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日記/朦朧

虎穴に入らずんば虎子を得ず、と言うが、それはそうだし、そんなことより、なぜあなたは、そんなにしてまで、虎子などがほしいのか、と、気がそぞろだ。食べるのか、皮をひさぐのか、それとも、愛でるのか。いずれ確実に食われるであろうから、虎ぬ狸の皮算用である。狸といえば、狸穴という地名が、わたしの故郷にある。故郷というのは、日本のことだ。まみあな、と読むが、狸は、いつからまみなのか。たぬきではないのか。いや、むじなだ、と聞こえる。これは、まずい兆候である。たぬき・むじな事件が、わたしの判例百選から、意気揚々と飛びでる。大審院によれば、狸はなにしろ、むじななのであり、だが、わたしのウィキペディアはいう、貉は狸または穴熊または白鼻芯はくびしんを指し、穴熊の穴を、狸がしばしば借用することから、同じ穴の貉、ということわざが生じた、と。このことわざは、よく目にするが、実は意味が分からない。まみは狸であり、すなわち貉であり、穴熊は、どうなのだろうか。このような皮算用では、真実には、到底おぼつかない。実証こそが、この混沌をのがれる唯一の方策だ。狸穴には、まだ狸穴はあるのだろうか。もし、狸穴にまだ狸穴があるなら、狸穴の狸穴に棲んでいる狸が、どの狸なのかを調べれば、それで済むのだ。いま、ほんの数分、寝落ちした。意識は、完全にわたしの狸穴へ落ちていた。むろん、狸寝入りではない。無性にねむい。今夜はもう、狸穴に入って休むことにする。結局、虎子についての疑問は晴れず、当地の天気も晴れず、したがって、虎の子の五千円、のようなことも、なしくずしに、きょうは何もかも分からない。そもそもは、伏見寅威という選手が、オリックスから、やっと当地の球団に帰ってきて、心が躍るあまり、久々に虎のことを考えていたのだ。ちがう、わたしは完全に、寝ぼけている。ちがわない、以前から伏見寅威は好きだ、心は躍っているが、それとは別で、わたしは虎穴に入ってみよう、と思案をしているのだ。貉とキジムナーは、わたしのなかで同じで、つまりキジムナーとは、基本的には狸だ。だめだ、また寝ぼけている。どこから、キジムナーが忍び込んだのだろうか。妖怪、恐るべし。後世、この日記で分かるのは、この日はよほど眠かったのだ、という一事のみ。


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