮らす月光町に来ている。おじゃる丸がエンマ大王から横取りした「シャク」を取り返すために。もし、その使命がなかったら、何をしていただろう。料理研究家で、素敵な恋人がいて……。
「でも、やっぱりアカネがいいな」
ピンクの帽子を取り、アカネはいつもの自分に戻る……。
いつもと違う何かを身に着けると、いつもと違う自分になった気がする。あのふわふわそわそわと浮き立つような感覚を「おじゃる丸」の世界で描いてみたかった。
子どもの頃、母のワードローブにあったブラウスをそっと羽織ったときのときめき。小さな引き出しに納められた幅広のベルベットのリボンを髪に巻いてみたら、鏡に映った自分が、ちょっとお姉さんに見えたこと。
胸がキュンと高鳴るような、あれはなんだったんだろう。「おしゃれの魔法」をかけられた合図だったんだろうか。
あの気持ちを7分半の中で追いかけてみたかった。
書くことは「名前のない感情に名前をつける」こと
娘が小さかったとき、ハイヒールなるものに憧れた。わたしはペタンコ靴しか履かないけれど、街を歩いて、その靴を知った。「あのくついいな、ほしいな」と思った。でも、ハイヒールという名前を知らない。
「ぼうのついたくつ」
と娘は呼んだ。
名前は知らないけれど呼んでみたいとき、人は、自分が持っている言葉を組み合わせて名前をつけるのだと教えられた。
その先に「書く」という営みがあるように思えた。
指の隙間からこぼれ落ちる砂のような、ささいなこと。胸を波立たせた小さな波紋。名前のない感情をつかまえておきたくて、名前をつけるつもりで書く。
書いているうちに、「前にもこんなことがあったな」や「あのときの気持ちに似ている」が記憶の底から浮かび上がってくる。風が吹いて木立が揺れ、その向こうに懐かしい風景が顔を出すように。
おしゃれの目覚めや小さな変身願望。書き始めたときは、自分だけに胸の高鳴りが聞こえる「とくべつな日」を7分半かけて描こうと思っていた。
脚本にするときに、帽子だけでなく、洋服もバッグも靴もいつもと違うものを身に着け、「とくべつ」感を盛った。お屋敷のマリーさんが少女だった頃に着けていたもので、マリーさんもかつてそのピンクの組み合わせをまとった日は「とくべつな日」を過ごせたという設定にした。
マリーさんの服と小物をまとったアカネは「あたいはモモネ。マリーさんのお屋敷の女の子」と、窓辺にピンクの花を飾る暮らしを夢想する。
書いているうちに、いつもと違う「とくべつ」は、いつまでも続かないから特別なのだという当たり前のことが脚本の中で存在感を増していった。
いつかは、いつもの自分に戻らなくてはならない。シンデレラの魔法が解けるように。
モモネの人生のほうが楽しそうと思えてきたアカネが夢から覚めるきっかけを立たせた。なんとなくではなく、12時の鐘に急かされたからでもなく、アカネは自分でモモネに区切りをつけ、いつものアカネに戻る。
改訂を重ねるなかで、書きたかったことが煮詰められて濃縮していった。
いつもと違う「とくべつ」な自分。いつもと違う「とくべつ」な日。ふわふわと浮き足立つ非日常の、その先にあるもの。
ずっと続かないから、「とくべつ」が愛おしい。
そのことを描きたかったと、描いてみて気づいたのか。描いていたから、そのことが浮かび上がったのか。どちらかはわからないけれど、名前のない感情に名前をつけるつもりで書いた先に、儚い夢の愛おしさが浮かび上がった。
いつもの自分に戻ったアカネは、アカネによく似た女の子に会ったと子鬼仲間のアオベエとキスケに言われて、こう言うのだ。
「あたいも会ったよ、その女の子」
タイトルを「アカネ?」から「アカネによく似た女の子」にあらためた。
いつもと違う「とくべつな春」の放送
そして迎えた初放送日。冒頭に書いたように「なんだか、わたしの書いたお話じゃないみたい」というざわめきを抱いた。
ゴールデンウィークが自粛期間になったさなかの5月6日。いつもと違うものを身に着けると、いつもと違う「とくべつ」な自分になれるということの意味合いが、いつもと違う春に観ると、変わってしまっていた。
アカネがマリーさんの家で洋服や小物を借りているところから「とくべつ」だった。
アカネがオシャレしていそいそと街を歩くのも、「とくべつ」だった。
意味が変わったというより、「とくべつ」に「とくべつ」が重なってしまったというべきか。
いつまでも続かないから「とくべつ」という話を、いつまで続くかわからない特殊な状況で観ると、脚本を書いたときにはなかった感情が湧き上がった。
アカネがマリーさんから借りて身に着けている明るいピンクが眩しくて、ドキドキするような、それでいて胸がしめつけられるような7分半だった。
あれから3か月あまり。いつもと違う日常が続いている。あのときの「わたしの書いたお話じゃないみたい」の揺らぎに名前をつけるつもりで、このnoteを書いている。一言でくくれないから、膨らんだりしぼんだりしてたゆたう感情のあぶくを長々と書き留めている。
8月26日の再放送の2日前、ひとつ前のnoteを書いた。タイトルは「またバカ話しような!」の重み。3月からの一斉休校が解かれた6月の始め、下校中の中学生の他愛のない会話を友人が書き留めていた。「またバカ話しような!」の一言に揺さぶられ、目頭が熱くなった。この気持ちをつかまえておきたいと思った。
下書きに放り込んだままになっていたのを、多くの学校で新学期が始まったタイミングで公開した。それがたまたま「アカネによく似た女の子」の再放送週の頭と重なった。
偶然だけれど、そのnoteに寄せられた反響を読んでいると、いつもと違う日常の「とくべつ」について、それぞれが自分の感情に名前をつけているようで、今がそのタイミングだったんだなと思う。
奇しくも「おじゃる丸」役の西村ちなみさんが目に留め、コメントをつけてリツイートしてくださった。
「何気ない日常がどれ程愛おしいか」と書かれていた。
書いたものを受け止めた人が、自分の心に起こった動きを書いて、感情に名前がつけられていく。ささいな、ささやかな、もしかしたらわたししかこんなこと思わないかもしれないという感情が、書くことで誰かと分かち合われ、名前といのちを与えられる。
アスファルトで溶けていく雪が固められて雪だるまになって、もうしばらく地上に残って道行く人たちを立ち止まらせたり微笑ませたりするように。
今度はアカネが、モモネが、どんな風に見えるのだろう。
その感情につける名前を見つけたい。知りたい。
clubhouse朗読をreplayで
2023.3.10 鈴蘭さん
2023.3.17 鈴蘭さん
2023.3.31 鈴木順子さん
目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。