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研究&人材開発に投資すると(しないと)何が起きるか【本の感想】シン・ニホン

本書が出版が出版されたのは2020年の頭ということで、まだ世界がCOVID-19の波に飲まれる前のことであった。
それから3年が経った今はじめて読んでみたのだが、この本で指摘されている課題のいくつかには、コロナ禍を経てより強く意識されるものがある。リサーチの手厚さと著者だから得られた経験や視点(たとえば政府系の委員会などで色々と課題について役所の人と議論した経験など)のオリジナリティが組み合わさの賜物だといえよう。

ちなみに本書のタイトルは巻末で著者も言及する通り、映画シン・ゴジラにインスピレーションを受けている。
作中でゴジラを凍結させることに成功するもズタボロになった首都で、政治のリーダーである矢口蘭堂と赤坂が語るシーンがあり、そこで日本復興の希望を、破壊からの再生という形で言語化する。
本書においても、かなり悲惨な状況にある日本のいまを見つめた上で、再構築へのシナリオが提唱されている。

本書の構成としては、第1章でデータ×AIをはじめとした時代の変革点について整理し、第2章では日本の現状というか窮状を余さずに記している。第3章でいま、そしてこれから必須となる人材とスキルに関してAI-Readyの概念を軸に説明し、第4章では人材育成(学校教育フェーズ)における私論を展開する。第5章では科学技術と人材開発への投資の状況の米国や中国と我が国の大きな違いを警告し、変革への提言を出す。そして第6章では少し視点を変えて、未来の世界と日本での「生き方」にも踏み込んである種の妄想を広げていく。
強い日本への危機感と提言に満ちていながら、最後には[どう人間たちが生命をいきるか]という思想を作っていくのが面白く、何か希望を感じさせる本である。

とはいえこの希望といっても、「このままいけばそうなりますよ」という意味での達成を予想するタイプの希望ではない。そのような、いわば高度経済成長時代の「豊かな明るい必達の未来」などというものは今の日本には残念ながらない。著者は厳しくも、ときおりユーモアを交えてマイルドに書いているため、さらっと読んでいると素通りしてしまいそうだが、よく読むとかなり絶望的なことが書いてある。なぜなら、このデータ×AI、そしてデジタル領域で「ビジネス、サイエンス、テクノロジー」をかけ合わせた人材が時代を作るゲームの中心にいる状況下で、日本はお金の投資もしていなければ、そのような人材を作るための投資もしていない(ゼロではないが諸外国に比べると恐ろしく少ない)ため、もうここからひっくり返すのは非常に困難だからである。
ゆえに、本書が見せている希望は、これは著者も作中で日本人の強みとして挙げている「妄想」の要素をかなり含むものだと私は理解している。日本には未来はありません、とだけ言って終わらせたくない、これからを生きる未来の世代たちにとって希望を持った日本の可能性を提示したい。そのような著者の魂の叫びが込められているようだった。

という著者の想いを汲み取った上で、私が読者として特に絶望感を覚えたあたりをメモしておきたい。
色々あるのだが、1つ挙げるなら高等教育ならび研究領域における予算のあまりの少なさである。第5章のp.273にある米国のトップ大学と、日本の東大京大の学生ひとりあたりの支出は、スタンフォード大の約33万ドルに対して、東大で8.4万ドル。また、常勤教授の平均年収の違いについては、米国トップ大学の平均が2,200万円程度に対して日本のトップ国立大は1,100万円程度となっている。もちろん物価水準の違いなどもあるので単に金額の違いがすべてではないものの、本書に記載あるとおりで、日本の場合はまったく上昇していないことが問題と思われる。そりゃ日本の物価が上がらないのだからしょうがないでしょう、ということかもしれないがしかし現実にグローバルのトップ人材はどこの大学でもほしいわけで、そうなったときに待遇面の差が選ばれないことに繋がることは否定できない。日本のトップ大学であっても「世界トップの研究者はいない」可能性が高い。
またp.282に記載があるように、Ph.D取得のためにかかる必要が段違いで、物価も学費も高い米国でも、Ph.Dの取得には大学奨学金があるためにほぼ持ち出しは0とのことである。しかし日本は特殊な奨学金を取得できなければ340万円の持ち出しになる。このような中で、お金はないが優秀な研究者候補の学生が、日本で果たして研究者になれるのか。相当多くの学生が芽を摘まれているのではないか。これだけ人材、研究者が勝負を分ける時代なのに、日本では博士号取得者は減少しており、人口が日本の半分ちょっとのフランスにも抜かれそうな数となっている(しかもデータは2014年)。
あとはp.295にある、米国主要大学における予算の出し手は企業ではなく財源のかなりの割合が「投資・運用益」から来ているという話が驚きである。ハーバード大学の大学基金の運用資金はなんと3.5兆円。対して東京大学は110億円、京大はゼロ。もちろん単純にその比較で良し悪しという話ではないにしても、莫大な予算をこの基金の運用益から確保できているのは事実として圧倒的な差になっているだろう。「貴重な税金を投入しているのだからちゃんと使って報告しろ」などとも言われる筋合いもない。大学基金が自分たちの研究者や学生のために資金を運用し、運用益(年率11%!恐ろしい)で資金を確保していく。そこで育った人材が実業界や研究で国をリードしていく。お金がお金を生み出すという仕組みを最大限活用したこのシステムの循環は文字通りケタ違いだ。

日本の場合、残念ながら仮に永久に各大学基金がなくても政府が予算を潤沢に注ぎ込んでくれたら(自立性はないとしても)研究はできるのかもしれないが、どうもそれもないということだ。日本の予算は、平たく言えば高齢者に回されている。
著者はこう書いてないが、いわばこれは「シルバー民主主義」の帰結なのだと私は思う。国全体が高齢化する中で、意思表明権利を持つ者、その時間のある者の多くが高齢になり、未来よりも今の見える価値を最大化しなくてはいけない国。この事実を改めて突きつけられて、惨憺たる気持ちにはなった。

トンネルの出口はどこにあるのか。正直なところ私にはよくわからない。というより多分これは出口の無いトンネル、あるいは沈むだけの船だと思っている。
ただもちろん、国家間のパワーゲームの優劣が、そこに生きる人々の人生の質や幸福度を決める、そんな単純なものでないこともよく留意すべきことだとは思っている。
「ファクトフルネス」(ハンス・ロスリング)「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー)などでもデータに基づき論説されているように、明らかに中世や近世よりも近代、そして現代と至る中で、我々の生命と生活は改善されている。仮に日本がアメリカや中国や欧州に比べて研究力や経済力で相対的に負けていくとしても、それがすなわち日本に生きる人が不幸になる、ということではない。ここは短絡的に見てはいけないところだ。どこの国や企業の発祥の技術やサービスであっても、それが人類全体に資するものであれば、その効果はそれを開発していない国にも波及していくことはそれこそ歴史が示している。ただ、そういった研究やサービスを多く生み出す国とそうでない国に分かれる可能性が高いということは本書の示すとおりだし、これまではどちらかというと生み出すことの多かった日本は、それをこれからは分けてもらってなんとかやっていく国になる可能性がこのままだと高い、ということだと私は考える。

それが悪いのか?悪くはないのかもしれない。ただし、その過程で、変質したり喪失していったりするものも、それがまだ何かはわからないが、いろいろと出てくることだろう。それを受け入れることもまたある意味人間の適応力なのだといえば、それまでなのかもしれないが。

折しも本書刊行後に、世界はCOVID-19に直面し、ワクチン開発で世界を主導したのは米国企業であった(中国は国内でワクチンを開発していた)。リモートワークが当たり前になる中、日本でもSlackやZoom、Microsoftのクラウドサービス類が普及したと思うが、大半は米国企業のサービスである。そしてロシアのウクライナ侵攻という「戦争」の時代に突入する中で、軍事力の重要性は改めて世界に示され、そしていまや軍事力とは研究と技術開発、その実装レベルの優劣で決まることも如実になってきた。すなわちこれも本書で言う「予算と研究開発と人材投資」の結果なのだと。またカーボンニュートラルの達成に向けて米国、中国、欧州などの多くの国が旗を掲げる中、日本はようやく遅れながら乗っかるも、EV、再生可能エネルギー、小型原発、カーボンクレジットなど、ゲームの根幹に関わるルールや技術がどこから来るかといえば欧州や米国である。さらにStable DiffusionやChatGPTなどの生成型AI技術をベースに誰でも使えるAIの出口的サービスが急速に席巻する世界で、それも多くは米国から生まれている。
その現実を、感じている。

★★★★★ 5/5

AI×データ時代における日本の再生と人材育成
安宅和人 (著)


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