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恋愛備忘録|彼の様子がおかしい

事実は小説よりも奇なり。
信じてもらえないようなことがいくつも重なり、
時間を共有するようになった彼とわたしの備忘録。
信じてもらえなくても、すべてノンフィクション。
ちなみに彼とわたしは付き合っていない。

 最近、彼の様子がおかしい。

 出会って六ヶ月目。敬語のまま続いていたメッセージのやり取りが、急にタメ口になった。絵文字のレパートリーが増え、音符までついてきて、ちょっとだけテンションが高い。
 会ったときも今までより階段一段分くらいテンションが高く、終始楽しそうで、指摘こそしなかったものの、正直わたしは戸惑った。

 わたしたちはお互いNGがあり、逐一それを記憶し、嫌なことはしないというスタンスだった。

 例えばわたしには、触れてほしくない身体の箇所がいくつかあり、今まで拒否した箇所を彼は絶対に触らなかった。基本的には全裸も拒否しており、普段着のままベッドに転がっている。
 例えば彼はお風呂場や着替えを覗かれるのを拒否したから、わたしは彼がシャワー中は必ずソファーで待った。どうやら膝から上を見られるのが嫌なようで、バスローブの裾を捲ろうとすると、いつも羽交い絞めにされる。
 例えば律儀な彼はキスすらも、我慢できなくなったわたしが先にするまで待つのだ。

 だというのに、彼が突然浴槽にお湯を張り始め、浴室の照明を調整していたから、わたしはからかうように「一緒に入る?」と言った。
 お風呂場や着替えを覗かれるのを嫌がる彼が、そんなわたしを脱衣所から追い出すことは分かっていたから、今回もそうだろうと思っていた、のに。

 彼は「いいよ、一緒に入ろう」と、ごくごく普通に言い放った。

 まさかそんな返答があるとは思わなかったわたしは戸惑い、「あはは」とぎこちなく笑い、後退りして「ごゆっくりどうぞー」と、仕事用の声を出し、脱衣所を出た。
 追いかけて来た彼は「覗くのはだめだけど、一緒に入るならいいよ」と、からかうように言う。ものの数秒で、立場が逆転した。

「いいの? だっていつも覗きNGって……」
「覗きはNG。俺シャワー浴びるけど、優さんが服着て入って来た瞬間拳が飛ぶよ」
「……、……」

 結局わたしは、浴室に突撃しなかった。まさかそんな提案をされるとは思っていなかったから、心の準備ができていなかったのだ。第一、わたしは基本的には全裸NGなのである。

 そのあとふたりでベッドに潜り込んでからも、彼はいつもと違っていた。

 冬の夜は乾燥のためか気圧のためか、咳が止まらなくなるため、わたしは寝るときもマスクをつけている。
 いつも通りマスク着用で横になったわたしを見て、彼は、「そろそろマスク外してキスしよう」なんて言うのだ。

 今までわたしからキスをするまで、何も言わなかった彼が。
 以前「口内炎がひどいから今日はキスしない」と言ったとき、わたしが我慢できずに彼の唇を奪うと「しないって言ってたのに、もういいの?」と意地悪く笑った彼が。
 とびきり頑固で、我慢強いはずの彼が。「そろそろマスク外してキスしよう」だなんて。

 戸惑うわたしからマスクを剥ぎ取った彼は、満面の笑みで、わたしの唇に自分の唇を重ねた。

 明らかに彼の様子がおかしい。
 いつからだろう、と考えてみれば、ひとつだけ思い当たることがあった。

 数日前、わたしたちはメッセージのやり取り中に、ほんの少しだけギスギスした。

 ごくありきたりな、その日にあったことや体調を報告するメッセージの中に、特に深い意味などなく「今日も愛してるよ」と書いた。
 深刻な文体ではなく「今日はこんなことがあったよ、楽しかったー、体調心配してくれてありがとう、今日も愛してるよー」というような、挨拶レベルの「愛してる」だった。
 流してもいい言葉だったし、流されるつもりだった。

 けれど、真面目で誠実で優しくて穏やかでとびきり頑固な彼は、そうしなかった。
 仕事や私生活、環境などのあらゆることにおいて複雑でもどかしい生活を送っている彼は、現状わたしの気持ちに応えられない。気持ちに応えてしまえば、わたしが悲しみ苦労すると思っている人だ。
 そしてわたしからの「愛してる」を気軽に流すことができないほど、真面目で誠実な人なのだ。

 だから彼は「それは自分にとって特別な言葉です。困ります」と返事を寄越した。

 わたしとしては幸福の言葉――例えば「ありがとう」や「愛してる」は特別な日にしか言わない特別な言葉ではなく、日常的にどんどん使っていくべきだと思っている。
 言った方も言われた方も笑顔になれる魔法の言葉だ。

 実際日々接客販売の仕事をしていて、店から出るお客さんたちに「ありがとうございました」と笑顔を向ければ、ほとんどの人がこちらに笑顔を返してくれる。
 いつも気難しい顔をしている男性客ですら「こんにちは、いつもありがとうございます」と声をかければ、ニコっと笑ったり、手を挙げてくれたりするのだ。

 けれど彼の価値観はわたしとは少し違っていた。特別な言葉は、特別なときに、然るべき場所で言うべきだ、と考えているらしい。

 まあ、それならそれで良い。わたしとしても、彼からの「愛してる」を求めていたわけではない。
 だから彼に「困らせてごめんね、二度と言わないから安心して」とメッセージを送った。

 後になって読み返すと、少々冷たい返事だったかもしれない。
 ここで言う「二度と」は、「あなたが許可を出すまでは二度と言わない」という意味なのだが、たぶんそれは伝わっていないだろう。彼からの返事は、一日経ってもなかった。

 しかしわたしもいい年の大人である。いつまでもギスギスしたままでいるつもりはない。翌日、何事もなかったかのように、会話を再開させた。

 休日明けで出勤したら、職場のロッカーが同僚たちによってとんでもないデコレーションをされていた、という、前回のやりとりとは全く関係のないメッセージと、ちょっと笑えるデコロッカーの写真を送ると、すぐに返事があった。普段返信が遅い彼が、ものの五分で、とても気軽なタメ口で。

 その気軽さは数日後に行われたハグ会でも継続され、前述の「様子がおかしい」に至るわけだが。

 一瞬だけギスギスしたメッセージのやり取りをわざわざ持ち出すことはしないし、わたしは全く気にしていないし、彼からの許可が出たらすぐにでもまた「愛してるよー」を言うつもりなのだけれど。優しい彼が、わたしの気持ちに応えられないことを気にしているのなら申し訳ない。

 それでもこの気軽さや、中の人が変わったのではと疑うレベルの積極性は、彼が今できる最大限の愛情表現だと思うから、わたしは全裸NGという理念を曲げて「次に会ったら一緒にお風呂に入ろう」とメッセージを送るのだった。


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