ぽつん
私はいつも、生きているこの私の正体をつきとめる、尻尾をつかむ、そのために文章を書く。
鏡を見ても、おなかの辺りをつねってみても、これが私だとちっとも実感できない。第一、このポンコツの肉体など、私のタマシイが死んでも、しばらくは未練がましくここに残るではないか。
そんなもの、この私であってたまるものか。
だから、ときどき搾乳みたいに、私が出せることばを絞り出す。
それが私の核心かどうかわからない。だが、少なくとも身体などより私らしい、気がする。
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私の書くものは、情報でも知識でもない。
もちろん、メッセージでも、ある明確な主義主張へのお誘いでもない。
では何か、と訊かれたら、私にもわかりません。
とりあえず、全タマシイにスマホと指を預けて、ただ無心に書いている。
夢中に書いたあと、私の公開履歴を、他の書き手のタイムラインと比べて、私はいつもフシギな心もちになる。
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この『フシギな心もち』は、とても幼いときから私に近しいものだ。
何をやってもなにかが違う。同じように振るまおうとしても、笑えるほどズレてしまう。
運動会のラジオ体操も、スケッチ大会の風景画も、私の best effort は必ず、どこか滑稽なものだった。
この滑稽さは、私がほぼ隙のない優等生を生きることと矛盾しなかった。だからこそ、かえって、どうにも「改善」の糸口がなかった。
そして不惑の中年に至り、書くことにもまた、そのころと似たような感想をもつ。
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私の認知の底にいつも、根深い疎外感があることは、そのような感想と無縁ではない。対人での過剰な距離感も、また同じだ。
どこに居ても(さんざんいろいろ試してはみた)、誰と居ても(さんざんいろいろ試してはみた)、私の核心はどうにもいたたまれず、『ぽつん』としている。
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かつて、
気づいたら朝から晩まで海辺に寝転び、気づいたら猛烈に坊さんの修行をし、気づいたら惚れ抜いた女を華麗にスルーして猛烈に後悔し、気づいたら仕事に没頭のあまり麻薬と眠薬で壊れかけ、気づいたらあちこちに議論を吹っかけて居づらくなり、ということがあった。
Best effort が「なぜか滑稽」だ。
幅広い交友、厚い友情、広範な人気、だがなぜか、いつも人並み外れて『ぽつん』としている。
とてもよい文章だ。
無論上手いのだが、その上手さを隠すほどの裂帛のタマシイ、何とも言えずよいのだ。
*
私のことではない。
坂口安吾。
いいですよ。
未読の方、出会いが悪かった方、ぜひ以下の3作を。
「堕落論」
「夜長姫と耳男」
「肝臓先生」
(リンク:いずれも青空文庫)
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