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スピンオフ小説『メデューサの首』

『アルゴ遠征隊西部へ』の後日談です。


 一九四二年、ワイオミング州コーディ。
 草原の中に丸太小屋がぽつんと建っている。大きさはおおよそ三二五平方メートル(九八坪)。内部にはホールが二つに部屋が七つ。バッファロー・ビルことウィリアム・F・コーディにまつわる物が多数飾られている。バッファロー・ビル博物館で、近くには女性彫刻家ガートルード・ヴァンダービルト・ホイットニー作によるブロンズ製のバッファロー・ビル・スカウト像が威容を誇っている。
 建物の目立たない裏手にも銅像が置かれている。二丁拳銃を構えたガンマン二人の像で、金色に光り輝いている。実はそれは像ではない。怪物メデューサのために石化した、西部の無法者、ブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの成れの果てだ。映画にもなったモンスターハンター・スリムがバトル・マウンテン近郊の洞窟でメデューサを退治した時、一緒に回収されたのを預かっているのだが、置き場所に困って外に出しているのである。
 一九二七年の開館以来、毎週のようにこの像を鑑賞しに来ている女性客がいる。年齢はもう六〇を超えているのではないか。上品で、高い知性を感じさせる、笑顔の素敵な老嬢である。野ざらしで雨風と土埃で汚れてもおかしくない像がいつもピカピカなのは、彼女がきれいに拭き取っているからではないかと、もっぱらの噂である。彼女が髭を生やした方の像(サンダンスだ)に口吻しているのを見たという人もいるが、本当かどうかはわからない。

 一九五一年。アメリカ東部のとある研究所で、アメリカ国防総省の委託を受け、ある生物標本の研究が極秘裏に続けられていた。もちろん、国家機密で、研究スタッフには守秘義務が課せられ、そこで知り得た情報を外部にはいっさい漏洩しないという誓約書まで書かされている。
 問題の標本だが――精密な検査を行っているにもかかわらず、それを見たものは誰もいない。いや、見てはいけないことになっている。秘密にしたいわけではなく、見るのは危険だ、見たら大変なことになる、と注意されている。どうなるのかというと、石化するのだ。厳密にいうと、黄金化。そのためにその標本をおさめた入れた標本瓶には黒い布がすっぽり被せてある。
 ここまで書けば察しはつくだろう、標本はメデューサの首である。
 一九一〇年、メデューサはモンスターハンターのスリムによって退治された。スリムについて書かれた伝記本から、どうやって退治したか、抜粋してみよう。

洞窟にはたくさんの人間の像があった。皆、メデューサを見たがために石になった人間たちである。ある者は銃を構え、ある者はナイフを構え、またある者は逃げ出そうとして振り向いたところを石に変えられた。[…]洞窟の奥から、シューシューという禍々しい音が響いてきた。スリムはバンダナで口を覆うと、南北戦争で海軍が使用し、最近では海難救助に欠かせない、コストン夫人が発明した発光信号を真っ暗な洞窟の奥に向けて発射した。白い煙の尾が引き、洞窟の中に充満した。スリムはすばやく回れ右をした。背後で激しい音とともに閃光が焚かれ、洞窟の壁が赤く染まった。そこに、今にもスリムに襲いかかろうとするメデューサの影が反射された。スリムはスミス&ウェッソンモデル3スコフィールドを抜くと、直接相手を見ることなく、壁に投影された影を見ながら、脇の下から背後にいるメデューサを狙って、弾丸が尽きるまで撃ちまくった。

 本に書いてあるのはそこまでだ。その後、スリムがメデューサの首を斬り落としたのは、賞金首の証拠として持ち帰るためではない。生き返ったりしないよう、念の為にそうしたのだ。相手は人間ではなく、ギリシア神話の怪物、用心するに越したことはない。死体をうつ伏せに、顔を地面につけた状態で切断し、目の粗い分厚い麻袋に詰めて持ち帰った。
 メデューサの遺体は首、胴体ともどもアメリカ合衆国政府に引き渡された。
 政府にはある思惑があった。メデューサの秘密を解明して、強力な武器を作りたかったのだ。具体的には、敵の動きを一瞬にして封じる石化光線を考えていた。メデューサの目から光線のようなものが出て、それで生き物が石になるのだと考えていたのだ。
 さっそくメデューサの首の研究が始められたが、その初日、おそろしい事故が起きてしまった。キャレルという医師が、メデューサはもう死んでいるから安全だと思い込み、十分な注意を払わずに手掴みでメデューサの首を麻袋から取り出してしまったのだ。キャレル医師は悲鳴を上げる暇さえなく、黄金像と化してしまった。メデューサは死んではいなかったのだ。首を麻袋に戻し、脳波を測定したところ、微弱ながら脳波を検出できた。科学者たちはあらためてメデューサの首をホルマリンを満たした標本瓶に入れ、その上に黒い布を被せて、研究を続けた。(なお石化した医師は棺に納められ埋葬された)。

 メデューサが目から生物を石化する光線を放っているのだとしたら、目または目の周辺にチョウチンアンコウなど深海魚が有してる発光器があるはずだ。それを確かめるために首のレントゲン写真を撮ってみたが、それらしきものは見つからなかった。髪の毛の中に蛇の骨格が認められた以外は、普通の人間の頭部と変わらなかった。
 次に注目したのは蛇の髪の毛だ。コブラの中には唾を飛ばすコブラがいる。距離は最大で二メートル、毒性があり、目に入ると失明する恐れもある。それに似たやりかたで、メデューサの髪の毛の蛇の牙から神経毒を噴出し、獲物の筋肉を麻痺させているのではと考えたのだ。科学者たちはメデューサの髪の毛の一本(いや、一匹というべきか)を切断し、解剖して調べてみた。しかし、この予想も外れていた。
 物理的な理由でないとすると、心理的なものかもしれない。スヴェンガーリが人を意のままに操る時に使った強力な催眠術を使ったのではないか。暗示をかけられた人間は全身の筋肉が硬直して動かなくなってしまう。もっとも、メデューサによって石化したのは人間だけではない。メデューサがいた洞窟からは、石化したヤスデ、ゴキブリ、カブトムシ、カタツムリなどが見つかった。このうち、ヤスデに限って言えば、その視覚は非情に悪く、視覚が存在しない場合もある。それなのにはたして催眠術が効くのだろうか。可能性がゼロとは言えないが、かなり低いことは確かだ。
 そんなふうにああだこうだ議論しているところに、大学を卒業したての若い男性研究員が一冊の本を持ってきた。大学の授業で使われたダーウィンの古典的名著『人及び動物の表情について』(一八七二年)だ。その中にこんな記述があった。

人間が恐怖を感じて最初にすることは、彫像のようにじっと動かず、息を殺して立ち尽くすか、本能的に視線から逃れようとしゃがみ込むかだ。

 カラヴァッジオをはじめとして、絵画に描かれたメデューサの顔は目を剥いた、おぞましい形相をしている。ただでさえ恐ろしいその顔の上に、蛇の髪の毛がのたくっていて、生理的に目を背けたくなる。絵画でさえそうなのだ。実物のメデューサが動いているのを目の当たりにしたら、恐怖に身が竦み、そのまま心臓も停まってしまうかもしれない。こうした反応は何も人間だけのものではなく、小動物でも起こる。パブロフはそれを「恐怖条件付け」と呼んだ。つまり、それが嵩じて強硬症カタレプシーに似た症状を引き起こしてしまったではないか、とその若い研究員は主張した。
 全面的な支持は得られなかったが、可能性は大いにあった。
 ところで人間には、おそらく動物にはない奇妙な心理がある。それは、好奇心――とくに恐怖を体験したい、怖い思いをしてみたいという心理である。恐怖映画、お化け屋敷、ジェットコースターなどが人気なのはそのためだ。ダーウィンの本を持ち出したあの若い研究者は、若さゆえ、とくにその思いが強かった。自分でも気づかずに、標本瓶に手が伸びて黒布をめくろうとしたことは一度や二度ではない。夢の中で、標本瓶のガラスと黒布をすり抜けて現れたメデューサの首に噛みつかれたこともある。
 ある日のことだった。皆が寝静まったの深夜、若者はこっそり研究室に忍び込んだ。照明を点けると気づかれるので、真っ暗闇の中、懐中電灯の乏しい光をたよりに、メデューサの首の入った標本瓶が置いてある机に忍び足で近づいた。期待と不安で心臓は早鐘のように打ち、アドレナリンが急増した。若者の手は黒布の上の部分をぎゅっと掴むと、迷いを断ち切るように勢いよくぱっとめくった。懐中電灯で標本瓶の中を照らすのだが、手が震えて、ひとところにとどまらない。それでも、ホルマリン溶液の中でたゆたう蛇の髪の毛や、顔の皺、閉じられた目蓋、一文字に結ばれた唇が、光の中に浮き上がった。全身にゾクゾクと鳥肌が立ったのを若者は自覚した。同時に、えもいわれぬ歓喜も感じた。恐怖と快感が入り混じった極上のスリル。若者は泣きながら嗤っていた。
 標本瓶の中でメデューサの首はぶよぶよに膨張していた。ふやけてシワシワになった皮膚が閉じられた目の周りに年輪のような環を作っていた。ガラスにべたっと張り付いた唇はまるで若者にキスを迫っているようで可笑しかった。若者は嘲るように笑ったが、笑顔は引き攣って元に戻らなくなった。痙攣だった。筋肉が裏返るような痙攣。それはあっという間に全身に広がって、若者は動けなくなった。硬直したまま床の上に倒れたが、倒れる時、机の上に置いてあった薬品の瓶数個が巻き込まれて床に落ちてしまった。瓶は割れ、中の液体が混じり合い、化学反応で発火した。火は液体と一緒に室内に燃え広がり、研究室は瞬く間に火に包まれた。メデューサの首も焼け焦げて炭化してしまった……。

 目覚めた時、私は真っ暗な狭いところに寝ていた。すぐ上に天井があった。窮屈で手も伸ばせない。そこがどこなのか、まるで見当がつかなかった。長いこと眠っていたのだろう、自分の名前を思い出すのにも時間がかかった。私は……キャレル、スティーブン・キャレル。職業は医者。だんだん思い出してきた。私は政府の依頼で秘密の研究に参加することになっていた。ギリシア神話の怪物メデューサの謎の解明だ。研究室に届いたメデューサの首はごわごわの麻袋の中に入っていた。私は手袋をつけ、それを取り出し……取り出し……取り出してどうしたんだろう? そこで記憶が途切れている。それよりも、だんだん息苦しくなってきた。子供の頃の嫌な記憶が思い出された。いたずらをしたお仕置きに、屋根裏部屋に一晩閉じ込められた記憶。あの時と同じで暗くて、狭い。私は拳で天井を叩きだした。びくともしない。かなりの厚みだ。私はようやく自分がどこにいるかわかった。棺だ、棺の中だ。私は大声で叫んだ。「出せ! ここから出してくれーっ!」
 

 その二ヶ月後後、南米のスイスと呼ばれる、アルゼンチンのサン・カルロス・デ・バリローチェに、三人のアメリカ人旅行者が現れた。年老いた婦人と三十代の男性二人。ホテルの宿帳には、ジェームズ・ライアンとハリー・E・プレイス夫妻と書かれていた。
 当初の予定では。三人はそこから船に乗り、チリに向かうはずだった。しかし、そうしなかったのは、バリローチェのドイツ料理店で妙な会話を耳に挟んだからだ。一人は黒い中折れ帽に黒いレザーコートに丸眼鏡をかけたドイツ人、もう一人は縮れっ毛のおそらく現地人。会話から、核融合発電装置、リヒター、ペロンという単語が聞き取れた。
 二人の若者はちんぷんかんぷんな話で、老婦人が説明した。
「アルゼンチン大統領がこの近くの島に核融合炉を建設しようとしているの」
「核融合炉って何だ?」とライアンという男が訊いた。
「わたしも詳しくは知らないけど、核爆弾みたいなものだと思う。核爆弾というのは、ダイナマイトの何万倍も威力のある武器」
「何万倍は大げさじゃないか?」と口髭をはやした年齢の離れた若い夫がぼそぼそっと言った。
 だが、夫人は真顔で、
「おおげさじゃないわ。もしかしたら何万倍じゃなく、何十万倍、何百万倍かもしれない。町一つが一発で吹き飛ぶくらいものすごいものだって」
「で、それを盗もうとしてるんだな、あの気色悪い眼鏡のドイツ人は?」とライアン。
「そう」
 ライアンはにやっと笑うと、声をひそめて二人に言った。
「なあ、ケチな銀行強盗よりこっちのほうが金になりそうな気はしねえか?」
 プレイス夫妻は黙って肯いた。
「よし、決まりだ。ドイツ人より先にその核融合炉ってやつをいただこう」

(おわり)


【解説】
ピンカートン探偵社から逃げるのに疲れたブッチ・キャシディとサンダンス・キッドは、サンダンスの恋人であるエッタ・プレイスを連れて南米に逃げた。この時、三人はアルゼンチンのサン・カルロス・デ・バリローチェに立ち寄った。一九〇五年のことである。
この町にはドイツ人移民が多く住み、第二次世界大戦後はエーリヒ・プリーブケやラインハルト・コップスといたナチ戦犯も隠れていた。
一九五一年、フアン・ペロン大統領はナウエル・ウアピ湖のウェムル島に核融合発電の実験(フエムル計画)の施設を作った。なお、この湖では20世紀初頭、ナウエリートという巨大生物が目撃されたという。

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