寺子屋画像

江戸から学ぶひとづくり(2)

元祖ティール組織*?!全国に広がっていた「寺子屋」

江戸時代の教育というと真っ先に思い浮かぶのは寺子屋かと思います。「日本教育史資料」によると寺子屋は全国に1万5000か所あったようです。現在日本の学校数が2万2500校。江戸時代の最大人口が約3000万人だったと言われており、現在の日本の人口がざっと1億2000万人ですので、その数がいかに多かったかがわかります。

また、武士の子や農民、商人の子など身分に関係なく様々な子どもが通っていたようです。お上による公権力の介在なく、民間の力だけで寺子屋はなぜこんなにも日本中に広がっていったのでしょうか?

江戸時代、天下泰平によって経済が飛躍的に発展を遂げ、村や家は自給自足だけではやっていけなくなり、田畑を売るにも買うにも金がものをいう社会となったようです。そのため、読み書き計算ができないと大変な損を被るようになるといった社会状況の変化がありました。そして家の存続・繁栄は同時に村など共同体の存続・繁栄にも繋がり、切実な問題でもありました。

寺子屋は元祖オルタナティブスクール?!

寺子屋は6歳から12歳の子どもに「読み書き算術」を中心に教えていたようですが、同時に人としての礼儀作法もセットで学んでいたようです。また、年齢別ではなく子どもの習熟度や理解度に応じた個別教育が行われ、子どもの親の職業(将来つくであろう職業)や本人の希望なども考慮して教えられていたようです。

さらに学業の進んだ兄弟子が師匠の代わりに新しく入ってきた寺子のサポートをしていました。人気の師匠の寺子屋には100人ほどの寺子がいたところもあったようでそれを可能にしたのは兄弟子や弟弟子の存在があったからだといわれています。

先生は、寺子屋というぐらいですので僧侶もいましたが、特に資格制度があったわけでもなく、身分に関係なく誰でもなれたようです。兄弟子、弟弟子といった横の関係も強く、師は寺子たちにとって生涯唯一の恩師であり、現在もそれをたたえる筆塚が全国に残っています。

こうしてみますと社会背景は違うにせよ、寺子屋の学習スタイルは学級や学年を廃止した今でいうオープンスクールになっていて、画一的な一斉授業ではない個別学習と異年齢集団による学び合いが行われていたことがわかります。

生徒の主体性がどこまで生かされていたか資料だけではわかりかねますが、そういう意味ではフランスで生まれたフレネ教育やオランダのイエナプランにもどこか似ていますね。*(2)

伝統的な教授法にとらわれない教育をオルタナティブ教育といいますが、「寺子屋」はそもそも伝統的教育が行われる前に実施していた地域の要望から生まれた元祖オルタナティブスクールともいえるのではないでしょうか。

歌を吟じるアーティストが村から村へ。実はすごいネットワークだった!!

全国に広がりを見せた寺子屋。実は個々の地域を結び付ける濃密なネットワークが張り巡らされていたようです。なぜそれがわかるかといいますと、寺子屋の師匠の多くが俳諧を詠み、俳号をもつ俳人でした。そのためその一覧を見るとそのネットワークの凄さがわかるというのです。

さらに驚くことに、当時、俳諧をたしなむ人であれば、誰でも訪ねれば一宿一飯の接待を受けられる風習があったようで、村から村へと渡り歩く俳諧師なるものがいたそうです。しかも求めがあれば、問題児の家庭教師もしたというのです。素晴らしい歌を詠む人は、問題児すら心を開いたということでしょうか。

いずれにしても、地域教育の核となった文化人が中心となって、独自の人脈で互いに連携しながら全国的なネットワークがつくられていった。交通網が今のように発達しておらず、ネットもない時代。そう考えると何だかすごいですね!

次回は江戸時代の社会教育システムについてご紹介します。お楽しみに!!


* ティール組織:未来型組織経営といわれ、心理的安全性の下、組織の存在目的を認識し、気づいた人たちが自主的に動いていく組織。詳しくは「ティール組織」フレデリック・ラルー著 英治出版 

*(2) フレネ教育とイエナプランはどちらも学習が個別化されており、自分で計画をたてて、協働しながら学習を行っていく。クラスは学年で別れておらず、異年齢集団の中で助け合いながら学び合っていく方法をとっている。


参考文献:
「江戸の教育力」高橋敏 著 ちくま書房
「江戸時代の教育を現代に生かす」愛知東邦大学地域創造研究所 編 「唯学書房」

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