ひとつの切りくち
バスタブがある。
栓を抜いて、水を止める。
溜まっていた水は音を立てて落ちる。水位が下がり、やがて空っぽになる。
人との繋がりは、このような形で失われてゆく。
*
問題は、事実ではない。事実と自意識の乖離、その差である。
かつて繋がっていた人が、周りから減ってゆく。これは事実だ。
できるなら、「なるほど、人が減ったのだな」と泰然自若それを受け入れ、人格の要素のなかに取り込みたいわけだ。
それが出来ないために、あるときは、永劫に既読がつかない LINE を送る。
あるときは、去っていった人たちを心の中で罵倒する。
あるときは、みんなサプライズでまた現れてくれるに違いない、と夢想し続ける。
どれも、なんと物悲しい自意識、物悲しい姿か。
確実に傷つくために生き続ける。
さすがにこれはつらすぎるから、あるときから、人を求めることを止めた。
実際は、人への執着は変わっていないが、そんなものは不要だと決めた。
大嘘つきだ、ばかやろうだ。
いまだに人に誰よりも執着し、恋々とし、ゆえに怨みを溜め込んでいるくせに。
*
ある瞬間に降って湧いたのではない。
どこへいても、浮いていた。
疎外され、敬遠され、陰口やいじめがあった。孤独が底なしの暴力を励起することも、体感で覚えた。
それは『協調性の欠如』という私の努力不足だ、それは『みじめで』『情けない』ことだ、とじわじわ植え付けられた。
みじめな自分、情けない自分は、あまりにみじめで情けない。
だから私は、違う箱を組み立て、明るく陽気で社交的で、なにより no と言わない人格を建設した。
いつも、短時間は騙せた。
長い期間は騙せない、ということである。
理由はシンプルだ。
どんなに表面を繕っても、人の輪に溶け込めない私が『みじめで』『情けない』という呪いは、私の深部でずっとそのままだから。
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娘に対して、ともすれば「お友だちとうまくやるんだよ」という言葉をかけそうで、そんな浅薄な自分にぞっとする。
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子は親の本質を恐ろしいほど見抜いている。
*
人の come-and-go は、すべて自然現象だ。努力や妥協や譲歩で調節するものではないし、できるものでもない。
それにしても、個人という思想、人格という思想は、どこまで私たちを孤立と空虚に追い込むのだろう。
人と人との結びつきを、無機質なバスタブになぞらえずにはいられないほど、それは歪んでゆく。
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