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神田さん

電車に乗って出かけるわけでもないのに、
駅に行っては去りゆく電車を見送るのが好きな女がいた。
その電車には、今から出征する自分の許嫁が乗っていて、
いつまでもこちらを見て涙を堪えている、
と想像するのがたまらなく良いのだという。
電車にはそういった利点があるとその女は語った。

というのは、その女が、たまにやっている暇つぶし、
「神田さんごっこ」に、わたしが巻き込まれたからだ。
女は街を彷徨い歩きながら、手頃な相手を見つけては、
「神田さんですか?」と話しかけるのだ。
相手は黙って首を振るか、親切に間違いを指摘するかしてくれるのだが、
ごく稀に好奇心から事情を聞いてくる者がいる。
それがわたしだ。
だから、女がこれはゲームなのだと教えてくれるまで、束の間、
わたしは神田というわたしによく似た人間についてあれこれ考えを巡らせてしまった。
こんなことをしていると、危ない目に遭いますよ。
とわたしが忠告すると、女はふふんと笑って、こんな話をしてくれた。

女の母は若くして気を病んでいた。
女が産まれる前から幻覚に悩まされていて、
産んだあとは檻のある病院に収容され、
女が十八になるまでそこで暮らした。
そして女と二年間、初めての親子生活を送ったあと、
盗んだパトカーで警察署に突っ込むという、
何かのことわざになりそうな事故を起こして亡くなった。
だけど、最後の2年間、女はすべての夢がかなったんだ、と言った。

そして女はまた、「神田さんごっこ」をするため、
駅に行こうとわたしを誘った。
駅では戦争に行く恋人を見送るんじゃないの、とわたしが揶揄して言うと、
今日は彼が戦争から戻って来る日なのだという。
やれやれ。
わたしは悪い癖のある女にほとほと呆れながらついて行った。
電車が1番線に入ってくる。
ふきすさぶ突風に逆らうように、女は白線から一歩踏み出す。
待ちわびた約束の日、というところか。
軋むような音を立てて、電車が停まり、大きなため息を車体から吐く。
一拍間を置いて、自動ドアが開(ひら)くと、
最初に出てきた学生服の青年に、女が小走りに近づいて、
二人の間に一瞬の沈黙があった。
そして女の、「神田さんですか」の問いに、
「そうだよ。長い間待たせたね。」とにっこり笑う学生服の青年。
呆気にとられるわたしを尻目に、
ふたりは小指をつないで街の喧騒へと消えていった。

そうか、すべての夢は叶うんだった。

おしまい

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