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マシューソンをめぐるわたし

 なぜこんなに野球が好きなのか、ストーブリーグにはよく考える。

 小学生のとき、ほんの短期間だけソフトボールのチームに参加した。他の習い事との時間的な両立が難しく、じきに通わなくなった。ショートを任されてから、にわかに楽しくなっていたから残念だったけれど、親から「モノになる方を選べ」と言い渡され、全国大会を控えていた剣道を(トランプのフォースのように)選ばされた。後悔や怨みは少しもない。どちらも、結局は「モノにな」らなかったのだから。

 だから、野球観戦に関しては、自分のプレイスタイルに照らして、というような殊勝な観点は皆無なのだ。永遠の素人。ただそこにあれば意味もなく気が晴れる。観てよい環境ならば、迷わず観てしまう。なぜ?

 折に触れて思うのは、メジャーなスポーツのなかで、もっとも「柔よく剛を制す」に近いからなのかな、ということ。イチローが野球なのか松井秀喜が野球なのかというような、結論も詮も無い議論が起こりうること自体、野球はまだまだ「閉じていない」スポーツだ。

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 また、野球はゴルフに並ぶ『名言』の宝庫だ。いちばん何も考えたくないときには、古今東西の野球選手の名言集か、将棋の名対局の棋譜を、ただ眺める。そんな時に眺める名言に、より芳醇な肉付けをするため、元気なときのわたしは Wikipedia の「経歴」と「詳細情報」を読み込む。残っていれば、過去の映像を漁る。たぶん、その情熱と執着は、趣味の域を超えている。「モノになる」という狭量な観念に、陽気に逆らい続けているのかもしれない。

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 クリスティ・マシューソン

 いまはほぼ誰も知らない名前だろう。一世紀以上前の大リーグ(MLB)でプレイした投手だ。最高レベルの名手、と言って差し支えない。

 実働17年、通算373勝(MLB歴代3位)188敗、生涯防御率2.13(同5位)。最初の野球殿堂入りを果たした5名のうちのひとりだ。余談だが、大卒初のMLBプレイヤーでもある。

 華々しい選手生活を終えた彼は、引退の翌年に第一次世界大戦に出征した。毒ガス部隊に所属し、事故でガスを大量に吸い肺を病む。それが原因で結核を発症し、45歳で亡くなる。

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 わたしたちは悲劇が好きだ。目を覆うようなドラマに惹かれる。沢村栄治が未だに語り継がれるのは、三度のノーヒット・ノーランを達成したからではなく、そのような投手が、現役のまま戦死を遂げたからだ。景浦将も吉原正喜も田部武雄も石丸進一も。

 その「野次馬根性」のおかげで、わたしは多くの名選手を知ることができた。だが、いまはそのようなフィルターを、幾分疎ましく感じる。沢村の話をひきずれば、本当の悲劇は戦死よりはるか前、最初の応召で無意味に手榴弾を投げさせられ過ぎて、ひどく肩を壊したことだろう。そして、ひどく肩を壊すことが投手の悲劇ならば、いまでも毎年何十人もの生ける悲劇が、幕を開いて待ち受けている。

 わたしは何に熱くなっているのだろう? いまどきのことばを借用すれば、安っぽく抜きやすい『感動ポルノ』に、心底辟易しているのかもしれない。もちろんそれは、関西弁の素朴な大投手・沢村栄治のせいなんかではないけれど。

 ややくどく、繰り返す。死は、悲劇の極致なのだろうか?

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 マシューソンの話に戻る。

 戦地でガスを吸い、ひどく肺を毀損した彼は、療養先のサナトリウムで、友人であり戦友でもあるタイ・カッブにこう語る。

 人間は読んだり、書いたり、話したり、また動いたりすることさえ出来なくなるとつい余計なことを考えるものだから、僕は頭の中で野球の練習をすることにしたよ。実際にグラウンドにいるのと同じ気持ちで次々と新しい事態を想像して、それに対する処置を研究するのさ。毎日こうして過ごしているから、ゲームについて今まで気がつかなかったことを、たくさん勉強したよ。

 そうだ。このことばだけを、わたしの土地であるこの note に残しておきたかった。

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 わたしたちはもはや、動物には戻れない。いかに強く願っても。

 人間に生まれ、人間を生き死ぬほか無ければ、わたしたちはいかにして、あの動物の、無生物の美しさ潔さに『戻る』ことができようか。それは知性だ、と、いつからかわたしは強く信じてきた。もっとも広い意味での知性。わたしがずっと求め、いまだ満たされぬ知性。ここに、それが――投げ捨てられた空き缶のように――転がっている。Wikipedia の片隅に。

 マシューソンのこの境地に、飽かずため息をつき、彼の穏やかなポートレイトを長く眺め、わたしはそれでも、今日も「つい余計なことを考える」のだ。

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 今年も、野球の季節がやってくる。

 マシューソンを造りあげた不思議なスポーツに、しばしうつつを抜かす。

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