見出し画像

だだだだーん

何もすることが無かった休みの日。家から電車で1時間の芸術大学で、無料の現代美術の展覧会がやっていることを知って行くことにした。そこはぼくが大学受験を失敗して浪人生だった時、翌年に受けようかと考えて資料を取り寄せていた大学の一つだった。結局ぼくは芸術大学をもう一度受けることはせずに外国語大学を受験して入学した。けれどその場所に行くと、当時を思い出して、今でもなんだか身近に感じてしまう。だだだだーん

家から大学の最寄駅まで電車を乗り継いで1時間、そこからスクールバスに乗ってさらに15分。山の斜面に沿うように建てられた校舎に着いた。年季を感じさせるコンクリートの棟の中で、一際目を引くガラス張りのモダンな建物を目指して急な坂を上る。そこが今回の展覧会の会場だ。坂道に並んでいる様々なイラストが描かれたサークル宣伝用の看板を見て、この中のどれかに自分が所属していたかもしれない未来を自然と想像してしまう。
ようやく到着し、3メートルぐらいある大きな自動ドアをくぐって建物の中に入ると、学生スタッフが5階の会場までの道順を教えてくれた。まるで美術館さながらの館内だ。展示室の入り口に到着し、スタッフからもらったマップを見る。今回の展覧会は4人の合同展示。ぼくは目当ての作家を最後にとっておき、他3人の作品を先に観て回ることにした。
ぼくが見たかったのは塩田千春という人の作品で、彼女は赤い糸を空間に張り巡らせ、観る人を作品の中に迷い込ませるような没入的なインスタレーション作品を多く作っている。今回は芸大生との共同制作で、展示室全体を埋め尽くすように垂れ下がった赤い糸に、学生達が「夢」について書いた文章を印刷したA4の紙が絡みついている作品だった。赤い糸で覆われた部屋に、大量の紙が浮いていて、それがうねる波のように見える光景は圧巻で、部屋に入るなり来てよかったと思った。無数に垂れ下がった赤い糸は、観る人が中を歩くことができる道のようになっている。

良さが写真では10分の1程度しか伝わらないのが残念

赤い糸でできた道を歩きながら紙に書かれた大学生の「夢」についての文章を読んでいると、その無数の紙の中に、自分が書いたかのような内容のものを見つけて驚いた。紙には、その人もぼくが受験した同じ芸術大学に落ちた後、浪人して再チャレンジしたけれどそれでもだめで、この学校に最終的に入学したこと。幼い頃からピクサーの映画が好きだったこと。たまたまテレビでピクサー本社についての番組を見て、「ここで働きたい!」と昔から絵を描き続けてきたことが綺麗な字で丁寧に綴られていた。受験して落ちた大学も同じ、絵が上手になりたいと思ったきっかけも同じで、たぶん年齢も同じ。それはまるで、外国語大学を選ばずに芸術大学に進学した世界線の自分の文章を読んでいるみたいで、しばらく眺め、何度も読み返した。
だだだだーん

半ば熱に浮かされたように展覧会を後にして、行こうと思っていた同じ建物の半地下にある、大学とは思えないほどオシャレなカフェで休憩することにした。マンゴーパッションスムージーを頼み、窓側の席に座った。青黒く光るコンクリートの壁に、たくさんの植物の緑とオレンジ色のライトがとてもマッチしている。そんな居心地の良さとスムージーの美味しさも相まって、もしぼくがここの学生だったなら通い詰めていただろうなと想像する。カバンを開け、外出する時にはいつも持ち歩いている読みかけの文庫本を取り出した。さっきの電車で中断したところから再開しようとしたけれど、眼が文字の上を滑って全く内容が頭に入ってこない。さっき読んだ文章のことをずっと考えてしまって、頭ここにあらずな状態だ。結局本を読み進めるのは諦めて、スムージーを飲み切ると外に出た。

カフェを出ると丁度12時で、食堂で学食を食べて帰ることにした。展覧会があった建物からさらに坂道を上り、大量の張り紙やペンキのしぶきで覆われた、いかにも美大な雰囲気の食堂に入って、日替わり定食を頼んだ。360円。安い。もう年末も近いのに窓の外には大きな画材や楽器を持った学生が歩いている。重そうに自分よりも大きなキャンバスを担いでいる人を見て、あれが自分だった世界もあったのかもしれないと思った。だだだだーん。そしたらこの食堂で今食べているのは日替わり定食じゃなくて、いつものお気に入りメニューだったかもしれないし、斜め前に座っているあの人は唯一無二の親友だったかもしれない。そしてさっきの「夢」についての文章の最後には自分の名前が書いてあったにちがいない。
さっきのカフェとは似ても似つかない、質素で冷たい椅子に座って、少し硬くなった唐揚げをかじりながら、運命について考えた。


運命。
運命という言葉にはどうしてもベートーヴェンが引っ付いてくる。
だだだだーん
「運命」というのは通称で、正式名称は交響曲第5番。この曲が運命と呼ばれだした由来は、有名な”だだだだーん”という音をベートーヴェンが「そのように運命は扉をたたく」と表現したからだ、という説もあるけれど本当のところはわかっていない。そしてこの「運命」という通称も、日本以外ではあまり使われていないらしい。けれどそんな由来さえも曖昧な通称が、こんなにもしっくりくる気がするのは、それがよほど的を得た表現だからなのかもしれない。(それとも先に運命という通称を知っていたからそう思うだけだろうか。)どちらにせよ、この曲の冒頭は強烈に記憶に残るものだし、”何かが決定的に決まってしまった”ような力強さを感じさせる。そして、だだだだーんというメロディーは、前に前に進み続け、後退は許さないような雰囲気を持っている。時間芸術と呼ばれる音楽自体が前に前に進んでいくものだけれど、この曲には自ら前に進むというよりも、後ろから何かに押されて無理やり前に進まされているような印象があって、そこが「運命」と呼ばれる由来なのかななんて考える。

時間に押されている感覚になったことはないだろうか?もう少しここに留まりたいのに、まだ先へ進む準備ができていないのに、そんな自分を時間が後ろから大きな手でぐいぐい前へ押してくる、そんな感覚に。
夏休み最後の日。初めて行ったユニバの閉演間際。中学受験の前夜。僕のことが分からなくなっていく祖母。明日のために嫌々眠る旅行の夜。終電。親友を見送るバスターミナル。
時間は無常にも僕らのを前へ前へとび続ける。
それに救われる日もたくさんあったけれど、「やめてほしいな」と思うときもたくさんある。まだ先に進まないでとどれだけ強く願っても、日は沈み、日付が変わる。時間は、人生は、一方通行だ。

僕は運命は過去にしかないと思っている。
いや”思っている”というよりも、そう信じている。もし未来にまで運命という一本道が引かれているなら、現在の自分は限りなく無力だ。そんな決定論的な世界の見方は、自由意志を否定する。酷く惨めだ。すでに引かれた道を辿るのはつまらなすぎるし、そもそも、知ってる道なら別にもう歩いていかなくてもいいのでは?と思う。

自分が望んだり好んだりするものは全て把握していて、それがどこで、どうやって手に入るのかもわかっていると思うなら正直なところ、私にはこれ以上生きる理由がない。本を読んでいるうちに、どのページにも似たようなことが出てくるようになり、しまいには同じことばかり書いてあるページが延々と続くようになれば、本を閉じるしかないではないか。

ジェニー・オデル「何もしない」

時間に無理やり前へ歩かされた僕らは、後ろを振り返った時に見える一本道を”運命”と呼ぶのだと思う。運命なんてものは常に後付けで、言ったもの勝ち。高校の歴史の先生が口癖で「歴史にifはないけれど」とよく言っていた。ifが無いのは歴史だけじゃない。
Ifはない。
「もし~していたら」はない。絶対に。
だからこそ現在の僕は悩む。何度も、何度も、何度も、何度も。この選択が、この時間が、自分の過去という一本道に、一生焼き付くものになると分かっているから。



だだだだーん

時に心地よく、時に耳障りなこの音。
これは現在が僕に刻み込まれる音だ。

タイプライターが、真っ白だった紙にインクを付けて先へ先へと進んでいく。同じスピードで紙は繰り出され、一度ついたインクはもう落ちない。一つ一つはたいした意味をなさないインクの染み。けれどふと、知らぬ間に長く伸びていた紙をざっと見返すと、思いのほかよくできた物語になっている。誤字脱字、ありふれた展開には目を瞑るしかない。Ifはないのだから。

声を張り上げ 肩を震わせ
眼を見開いて赤い血をたぎらせて
生々しく書き上げていく
自分だけの生き方を
夢なんて見なけりゃ苦しまない
それでもこうしてもがいて行くしか無い
あの日踏み外したレールの向こう側に
刻みつけるこの轍

Creepy Nuts×菅田将暉「サントラ」


気が付くと唐揚げは無くなっていて、グラスの水を飲み干すと、トレイを返却台に戻し外に出た。山の上は風が強い。身体を包むように吹く風が体の熱を奪っていった。

風が吹く。日が暮れる。日付が変わり、日が昇る。
そのくりかえし。
風が吹く。日が暮れる。日付が変わり、日が昇る。
そのくりかえし。
そのくりかえし。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?