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苦しみに寄り添うこと

目の前にいる人が苦しんでいる。
そんなとき僕たちにできることは何なのか。

僕が少し前まで一緒にいた恋人は、苦しみを抱えた人だった。
彼女は、過去に受けた傷ゆえに、彼女自身やその周囲の弱さを許せなかった。肉体的にも、精神的にも弱い人という風に僕には見えていた。

彼女はいつも苦しんでいた。そんな彼女の苦しみを近くで見続けたことで、僕自身はどう変わっていったのだろうか。彼女との1年ほどの記憶を遡って、苦しみと向き合うことについて考えていきたい。

・彼女の苦しみ
・苦しみの隣にいた自分
・苦しみと向き合うこと
・弱さと統合性
・これから
・元恋人へ

彼女の苦しみ

この記事を書いていることを元恋人には伝えていない。
だから個人を特定できる内容や具体的な苦しみについて書くことはない。
ここで記述するのは、その苦しみの中で彼女がどういう行動をとったか、どんな言葉を発したか、である。

程度の差はあれ誰でもそうなんだろうけど、
彼女は身体と精神の痛みの結びつきがかなり強かった。
だから、彼女は決まって心身ともに苦しそうにしていた。

ジムで一緒にトレーニングした帰り道、
呼吸が荒くなったと思ったら自傷を始めていた。
しばらくすると、その罪悪感からか精神的にも不安定になり、また過呼吸の症状が出た。どのくらいか分からないけど、かなりの時間それが続いていた。

最初の3カ月以降、約1年間は遠距離恋愛だったけれど、電話越しの彼女もずっとそうだった。ライン上の彼女も、ずっとそうだった。

彼女はずっと苦しんでいて、苦しんでいる自分自身にも苦しんでいて、終わりがない苦しみの中にいたんだと思う。

苦しみの隣にいた自分

そんな元恋人の隣で、僕に何が出来ていただろうか。
彼女が苦しみに耐えられなくなるとき(好ましくない表現だけど、当時は頭の中で”発作”と呼んでいた)、僕にできたのは
・隣にいること
・ありふれた安らぎの言葉をかけること
の二つだけだった。当然そんなもので症状が収まることはなく、彼女が苦しみ疲れるまで一緒にいるだけだった。

症状が重くない時には(僧侶としての)自分の考えとか哲学とか、苦しみについて話してみることは試みたけど、伝わっていたかは分からない。
彼女は難しい話を嫌った。直感的な話を好んでいて、僕が使う言葉の殆どは彼女の苦しみをそのまま通り抜けていったんじゃないか、とも感じている。

だからかは分かんないけど、彼女の症状はずっと続いた。
苦しんでいる彼女に、僕は何もしてあげられない。
苦しんでいない彼女にも、何もしてあげられなかったように思う。

そうして徐々に自分の無力さを実感するようになっていった。

苦しみと向き合うこと

僕は元恋人の苦しみの隣に居続けるうちに、自分の無力さと、彼女の苦しみの大きさを一層感じるようになっていった。

いつからだろう、彼女の苦しみに触れてもあまり感情が湧かないようになっていった。最初のころは、彼女の苦しみを見つめて、それで僕も苦しんでいた。

だけど、毎日そうしているうちに、自分が苦しみから逃げるための自己防衛として、彼女の感情に共感しないようになっていったんだと考えている。これは意図したわけじゃない。言い訳がましいけれど、僕の心が勝手にそうしたことだと思っている。
実際、彼女に共感しなくなって以降も隣には居続けたし、電話にも出ていたし、寄り添おうとする行動はあったはずだ。
一方で、寄り添おうとする気持ちは徐々に小さくなってしまっていたことは事実だ。認めたくないけれど。

他者の苦しみに向き合い続けるには、自分の感情に無関心になることが必要なんじゃないかと思う。毎度のように共感して、自分も苦しくなっていたのでは、とても相談に乗ることなんてできない。

苦しみと向き合うことは、自分もその苦しさに巻き取られることであり、
そのためには苦しみに耐えられる心の強さか、自分の感情への無関心さのどちらかが必要なんじゃないかな、と今は思っている。

弱さと統合性

僕は弱さゆえ、元恋人の苦しみに向き合い続けるために感情を無視せざるを得なかった。
自分の感情を無視するっていうのは、まあ体の痛みを無視することとも似ているかもしれない。最初は大したこと無かったけれど、無視し続けていると最終的には(見ようとしなかった感情と、行動の)矛盾により自分がどうしたいのか分からなくなって、お互いを傷つけてしまった。

じゃあ弱いひとは他者の苦しみに寄り添うことはできないのか。
そんなこともないと思うのだけれど、その理由に、彼女以外からの相談に乗ったとき、その人の苦しみには向き合うことが出来たことがある。
彼女の苦しみと向き合っていたことで、気づかないうちに少し強くなっていたのだろう。
両者の苦しみの大きさを、僕の主観で比較することは難しいけれど、
僕に乗っかってきた分だけをみれば彼女より、その人のものの方が幾分か軽かった。
だからこそ、その苦しみに向き合ったとき、僕は自分の感情を無視することなく、隣にいられたのだと思う。

今、しなきゃいけないと思っていることが一つある。
それは、元恋人より大きな苦しみを持っている人に出会ったとき、僕がどれだけその苦しみに巻き取られるか、コントロールする術を身に着けること。
もう少し細かく言えば、自分の感情や行動をメタ認知して、自分自身の気持ちに向き合うこと。そうして自分の許容量を越えそうになれば他の誰かに頼ったり、発散できる場所を確保したりすること。あとは自分の弱さを見つめて、弱いなりにどこまで寄り添うか見定めること。
まとめると、自分の中に渦巻くいろんなものの手綱を握っておくこと。
統合性っていうんだろうね、こういうの。それを高めていかなきゃいけない。

そのための手段として、この日記がある。自分の弱さだとか気持ちだとかをとにかく可視化するしかない。
そうして次の苦しみに寄り添う準備をちょっとずつしていくんだ。

これから、僧侶として

自分は一人の人間であると同時に、僧侶だ。
元恋人との関係の中で、人間としての弱さと、僧侶としての未熟さをひしひしと実感した。

人間としては弱くてもいいけれど、僧侶としては強くなきゃいけない、ってのが僕の考えだ。だって相談する人がめそめそしてちゃ不安だもん。何食わぬ顔して、だけど親身になって相談に乗れる僧侶を目指したいんだ僕は。

今回、元恋人の苦しみに向き合いきることが僕にはできなかった。
この事実は、(彼女には失礼だと思いながらも)僕のこれからの僧侶人生で、たぶん最初の、そんでもってかなり大きな糧になると思う。

人に寄り添うことの意味とか、苦しみと向き合う辛さとか、これからも
僕は悩み続けるんだと思う。そんなときに君との時間と、この日記がヒントを与えてくれることになると思っています。

元恋人へ

君がこの日記を見るかは分からないけど、振り返ってみると僕はこんなことを考えてたみたいです。寄り添いきれなくてごめん。けどちょっとは楽にできてたらいいな。新しい傷もつけてしまったけれど、癒せた分の方が大きかったらいいな。

いっぱい傷付けあった日々だと思います。
心の傷にも傷跡は残るんだと思うけれど、これから君が出会う人が、その傷跡も含めて君を愛してくれることを祈っています。
僕の方も、君との日々で出来た傷を自分でも愛せるように頑張るし、そこも愛してくれる人に出会えるといいなと考えています。

また会ったときには、そんな二人でありますように。

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