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ベロニカの雨

明るかった午後の空は、厚い雨雲に覆われて、
早足に歩くベロニカの灰色の瞳の中を流れてゆく。
胸騒ぎがした。

家では、父と母と三人の姉たちが、
ベロニカの持ち帰るウォッカの酒瓶を待ち侘びている。
途中で案の定、雨が土砂降りになった。
ベロニカが家の前までとぼとぼ歩いていくと、
そこには大きな宮殿がそびえ立っていた。

不思議に思ったベロニカが、
コンコンと玄関の扉をノックすると、
召使が2人、にっこり笑って出迎えてくれた。
中では、百人の踊り子たちが艶かしいダンスをして
父の視線を釘付けにしている。
台所はどこですか、とベロニカが訊ねると、
そのようなところにあなた様が立たれる必要はございません、と言われた。
見ると、広間では仔豚の丸焼きを母が幸せそうに頬張っている。

ベロニカは、服を着替えたいんだけど、と召使に言った。
召使は得意げに奥のクローゼットを開いて、
どれでもお気に召すものを、と恭しくお辞儀した。
ベロニカは絹のドレスを手に取った。
こんな繊細な生地の服は初めてだ。
すると、奥から上機嫌の姉たちが現れて、
抱えきれないほどのドレスと宝石を、鏡の前で取っ替え引っ替え。
まるでお姫様気取りだ。

ベロニカは、買ってきたウォッカの瓶の置き場に困ったので、
屋敷で一番高そうなウッドチェストの引き出しにそっとそれをしまっておいた。

そのとき、玄関のチャイムが鳴って、ベロニカが呼ばれた。
そこには、かつての恋人が、花を一輪持って恥ずかしそうに立っていた。
ふたりは、三年ぶりに可愛らしい控えめなキスをして、
しっかりと手を繋ぐと、雨の中を飛び出していった。

あれから何年もの年月(としつき)が流れたが、
ベロニカが故郷に帰ろうと思ったことはただの一度もない。
あの日、空が七色に光って、太陽も顔を覗かせているのに、
雨は降り止むことなく彼女の住む谷を襲い、とことんまで打撃を与えた。
父も母も姉たちも、きっと虹の彼方に消えてしまったのだ。

しかし、そう思うベロニカの心の一番奥の引き出しには、
あの日のウォッカの酒瓶が1本ちゃんととってあって、
悲しい飲んだくれが独り棲みついている。
それを誰かが知れば、降りしきる雨がまたやって来ないとも限らないので、
ベロニカはその引き出しをしっかりと閉じて、恋人にも明かさない。

涙というのは洪水さえ起こして、街ごとごっそり流してしまうのだから。

おしまい

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