解放されたときの自分を体験する①備忘録

最近、講師依頼がたくさん来る。秋口は研修ラッシュの時期だ。主に傾聴についての研修と家族支援についての支援の内容のことが多い。どれも共生社会を目指す取り組みに必要なキーワードを含んでいる。長い間自分が障がいを持つ人と接する中で必要だと感じ、仲間と勉強してきた分野で学んだことをお伝えできる機会があることは、とてもありがたいことだが、地元で「先生」と呼ばれるといろいろとやりにくいこともある。
 講義の時間は先生だが、現場では関係機関の連携先だったり、利用者だったり家族だったりする。しかし、そこでも先生扱いされると言いたいことも言えなくなってしまう。また、所属長として何気なく言った一言もオフィシャルな言葉として独り歩きしていく怖さも感じている。

 最近、部下から言われた。最近のあるげんての星さんの研修は固い、素で話したほうがわかりやすいし、キャッチーだ、と。
たしかに、そうかもしれない。自分は先生と言われることに応え、先生になろうとしている。
利用者と一緒に過ごしている中で、利用者に教えてもらったこと、気づかせてもらったこと、そういうことを研修で話していた頃もあった。体験談という形で一緒に行って自分もスタッフとして気づいたことを話す。
 今、自分はそういうスタンスじゃなくなっているのではないか。
すこし、自分のスタンスを変えようと思い、いつもは仕事で着るシャツで話しているが、普段着のスウェットにし、スライドの中に自己紹介やなぜこの仕事をしているのか、あと家族の写真も入れた。
そして座談会形式にした。対話形式にすることで、等身大の自分で語ることを意識した。こうして仕事モードではない自分を開示をした結果、意外に楽にできたし、反応もよかった。みんなリラックスしてあっというまに2時間過ぎた。

 自分の中で何かが変わった気がした。参加者もいろんなものを背負いながら仕事をしていてそのことを背負いながら参加している。ワークショップではそれを今日は外してくださいとアナウンスすることが多いんだが、自分が外せていなかったんだな。
自分がそれを外すことで、パフォーマンスが最大限発揮できることもわかった。ちゃんと呼吸しながら、話せていた。
 ふと、このモードで仕事ができたら楽しいだろうなと考えてしまった。
自分は今大きな組織の中間管理職で働いている。背負っているものはたくさんある。
引き換えに安定収入を手に入れて家族を養っている。
解放されて働くことで、今までできなかったことができるのだろうか。
地域づくりというテーマで、狭い意味での組織の利益追求ではなく、働くことができるだろうか。

非日常的な時間で仕事のことについて語れる「講師」という仕事は、いろんなモードを体験できる貴重な機会だ。そして、積み上げてきたものの整理とそこから解放されること。背負っているものが多くなると身動きできなくなる。今後のテーマだなあ。


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