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日記/韓愈まみれ

韓愈の「雜說」は名文中の名文であり、これに出会ったら大抵の文章が野暮に感じ、筆が折れて書けなるという魔物(⟵適当)だ。
昨日今日、これを痺れる手で、十二回写した。気持ちがよいから、折に触れ写典するのだ。

十二回目、だいぶたるんでをる

世間に馬飼いがいて、千里の馬がいる。千里の馬はいつでもいるが、それを見抜く馬飼いは常には居らない。よって名馬がいても、下手な馬飼いの手になれば、辱められるだけだ。飼葉桶のはざまで無駄死して、千里と呼ばれることはない。千里の馬は、一食に粟を一石も食べ尽くす。下手の馬飼いは、この馬の能力を知らぬまま養う。この馬は千里を走る能力をもっているが、餌が足らず、力が足りず、その才は顕現しない。どころか、ほかの馬と同じように生きようとしても、それはかなわない。ましてや、千里の力を求め得るだろうか。鞭の入れ方も要領を得ない。養い方が悪く、逸材を活かしえない。馬がいくらいなないても、その意図を解すことができない。鞭をもってこの馬の前で言うことには、「世の中にゃ、えい・・馬がおらんのう。」ああ、実際にえい・・馬が居ないのか、それとも、えい・・馬を見抜けていないのか。

だとさ。
昔に読んだこの文が、私の理想の brevity is the soul of wit 規範であるが、それが外国語であったことは、はたして幸か不幸か。教壇に在るときは、自身の立場が馬と馬飼いとでくるくる回り、それは面白い体験なのだったが、そろそろ自分が、ただの駄馬駑馬であることが判然としてきたので、そこはまた別の、嗚呼、である。

とは言え、花が率爾そつじとさくように、どうにも、私もまだ何か、さき足りないものがあると感じるのも、また真実だ。
その「材」がブレイクダンスであったり、インチキ教祖であったりすれば、まだまだ人生は full of joy. ブレイクダンスで魅せるインチキ教祖であれば、なお可。

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