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江戸から学ぶひとづくり(5)

前回ご紹介した会津藩と肩を並んで名高い藩校として称されたのが佐賀藩(肥前藩)の藩校「弘道館」でした。五回目となる今回は弘道館についてご紹介します。

佐賀藩は財政危機が起こり、行革と合わせて「改革の担い手になる人材育成」が肝心ということで、藩校「弘道館」を設立しましたが、いつしか形だけのものになっていきました。こういった事態に対して、藩内の士気高揚と藩改革を再度進めるために、藩校のテコ入れを行っていきます。

今でいうならば、教育改革、学校改革ですね。

様々な保守勢力と戦いながら改革は断行されていきます。その象徴的なのが教育予算。それまで170石でしたが、約1000石に増加。(約6倍に増加)成績優秀の生徒には出自にかかわらず有能な家臣たちを政務の中枢へ登用しました。

学習者中心の最先端の学び

では、藩校ではどんなことを学んでいたのでしょうか。佐賀藩は幕府の命令によって長崎の警護もしていました。そういうこともあり、当時の藩校は儒学が中心でしたが、弘道館では儒学とともに、蘭学や西洋科学技術なども学んでいました。

そして、特徴的だったのは、話し合いを重視した授業だったということ。

藩主、鍋島直正は「講義を受けただけでは、自分の知恵と徳を伸ばすことはできない。それよりもわからないことを先生にどんどん質問して答えてもらったことを自ら考え、他の人と議論し、工夫して実行に移していく。こうした問答、談話、議論の方法が良いのだ。」と話して、教職員の指導をしていたそうです。

そういった学習方法は、弘道館独自の考え方で、江戸に遊学した弘道館の出身者は、議論すればいつも他藩の者には負けなかったそうです。ただそんな彼らにとって、会津の日新館出身者だけは難しかったようです。

きっと、会津藩士たちは、幼いころから「什」や「生徒什」でお互いに議論しあいながら、徐々に鍛え抜かれていったのかもしれませんね。*江戸に学ぶひとづくり(4)参照

幕末、佐賀藩は薩摩藩・長州藩・土佐藩とともに、新政府軍に加わり戊辰戦争を戦います。自ら造船所をもつ海軍力、そして最新式兵器を装備した佐賀藩の兵力は、他藩に比べて圧倒的な強さをもっていました。

弘道館からは、幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多数輩出しました。その中の一人大隅重信は早稲田大学を設立し、のちに総理大臣となります。

西洋の新しい学問をいち早く吸収し、お互いに意見交換をしながら学友とともに新しい価値をどんどんと生み出していった

先の見えない激しい変化の流れの中で、これからどう進んでいけばいいのか。かつての弘道館での経験が、明治という新しい時代をつくりあげていく礎となっていったのかもしれません。

こうやって会津、佐賀の両藩校を見てみますと、その特徴としてどちらも共通して言えるのは、活発な意見交換や議論というものをとても大切に行われていたということではないでしょうか?

ただ単に知識を学ぶだけではなく、学んだ知識が質問や意見交換を通して自分ごととなり、知識に広がりと深さをもって次第に自分のものとなって身についていったのだと思います。今でいうアクティブラーニングをどちらも実践していたといえますね。

江戸時代。それは地域それぞれの文化・風土が色濃く存在し、地方の時代だったと言ってもいいかもしれません。各地域にあったやり方で様々な教育が行われていました

藩校を設立する際には、既に実績をあげている藩校を見学し、どういった学校にするといいのか研究に研究を重ねて設立されていきました。そういった姿は学校改革に取り組んでいる現在の学校の先生方ともかぶります。

旧藩校の伝統を引き継いだ高校が、今もなお日本全国にたくさん残っています。藩校がもっていた自主自立の精神を大切にしながら、新しい時代にあったその地域ならではの人材養成を日本各地からぜひ行っていけるといいですね!!

その多様性、特色こそが豊かな土壌となって、私たちがまだ見ぬ可能性という種が大地に撒かれていくのではないでしょうか?


参考文献
「藩校に学ぶ 日本の教育の原点」 藁科満治 著 日本評論社
「藩校 人を育てる伝統と風土」 村山吉廣 著 明治書院

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