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恋愛備忘録|彼は頑固(でもたまに折れてくれる)

事実は小説よりも奇なり。
信じてもらえないようなことがいくつも重なり、
時間を共有するようになった彼とわたしの備忘録。
信じてもらえなくても、すべてノンフィクション。
ちなみに彼とわたしは付き合っていない。

 
 彼は自他ともに認める頑固者である。
 
 不定期で開催している「ハグ会」という名のデート予定日の数日前に「周りでインフルエンザが流行っているから今回は中止にしよう」という連絡が入った。
 
 彼の職場や周囲や居住地域で何人も感染者が出ているらしく、念のためハグ会を中止にしようと言うのだ。
 
 彼は予防接種を受けていたし、今のところ何の症状も出ていない。仕事中はマスクをしていて、手洗いうがいもきちんとする真面目な人である。でも、中止である。
 かく言うわたしも、長年接客販売の仕事をしていて、過去に何度かインフルエンザを貰った経験から、徹底的に予防はしているつもりだ。
 
「予防はしているし、幸いわたしの同僚も同僚の家族もひとりも罹っていないから、大丈夫だよ」
 
 諭してみたが、彼は「中止」の一点張り。
 
「もう一ヶ月会えていないし、会いたいよ。ハグしたいよ」
 
 情に訴えかけてみたが、それでも彼は頷かない。
 
「周囲で流行っている以上、万が一を考えなければ。ハグ会当日に罹って、気付かないまま優さんに移してしまう可能性はある。コロナも然り。そっちは無症状ってことも有り得る。俺は昔から直観で動いていつも失敗してきたから、ここは慎重になるべきです」
 
 それにしたって慎重過ぎる。石橋を叩いて渡るどころか、石橋を叩き過ぎて割ってしまうほどの慎重さだ。
 
 わたしは昔から直観で動いて失敗した経験が思いつかないほどの直観人間で、今回も「大丈夫」という直観があった。それを彼に訴えかけたけれど、彼はやはり石橋を渡らない。
 
 結局わたしが折れた。「あなたの判断を尊重します」と伝えると、彼は満足したようだった。
 真面目で誠実で優しくて穏やかで、とびきり頑固。これが彼だ。そんなに慎重にならなくても、と思わず笑ってしまうほどの人なのだ。
 
 
 後日、風邪と高熱で一ヶ月苦しんだ彼と久しぶりに対面したときも、彼は変わらず頑固だった。
 
「久しぶりに会ったし、ちゅーくらいしよう」
 
 そう提案してみたが、慎重で頑固な彼が頷かないのは、もう知っている。断られることを承知で、でも定番のやり取りとして言ってみただけだ。
 勿論彼は断固拒否した。
 
「熱は下がったし体調も回復したけど、まだ少し咳が出るから駄目です」
 
 わたしは待っていた反応にくすくす笑いながら食い下がる。
 
「えー、可愛いショートヘアになった優さんに、ちゅーもなし?」
 
 自分のマスクを下げて顎を上げ、キスを待つ体勢を取ってみると、彼の心が少し揺れたのを感じた。マスクの向こうで「う……」という苦悩の表情をしたことにも気付いている。
 
 彼と会えなかった二ヶ月の間に、わたしは、腰まであったロングヘアをばっさり切り、ショートヘアになっていた。
 おそらく彼は短い髪が好きだ。会う度にわたしのロングヘアを弄び「ショートも似合うと思うな」と言われていたのだ。
 そのショートヘア初披露のこの場で、すでに彼は「似合う」「可愛い」と何度も髪を撫で、褒めてくれていた。
 
「可愛いショートヘアの優さんに、ちゅーくらいしてくれてもいいと思うけどなあ」
 
 それでも頑固な彼は折れないだろう。からかっただけだ。苦悩しながら、それでも拒否する様子を見たかっただけだ。あなたは本当に可愛い人ね、と言いたかっただけだ。
 
 それなのに。今日の彼はいつもと違った。
 一頻り苦悩の表情をしたあと、素早くマスクを下げ、素早くわたしの唇に自分の唇を押しつけ、素早く元の位置まで戻って行った。そして、初めてのキスでもないのに「やわらか……」なんて感想を呟く。
 
 あまりの早業に目が点になり、予想外の行動に思わず赤面した。
 あの頑固な彼が。石橋を叩き過ぎて割ってしまうほど慎重な彼が。意志を貫かなかったのだ。
 
「え……? ショートヘア優さんの可愛さに、我慢できなかった?」
 
 聞くと、彼は拗ねたように顔を背けた。
 
 彼は真面目で誠実で優しくて穏やかで、とびきり頑固だ。けれど、ごくたまに折れてくれる。そんな彼を、わたしはいつも、本当に可愛い人ね、と思っている。
 
 
 
 

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