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江戸から学ぶひとづくり(1)

昨年、ヨーロッパを中心に海外での教育視察をさせて頂きました。そこで感じたのは今、世界中で教育改革が進行しているということでした。それは工業化によって作り出された教育のスタイルが、産業構造の変化によって大きく変わろうとしていることを示していました。

日本でも、大学入試改革に見られるように、これまでの知識を問う学習から、知識を活用できるような思考力・判断力・表現力を問うような学習へと変わろうとしています。

また幼稚園から高校まで共通項として掲げられた主体的・対話的で深い学びアクティブラーニング)の実践などはそれをよく現わしています。こういった一連の流れは、明治以来の学校教育の在り方が大きく再設計されていくことを現わしてもいます。

そこで、明治の学校制度が始まる前の日本の教育はどうだったのか。そんなことが気になって、江戸時代の子育て・教育について少し調べてみることにしました。

今とは社会状況も異なりますし、時期や地域によっても異なる部分もあるかと思いますが、時代の変化の中で忘れ去られ、無くなっていった取り組みや、いつの時代も変わらない普遍的なこと。そんな個人的に面白いなーと感じたことをここではピックアップしてご紹介していきたいと思います。

びっくり仰天。一人の子どもにたくさんの「親」!!

江戸時代には仮親という制度がありました。実の親(産みの親)以外に様々な種類の仮の親がいたそうです。

それは、出産前から始まり、安産を願って岩田帯を締める「帯親」。これは子宝に恵まれ安産だった女性がなる場合が多かったそうで、まだ見たことのない子どもでも親になったそうです。

そして出産時は産婆以外に臍の緒を切る「取り上げ親」が立ち会い、出産直後には赤子を抱く「抱き親」という親がいたそうです。

笑ってしまうのが、「行き会い親」。赤ちゃんが初めて戸外に出て、最初に出会った人がなるそうで、それが子どもであっても「仮親」になったというのですから驚きです。

さらに子どもが病弱にならないように、生まれた赤子を丈夫な子どもをもつ家の前などに形式的に捨て、その家に数日間預かってもらって、後日両親が酒肴を持参して「その子をどうか私たちにください」といって形式的にもらい受ける「拾い親(貰い親)」

その他にも乳児をもつ女性に頼んで乳を飲ませてもらう「乳親(ちおや)」。名づけの親を「名付け親」。子守りをする人を「守親」等など。

江戸時代には子どもの成長と共にたくさんの仮親がいたようです。それも仮親たちは一時的な親ではなく、人生の節目、節目に成長を祝う行事にもその都度呼んで一生涯続いたというのです。

日本には今も残っている雛祭りや端午の節句、七夕といった行事だけでなく、一歳のお誕生日を祝う餅負い、三歳になると帯を締める「帯祝い」、頭髪を結い髪にする「髪置」。5歳には初めて袴を着せる「袴着」等など、子どもの成長を喜びお祝いする行事がたくさんありました。

今でも「子宝」という言葉が残っているように子どもは家族だけでなく、社会全体の宝として位置づけられていたようです。

こういった取り組みが生まれた背景には、現代のように医療技術が発達していなかったため、当時、誰でも簡単に亡くなってしまうリスクがあったということがあげられます。

親が亡くなって子どもが路頭に迷わないためにも、また後継ぎとしていた自分の子どもがいつ亡くなるかわからない、世継ぎを残し家の存続のためにも、様々な形で色んな関係をつくっておくことが必要だったようです。

仮親制度は母親のためというよりかは、どちらかというと子どものためだったり、家の存続のためだったりといった色合いが濃かったのかもしれません。

しかしながら、少子化が進み、「孤育て」ともいわれ地域との関わりが薄らいでいる現在。生活の中で生まれた江戸の人たちの知恵は、私たちに現代の中で新しく捉えなおしていくヒントを示してくれているようにも思えますね!

次回は、寺子屋についてお伝えします!

参考図書:
「江戸の子育て」読本 小泉吉永 小学館、
「江戸時代の教育を現代に生かす」 愛知東邦大学地域創造研究所 編 唯学書房

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