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ぽつん

私はいつも、生きているこの私の正体をつきとめる、尻尾をつかむ、そのために文章を書く。

鏡を見ても、おなかの辺りをつねってみても、これが私だとちっとも実感できない。第一、このポンコツの肉体など、私のタマシイが死んでも、しばらくは未練がましくここに残るではないか。

そんなもの、この私であってたまるものか。

だから、ときどき搾乳みたいに、私が出せることばを絞り出す。
それが私の核心かどうかわからない。だが、少なくとも身体などより私らしい、気がする。

*

私の書くものは、情報でも知識でもない。
もちろん、メッセージでも、ある明確な主義主張へのお誘いでもない。

では何か、と訊かれたら、私にもわかりません。

とりあえず、全タマシイにスマホと指を預けて、ただ無心に書いている。
夢中に書いたあと、私の公開履歴を、他の書き手のタイムラインと比べて、私はいつもフシギな心もちになる。

*

この『フシギな心もち』は、とても幼いときから私に近しいものだ。

何をやってもなにかが違う。同じように振るまおうとしても、笑えるほどズレてしまう。

運動会のラジオ体操も、スケッチ大会の風景画も、私の best effort は必ず、どこか滑稽なものだった。

この滑稽さは、私がほぼ隙のない優等生を生きることと矛盾しなかった。だからこそ、かえって、どうにも「改善」の糸口がなかった。

そして不惑の中年に至り、書くことにもまた、そのころと似たような感想をもつ。

*

私の認知の底にいつも、根深い疎外感があることは、そのような感想と無縁ではない。対人での過剰な距離感も、また同じだ。

どこに居ても(さんざんいろいろ試してはみた)、誰と居ても(さんざんいろいろ試してはみた)、私の核心はどうにもいたたまれず、『ぽつん』としている。

*

かつて、
気づいたら朝から晩まで海辺に寝転び、気づいたら猛烈に坊さんの修行をし、気づいたら惚れ抜いた女を華麗にスルーして猛烈に後悔し、気づいたら仕事に没頭のあまり麻薬と眠薬で壊れかけ、気づいたらあちこちに議論を吹っかけて居づらくなり、ということがあった。

Best effort が「なぜか滑稽」だ。
幅広い交友、厚い友情、広範な人気、だがなぜか、いつも人並み外れて『ぽつん』としている。

とてもよい文章だ。
無論上手いのだが、その上手さを隠すほどの裂帛のタマシイ、何とも言えずよいのだ。

*

私のことではない。

坂口安吾。
いいですよ。
未読の方、出会いが悪かった方、ぜひ以下の3作を。
堕落論
夜長姫と耳男
肝臓先生
(リンク:いずれも青空文庫)



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