「またバカ話しような!」の重み
夏服の制服にマスクの集団とすれ違う8月24日、月曜日の朝。すでに新学期が始まっている学校、今日から始まる学校。例年より短い夏休みが、いっそう短く感じられるのは、3月からの長い休校期間があったせいだろう。
多くの学校で通学が再開された6月始め、友人の栗原晶子さんのfacebook投稿が目に留まった。午前10時、短い登校を終えた近所の中学生の下校風景。曲がり角でそれぞれの家へと別れていくときに交わした言葉を書き留めたものだ。
制服姿の中学生たちが「おう」と片手を上げて別れる姿が思い浮かび、その眩しさに目頭が熱くなった。コロナ禍で涙もろさが数割増しになっていたせいもあった。
「またバカ話しような!」
LINEでもzoomでもバカ話はできる。だけど、会って交わすバカ話は違うんだ。久しぶりで楽しかったんだ。こんなに楽しかったんだって気づいたのかもしれない。だから、「また」したいんだ。
「バカ話」というのが良かった。
一見無駄なもの。本題とはそれるもの。はみ出したもの。雑音にすら思えるもの。自粛で真っ先にどけられたもの。
休校で失われたものは、これだったんだなと思った。
例えば、休み時間に教室の開けた窓の向こうから聞こえる校庭のざわめき。一緒に遊んでいるわけではないけど、級友たちの気配を感じながら読む図書室の本。そのページに栞のように挟まれる学校のにおい。
整数で割り切れない端数のようなもの。余り。余白。
授業中の教室にも、それはある。
要領のいい子なら、教科書を一日で読めてしまう。数か月の休校で学ぶはずだった内容は、ページ数にしたら少ない。だからこそ授業がなくてもどんどん先に進める子と、授業がないと足踏みしてしまう子の差は随分ついてしまったと思う。
でも、どんどん進める子にも失ったものがある。
公式や単語は一人でも覚えられるけれど、それをどうやって使うかのバリエーションは教室にあるから。
とくに、間違った使い方。
自分がすいすい解けた問題に、つまずく子がいる。どこにつまずいているのか。どう説明すると、その子はわかるのか。◯か×かでくくれない、点数をつけられない気づき、発見。
思えば、わたしが子どもの頃、「今日学校で何があったん?」と親に聞かれて、教科書のどの単元を習ったなんて報告はしなかった。
「○○君がふざけて体温計を割ってしもて先生に叱られてんけど、伸びとった水銀がキュって縮まって玉になってびっくりした」(体温計がピッではなく水銀だった時代の話)とか「体育倉庫の天井に幽霊がおるんは、やっぱりほんまやった」(学校の怪談、今もある?)とか、どうでもいいことばかりだった。
給食の時間はネタの宝庫だった。「今日もじゃんけんに勝ってお代わりできた」とか「給食当番がおかずのペース配分間違えて、後のほうの人が足りなくなって、みんなの分から少しずつあげた」とか「誰々が鼻から牛乳を吹いた」とか。家では起きない事件が毎日のように起きた。揚げパンの他にどんな献立があったのかはよく覚えていないけれど、「向かいの席の子の牛乳がこぼれて、自分のお盆に牛乳の水たまりができて、パンが牛乳びたしになった事件」は再現できるぐらいよく覚えている。
あれは給食というより「給食の時間」を食べていたんだなと思う。
学校生活の余白は、人と人がいるから生まれる。学校というのは、時間と空間を共有して、「人と人の間」を学ぶ場所なのかもしれない。
中学生の下校風景をとらえた友人のfacebook投稿は、こんな言葉で締めくくられていた。
あれから2か月あまり経っても、「またバカ話しような!」が頭から離れない。脳内で何度も再生されたその場面を実際に見たような気持ちになっている。
その子たちを前から知っているような親しみに懐かしさがまじる。その子たちは遠い日のわたしでもある。たくさんのあぶくのような「どうでもいいこと」がわたしを作っている。
感染と日常のせめぎ合いは続く。いつまた学校に行けなくなる日が来るか、わからない。けれど、休校で失われるものに想いを馳せた上での決断、決定であって欲しい。子どもたちの「またバカ話しような!」の重みは、大人よりずっと大きいと思うから。
clubhouse朗読をreplayで
2023.3.26 鈴蘭さん
2023.4.25 鈴木順子さん
2023.5.15 宮村麻未さん
2023.6.4 こたろんさん
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