悪はない。そこに光がないだけ。

昨夜、寝しなに布団の中で悪について考えた。そもそも、いつも寝しなに悪と戦う妄想をして楽しむ習慣がある。
これはもう物心ついたときからか、40年くらい続いている。
それが、昨日、ふと悪について考えたのだ。

悪というものはないんじゃないか、と。

もちろん、行為としての悪はある。実存の話。

メラニークラインの対象関係論というのがある。
聞きかじりだけど、赤ちゃんがお腹がすいて泣くんだけど、その時赤ちゃんは何が欲しくないているのかわからない。
おっぱいをもらって初めておっぱいが欲しかったんだと気づく。そしておっぱいを自分にとっていいものを持ってくるものだと思うらしい。

一方で不快で泣いているときに、不快なものをもってくるものがある、と捉える。

それを持ってくるものを悪いおっぱいだと思ってしまう。

だけど、悪いおっぱいってのは実はなくて、おっぱいがないだけだったことに気づく、という話。
そこからいろんな精神分析が始まるんだけど、その話は割愛。


で、最初の話に戻るけど、悪いものがあるのではく、良いものがないという考え方は、

実は、悪というのはそういう状態を表しているものなのではないかということ。

善がない状態になっているのはなぜか?

善がない状態になっているのは、そこに良いおっぱいが来ていない状態。

それが来るのを止めているものは何かを考え、善を招くシステムを作る必要がある。

反対に悪を見て欠点を修正して改善する方法は常に悪を招いてつぶしていく視点。


一旦、善悪思考を停止して、ありのままに俯瞰してみる。

悪という積極的な存在はないということを知ることが見直しをすることの必要なプロセスになる。

誰が悪いとか犯人探しをしている間は、それはなかなか難しい。


そしてそのことに気づいたときに、寝しなの妄想にも今のところ平和が訪れていて、悪を欲しがる正義の味方としては、物足りない日々が続いている。
勧善懲悪はエンタメとしては残しておいてもいいかもしれない。


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