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[書評]オウム真理教の内と外。内外のあわい、膜。家族の悲喜交交。

もちろん、そうだ。オウム真理教が起こしたこと、たとえば坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件、そして地下鉄サリン事件などによって多くの死傷者が出、大勢の人の心身が傷つき、今もその傷跡が生々しく残っている現実があるにもかかわらず、オウム真理教に対する「同情の余地」を述べることは――信者個々人のフェーズでは異論があるだろうが――手放しではできないし、してはならないと思う。数々の拷問、監禁、殺害の多くは、ほぼほぼ麻原彰晃の"指示"で実行に至ったと見なせるし、教団幹部や実行犯が仮に良心の呵責にさいなまれていたとしても、それが"実際の行為"にまで至ってしまった事態を許すわけにはいかない。教団に、情状酌量の余地は、ない。オウム真理教に忌避感を抱くのも当然である。

情状酌量の余地なしの麻原彰晃

その上で、私には確かめたいことがあった。それは、麻原彰晃とて「人の子」であり「親」であり「夫」であり、娘・息子にとっては「父」であったという事実、そしてその実際だ。多くの宗教関係者と交流がある私にとって、この点に触れずにオウムを語ることは不純でしかないと感じられた。麻原の家族・松本家にも当然、血のかよった関係があった。ごく普通の父親がみせるような愛嬌も、麻原には、あった。そのような"体温"をここで改めて示すことで「情状酌量の余地」をゼロイチ的に生み出そうとは私は思わない。思わない、けれど、一点、麻原の家族もまた犠牲者性を負い、ある種のカオスに巻き込まれ(進んで巻き込まれにいった面もある)、その家族の中に、私の想像の範疇を超える苦しみを味わった人がいるという事実がある。その事情に目配せすることも、あるいは大切なのではないか。オウムの罪を希釈するでもなく、しかし適切にそれを捉えるために必須の視点があるのではないか。私は、そう思っていた。

「赦せ」と言うのではない。悪は悪として責めるのが是だ。ただ、その「責め」の場面を見聞きして気になることがあった。それは、オウムによる殺人やテロの直接的な被害者ではない人たち、メディア・マスコミ、そして彼・彼女らに興味本位で関心を向ける有象無象の人びとの言動が、あまりにも「責めすぎている」し、「やり過ぎている」と感じられたことだ。オウム真理教が教団として悪であることは言わずもがなである。だが、オウムとの関係がほど遠い、二人称以下の、三人称、四人称の人びと、それこそオウム真理教を地下鉄サリン事件で初めて知って、しかしその後もさしたる関心を示さず、たまにオウム糾弾の言説に触れて勢い正義然と鉄槌を下し、社会的に彼らを圧殺しようと(無意識的に、無責任に)言葉を発する人の態度に、私は違和感を抱いた。私にはそれが「信なき言論」に見えたし、「ただ社会を分断するだけの言葉」がただただ「誅・オウム」の仮面をかぶっているだけだとしか思えなかった。悪を非難するのは大事だが、どこまで自身に責を負って糾弾しているのかと疑問符をつけたほうがいい場合は多々ある。

"オウム"は悪だが、あなたが善か否かとは関係がない

"オウム"は悪だ。だが、それはあなたが善であることを意味しない。

末端信徒までをも「悪」というのには、さまざまな議論がある。不思議なのは、オウム信者、その相手が個々の人間として捉えられた時に、「末端信者は、かわいそうだよね」と言い得る余地がでてくることだ。無意識的に圧殺しようとして正義然をきめこんできた上記の人たちも、オウム信者の「顔」が見えた時、追撃の姿勢をゆるめることがあった。「悪」と言い切ることに躊躇したりした。まして身内に、友人知人に関係者がいたとしたら、どうだろう。軽々に批判をするだろうか――。

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何度もいう。組織体としてのオウムは「悪」だ。麻原彰晃は、やはり「悪」とするのが妥当だ。それが現今の世間的な解だと思う。麻原の側近も、まず「悪」だろう。その他中核の幹部たちも「悪」だろう。だが、オウム真理教のヒエラルキーの裾野を降りれば降りるほど、信者の役が"末端"になればなるほど、なぜか私たちは、「情状酌量の余地って……でも、末端には、あるのでは?」「ある……の……かも?」と動揺する。そういった思いを、不思議にも馳せるようになっていく。そこには、責められるべき「罪」とそれを負うべき「人」の関係が必ずしも一筋縄では整理できず、「あわい」になって錯綜していることを感じて困惑するさまが見てとれる。だから人は、抽象概念としてのオウムは極悪として誅殺しようとできても、個々人に同じことをするのにはためらいを感じる。私は、その「あわい」を「あわい」として捉え、その上で「論じる」なり「責める」なりした方がよいと思っている。

本稿では『止まった時計』という本のとり急ぎの感想を書く。同書の著者は、松本麗華さん。麻原彰晃の三女だ。教団内の祝福名(ホーリーネーム)は「アーチャリー」だった。彼女は、麻原彰晃の娘であるがゆえに若くして側近幹部や正大師(=トップクラスの幹部)に比せられるような「責めの責(せき)」を負わされた。彼女は、気がつけば麻原の子として生きていたし、教団内での生活も彼女にとっては"自然"だった。最近、宗教二世・三世の話題が時折ニュースでみられるが、そこに登場する二世・三世信者と同じく、彼女もまた自分の意思とは関係のない形で教団の一員にされてしまった。ハイデガー的な言い方をすれば、松本麗華さんは「教祖の娘」という立場で、気がついた時にはもう世界に投げ出されていた。「どうして私はこの家に生まれたの?」という問いに、もちろん答えはない。むしろ彼女は当初、その問いを自身に問う必要を感じていなかった。おそらく、そういう機会もなく、思いすら及ばなかったと思う。なぜなら、オウム真理教の世界が"自然"で、あたりまえで、居心地がよかったから。おかしいと思うこともあれど、それは「世間だってそうだ」と思えたから。それに加えて、麻原彰晃が彼女に優しかったから。そんな文脈に長らく「生」をさらしてきた子どもが、途中で生き方を変えるのは至難である。

いま彼女は、オウムから離れ、暮らしている。

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アーチャリーから見た父。温もり。そして逮捕

多くの本が語っているとおり、麻原彰晃の性根には厳しいものがある。残忍な側面が多々ある。だが、娘・麗華さんから見た父・麻原は、それとは違ったものも持っていた。温かかった。優しかった。「食べ物を粗末にするのはやめようね」と麻原は彼女を諭した。冗談を言って笑わせてくれた。童話を聞かせてくれた。むじゃきに蟻の巣をつつき、蟻をつぶす彼女に対し、「ありさんもね、麗華と同じように生きているんだよ。ありさんはとっても小さいから、踏むと死んじゃうんだよ。ありさんも、怖いよ、怖いよって思うんだよ」とも語った。幼かったころ、麗華さんは父が大好きだったために、しょっちゅう父の布団にもぐりこみ、おねしょをしたという。しかし、麻原はそれに小言を言うのではなく、そっと自分の腕を枕にして、麗華さんを包んだ。

また、麻原は宗教者として誰よりも真摯に修行に向かった。ストイックだった。瞑想室に質素なちゃぶ台があったのだが、それひとつとっても「形は重要じゃない。心が重要なんだよ」といって、豪奢にせず、祭壇代わりに使い続けた。慎ましく、信仰に篤かった。それもまた、麗華さんが抱く敬意につながっただろう。彼女はやがてアーチャリーという神聖な役を担うことになるが、麻原は「教団は一人一人でできている。組織を見てはだめだ」と訓戒もしている。組織を動かす「人」としての麻原には、そういった側面もあったのである。

そんな麻原が逮捕されていく経過は、彼女にとってまさに寝耳に水だった。「お父さんが、なぜ!?」と涙にくれた。彼女の言葉を引用しよう。

「これが現実なんだろうか。父は世界そのものでした。その父がいなくなるという現実――ずっと一緒にいると信じていた父がいないという現実、それが本当に現実なのだろうか。父と一緒に死ねたほうがよかったな……。抵抗すれば、射殺されたのだろうか」(『止まった時計』88頁)

サティアン等の強制捜査当時、オウム信者の間で「抵抗すれば射殺される」という"ふれこみ"が広がっていたのだ。麗華さんの気の動転ぶりは、目に余る。活字で追うことが、私には苦しかった。

「父の逮捕後、わたしはずっと、父が『おう、心配かけたな。もう大丈夫だぞ』と戻ってきてくれることを信じていました。わたしは父が大切にしてきたものを壊さぬよう、そのまま父に返せるよう、現状維持を心がけました。一方で、父の言動を思い起こせば、もう帰ってこないのだとも感じていました。しかしわたしは、その絶望的な思いから目を塞ぎ、耳を塞ぎ、壊れゆく自分の心を守ろうとしました。――時が止まってしまったのです」(同106頁)

全方位「監視」の世界。あまりにも惨い現実

麗華さんを取り巻く環境は、麻原逮捕を前後して大きく変わった。マスコミには終始マークされ、ちょっとした言動が見出しや記事に躍ってしまう。テレビ、新聞、雑誌等に、あまりにも多くの日常が抜き取られ、載せられてしまうため、精神的に追い込まれた彼女は、カメラが向けられていそうな時には常にクルタ(宗教的な服)を着て、信者らしく振る舞い、「アーチャリー=クルタを着た子」というイメージをメディアに定着させようとした。それで「クルタを着ていない=アーチャリーではない」と思わせようとした。

麻原逮捕を前後して、教団内も過度に混乱した。「尊師(=麻原)によく思われたい」「尊師に褒められたい」という願望が叶うことは、もともと信者にとっての至高価値だった。しかし、それがやがて反転し、尊師が認めたのであれば「尊師の意思」として全てが実行され得るという環境を生み出した。麻原自身に、そもそも正しい情報が伝わっていたかが怪しかった。少なくとも麗華さんは、偽の情報や煽りの情報が麻原に伝わっていることに気づいていた。また、麻原が要領を得ないままわずかに相づちしたことが「尊師公認」とされ、それを"武器"に極端に走る人もそれまで出ていた。麻原は、目が見えない(盲目である)。ゆえに信者の伝聞情報のみでものごとをジャッジするしかない。その麻原の体質を巧みに使って"尊師利用"をしていた幹部もいた。

「教団にいた人はみな、多かれ少なかれ、父に依存していました。父に甘えていたのです」「何をしても、全部尊師が背負ってくれる。つらいこと、悪いことはすべて父に。――これ以上の依存があるでしょうか」(同109頁)

その教団の体質が、麻原逮捕後に地獄を生み出す。

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跋扈する"尊師利用"。幹部・信者の裏切り。人間不信

逮捕後の麻原の発言は、折々に世間に流れた。また、私的な回路で漏れ伝わってくる"尊師の言葉"もいろいろに聞こえてきた。それを幹部たちは、都合よく利用し、時にカットしたり、変えたりした。改ざん・捏造さえした。「尊師は自分のすべて」「尊師のためなら死ねる」と言っていた幹部たちは、あくまで"尊師利用"に徹した(それに本人が気づいていないこともあると思われる)。だから、"尊師利用"がマイナスになる場面、たとえば法廷に立った時には「麻原に逆らったら殺されると思った」「やるしかなかった」と全責任を麻原になすりつけもした。これらが麗華さんを人間不信に追い込んだことは想像に難くない。

また、教団運営も問題になった。ハイクラスに位置する正悟師たちは、各部署を分割担当していた。しかし、以前から各部署の利益ばかりが追求され、教団運営について話すはずの「長老会議」も「全体の利益」を考えるという視点に欠けたものになっていた。麻原逮捕後は、その利害をめぐる骨肉の争いが噴出した。

「正悟師たちは、組織をどうやって維持するかということばかりに意識がいき、一人一人の幸福を考えているようには見えませんでした。それが理由で不幸の連鎖が起こっているように、わたしには見えました」(同150頁)

そういった悲しい状況を逮捕前からよくよく知っていた麻原は、それゆえにたびたび、麗華さんに孤独感を吐露していたという。各種事件の指示についても

「(もし仮に父が指示をだしていたとしても)『本当にそんなことをするんですか?』と直接父に確認もしない心理状態は、当時の教団を知るわたしから見ても特殊としかいいようがない」(同278頁、(  )は引用者)

という状況だったと麗華さんは言うのである。本音と建て前を使い分けるような乾いた関係があったのだろうか。悲しいかな、麻原自身も希死念慮を抱くようになっていた。

これに加え、麗華さんは身近な人たちからも罵られ、裏切りにも遭った。身内から「あなたに毒殺される!」と疑われ、守ってさえもらえないことがあった。麗華さん以外のきょうだいも、住民運動で住み処を追われたり、中身の入ったアルミ缶を投げつけられたり、車をパンクさせられたり、右翼のトラックにひかれて救急搬送されたりした。「オウム死ね」「でていけ」の声高な責めが、彼・彼女らをさいなんだ。麗華さんは、どうしようもない自身を、その体を、存在を確かめるようにして、リストカットにさらし、希死念慮をわかせ、うつ状態に入っていった。

大学入学を拒否される麗華さん

疲れ切った麗華さんは、最終的に教団を去る。決心したのは2000年2月、それは、オウム真理教から派生した教団「アレフ」が誕生してすぐのことだった(当時、彼女は16歳〈17歳になる年〉)。

ところが、世間の目はそう簡単に彼女を肯定しなかった。

大学受験に向けて本格的に勉強をしただけで、『FRIDAY』に「オウム『アーチャリー』は熱心に大検予備校通い」と写真入りで掲載され、それが影響してか、彼女はアルバイトを解雇されてしまった。また、カナダに語学留学をすれば、『週刊新潮』に「被害者補償を忘れた麻原三女『アーチャリー』のカナダ大名旅行」という記事が躍った。麗華さんが3人も「おつきの人」を連れて物見遊山をしたかのように書かれたのである。それは、完全に事実無根だった。

しかも、大学に合格しても、入学を拒否された。一度だけではない。その翌年も、受験シーズンの嫌な時期に、朝日新聞に"オウムの子どもが(昨年)入学を拒否されていた"と報道されたためか、合格大学から入学をふたたび拒否された。

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アーチャリーを精神的支柱にせよ! という独善

放っておかなかったのは世間だけではない。その後の教団・派生教団もまた、麗華さんを「アーチャリーとして」祭り上げ、ふたたび旗揚げしようと画策した。「アーチャリーが賛成している」と勝手に吹聴して、上祐史浩氏がアレフの教団運営をしていたこともわかった。麗華さんは「精神的支柱」とまで呼ばれた。「もう関わらないで!」と、パッと関係を切れればいいのだが、そうもいかない。たとえば「ロシアのシガチョフ(信者)がテロを起こそうとしている。シガチョフはアーチャリーの話なら聞くと言っている。何とかしてくれないか」といった形で関わりを請われることがあるのだ。彼女は、その要請を無碍にはできなかった。

『1リットルの涙』という本が流行った時、麗華さんは姉とこんなやりとりをしている。

「一リットルも涙を流すって、すごいね」
「一リットルは案外簡単にたまるよ」

そして、彼女は思う。

「わたしは父が逮捕されてから、どれくらいの涙を流したのだろう。心も身体も憔悴しきっていました」「目元にコップを置いておけば、簡単にいっぱいになるだろう」(同229頁)

涙も枯れたその先、地下鉄サリン事件等への気持ち

先日のことだ。電車で移動している時に、『止まった時計』をハードカバーで読んでいたら、周囲にいた人が2人ほど、ぎょっとしたのを私は見逃さなかった。松本麗華さんの顔写真が大きく載った表紙を見て、怪訝そうな顔をしている人がいた。オウムが撒いたものは、事件から25年を経た今でも、そこかしこに潜伏し、残っている。この出来事が、それを感じさせた。そして私は、オウムという経験の「残り方」が気になった。ただただ、オウムを凶悪なものとして、「自分はそっち側ではない」と居直ることがよいのか? と自分に問うた。繰り返しいうように、私はオウムに情状酌量の余地があるのでは? と問いたいのではない。むしろ、私が提起したいことは、ホロコーストを体験したV・E・フランクルの以下の言葉の転回に近い。いわば、「人生の意味は何だろう?」と問うのではなく

「われわれは人生の意味に関する問いにコペルニクス的転回をなさなければならない。すなわち人生の側が人間に問いを提出しているのである。すなわち人間は、問いを発するべきではなくて、むしろ人生によって問われているものなのである。人間の方が、人生に答えるべきなのである」(『死と愛』73頁、表記を少し改めた)

と。つまり、「人生の意味を問うのではなく、人生から問われていることに答えるべきだ」という逆説だ。オウム真理教の悪を糾弾して、正しい立場から何かを諭すのではなく、オウム真理教の一連の出来事が「あなたに何を問いかけているか」に答えようとすることが、とても大切だと、私は、そう思っている。

松本麗華さんは同書最後のページにこうつづった。

「何かをわたしが軽々しく言うことはできません」「わたしにやさしくしてくれた人たちが、人を殺し、被害者の方々を苦しみに追いやってしまった。この現実に、わたしは立ち尽くしています」(『止まった時計』286頁)

私は、きょうも悩んでいる。



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