メモリアル・キス

2023年6月14日 17:16

息も出来ないくらい奥深く入り込むことなんて、
ダメなんだって思ってた。
そんなの危険だし、汚いし、破廉恥だよ。
そう、こころのブレーキをかけてきた。
ずっと、鍵をかけて、あなたを封印してきた。
還っておいで、わたしの記憶たち。

その日、２番目の客を軽くあしらってから、
またイソジンで丁寧にうがいをした。
次の客が入ってくるまでのおよそ３０分間。
わたしはテーブルに常備されている青リンゴのガムを噛んで、
その強い薬の味を消し、
また香りのきつい安物の香水をふる。
まぶたを閉じて、次に見開いたら、
そこは真っ暗なエレベーターの中で、
逆光に立つ男が入ってきたとたん、
わたしは口を開いて男の舌を迎え入れる。
かぶりつく、と言ったほうが、正しいのかもしれない。
流れ来る男の唾液を押し返すように、
舌を上手く使って欲情をそそる。
それが、わたしの仕事の最初の儀式だ。
「また来てね、絶対よ。」
目と鼻と口がある、髪の薄い影の薄い男。
とだけ、覚えておく。
封筒に入ったお金を無関心に眺めながら、
カバンにそっとしのばせると、
夜の川沿いをうねるように歩いた。
長い長い時間、そうやって歩いていると、
さっきまでの過剰な熱が筋を引いて流れ出るような、
そんな錯覚を起こす。
わたしの後ろを、その流れ出た熱だけが、
蛇のように跡をつけて、耳元でささやく。
「知ってるよ、おまえがなにをしているか。」
わたしは素知らぬ顔で、
その記憶すら身体から切り離すことができる。
さようなら、あの日の悪い子はわたし。

あれは、月だけが煌々と明るい寒い夜だった。
バイト先の店長に誘われて車に乗りこむと、
彼は即座にわたしに覆い被さってきた。
「いやか」
と、言った彼の言葉に、わたしはなにも返せなかった。
何を言っても嘘になるから。
わたしはこういうとき、返事をすることができない。
自分の中に何の欲求もないことを知っているから。
本来、男と女の間に備わっているはずの磁石が
欠けているのだ。
みんなが、皆、惹かれ合ったり退け合ったりしている中、
わたしは木片のように居場所をなくしている気がした。
べつにいっか。
ノーと言わない限り、それはイエスなんだな。
そんなことで頭をいっぱいにして、
ねっとりとした彼の舌が唇を這う感触を、
悦ぶふりをしてごまかした。
彼はその最中、ずっとわたしを褒めてくれる。
学校の先生みたいに、褒めてくれるのが上手だな。
ああそうだ、学校の先生に恋したこともあったっけ。
だったら、わたしもこの男を…？
胸にのしかかる男の頭の重みだけ、
愛してるふりをして滅茶苦茶に抱きしめた。
バタン、とドアが閉まる音で、我に返ると、
わたしはただ体(てい)よく遊ばれたんだなって、理解して
なんとなく、厭(いや)だったか、厭(いや)じゃなかったかを考えて
今夜も眠れそうにない。
闇の中を見透かすように目をすがめると、
「ねえ、おねえさん、どこにいくの」
怒りという感情がしがみついてくる。
だからわたしは急いで大きな箱を用意して、
あふれ出す感情をそれにぎゅうっと閉じ込め、
乱暴に蓋をした。
さようなら、二十歳(にじゅっさい)のわたし。

「キスの味って知ってる？」
「知ってる知ってる檸檬の味なんでしょ？」
そんな囁(ささや)きを聞いたのは、
重いスカートでつま先立ちしてた女子トイレの中。
鏡に向かって、前髪をいじっている友達を、
後ろから羨望の眼差しで見つめていた。
そんな日々のある放課後、わたしは一人の男の子に
呼び出されていた。
だれもいない、放送室に。
胸が高鳴って、じっとしていられなかった。
悪口と噂話でムシムシする女の子の群れをすり抜けて、
わたしは廊下へと飛び出す。
たたたたっと、階段を軽々と登っていくわたしは、
たしかになにかが昨日とは違っていた。
今日起きることは、幸せなことなんだって、
思い込んでいた。
コンコンとノックをすると、放送室の重いドアが開く。
あれ、この子、こんなに背が高かったかしら。
そんなことに今更ながら気がづいて、
目を見ることが出来ない。
「しよ」
そう言った彼は、なんだかいつもの彼じゃなくて、
少し怖かった。
だけど、どんどん目の前に迫ってくるものだから、
わたしはぎゅっと目を閉じてそこを飛び出した。
かのように思ったのは気のせいで、
わたしは気づけば彼の腕の中にいた。
他人が脈打つ音が聞こえてくる。
ああ、この人の中身はちゃんと男なんだ。
わたしとは違う種類だけど、人間なんだよね。
そんなことを考えていると、男ってそもそも
なんなのって思い至った。
あれ…なんだっけ。
なんかすごい素敵で美しいものだって思い込んでたから、
じゃあこの胸に湧き出す劣情はなんなのって、
びっくりした。
疚(やま)しさと悦びがひしめき合って、
やっぱり疚しさの方が勝ってしまう。
身体を堅く堅く閉じているはずなのに、
劣情がそれを無理矢理押し開けて
入り込んでくる。
キスって、痺れるような痛みが走るんだ。
なんの味もしなかったけれど、その痛みだけ
そっと隠し持って、わたしは放送室を後にした。
「ねえ、なんでやめてって言わなかったの」
恐怖心が声をかけてくるけれど、言えるわけない。
だってあの背徳感はくせになりそうなんだもの。
こっそりマイクのスイッチをオンにしてきたあの子の手が、
忘れられない。
声にもできない悦びってあるんだね。
エロスの顔を初めて見たのは、小学校６年生のわたし。

そして、記憶の断片をかき集めるのは、母の隣を歩くわたし。
母親がすぐ隣を歩いているというのに、
春を売っていたり、隠れて玩具(おもちゃ)にされたり、
初めて女の悦びを感じた瞬間に思いを馳せている恐怖。
背筋がぞくぞくする。
母には絶対に知られたくない記憶ばかりだ。
だけどね、お母さん。
お母さんとわたしの秘密をわたしは知ってるよ。
あのときから、わたし、片時も忘れていない。
母の接吻が降りてくる記憶。
母と濃厚な口づけを交わしていた記憶。

わたしは母の不幸な姿ばかり見て育った。
母に似るのが怖かった。
わたしから見た母は、いつも眉根を寄せていて、
女の悩みという悩みをすべて抱え込んだような、
それでいて、その自覚がないという、
同級生にいたら、ちょっといじめたくなるような人だった。
母の背は１５０センチしかなく、
父は１８０センチあったので、
中学生のときに背が１６０センチを超えたわたしは、
ちょっと安堵(あんど)した覚えがある。
「お父さん似だね」
そういわれるたび、わたしはほっとするのだった。
だが、父に似たかったというよりは、
母に絶対に似たくなかった、というほうが真実に近い。
母は、結婚してなお、猛烈な片思いをしている乙女のようだった。
片恋(かたこい)に身を焦しながら、子育てが出来るのだろうか。
男しか見ていないようで、なにより、男を見る目がない。
それが母の特徴だったように思う。

父はとにかく、酒を飲む人だった。
それも、いい酒ならまだしも、悪い酒をする人だった。
酔って暴れるのはもちろん、酔って粗相をしたうえ、
道端に捨て置かれるような、とんでもない人だった。
そんな父を選んだことを、わたしが物心つく頃には
後悔し始めている母がいた。
でも、田舎のせまい集落の中で、
親の反対を押し切って結婚した手前、
離婚を切り出すこともできない。
シングルマザーなんて言葉がまだ浸透していない、
そして、そんな母子に生きる道を指し示してくれる
情報も届かないようなところに住んでいた。
母のように、男に左右されるような人生は歩みたくなかった。
大きくなったらお嫁さんになるの、
とのたまう姉を心の隅っこで馬鹿にしながら、
自分は自立した道を生きていくんだと決心していた。

幼い頃の記憶についての考察。
涙についての考察。
母が夜ごと、全神経を酷使して病んでいた記憶。
その悲痛な姿を前に、自分がいかに無力であるかを知る。
二、三の慰めの言葉以外に、自分から何も出てこない。
涙以外は。
わたしはそこにいて、全身全霊で他人の感情に支配されていた。
悲しみ、不安、恐れ、慄(おのの)き。
母の感情がわたしに押し寄せ、染み渡り、犯していく感覚。
わたしはそこにいなかった。
痛いか、つらいか、悲しいか。
そのすべては『わたし』のものではなく、母のものだった。
他人のあまりに強い感情は、時として自分を押しやって
わたしを犯していく。
『わたし』は悲しいのか、『わたし』は痛いのか、
自分自身が見えなかった。
いや、見えないのではない。
それを見ようとする行為を失ってしまう。
わたしはその行為に、涙を流してみたかった。

いい子でいよう。いい子でいよう。
わたしは邪魔にならないように、いい子でいよう。
いい子にしていると、母は必ず泣きはらした目をして
眠る前のわたしのベッドへやってくる。
「おやすみなさい」
そう言って口づけされたわたしは
心底うれしくて母にしがみつく。
母は微笑みながら、わたしをきつく抱く。
母が笑ってくれた。
それがただただうれしくて、わたしは口づけを繰り返す。
母もそれに応えて口づけをやめなかった。

そう。やめなかった。やめなかったから。
わたし、もっと母に近づきたい、って思ったんだ。
もっと、もっと、多くを求めたんだ。
だからちょっとだけ舐めた。
母の味を舐めた。
そしたらもう止まらなかった。
わたしは母の中に突然に押し入って、
息も出来ないくらい奥深く入り込んで、
母を味わい尽くした。
ブレーキなんてかける必要ある？
純粋に一体になりたいと願う人間が発明した行為。
それがキスだったんだって知った。
頭の中は母に叱られるんじゃないかって怯えと、
母に拒絶されるんじゃないかって恐怖と、
ああ、これでやっとわたしも
母と同じモノになるんだって安堵がいっしょくたになって、
陶然(とうぜん)としていた。
子供のいたずらくらいにしか捉えていない母は、
わたしの中で、ちょっとだけ蠢(うごめ)いた。
キスって何かのしるしや、挨拶の儀式じゃなかったんだ。
そんなことを思い知って、涙ぐんだのは、わたしだけの秘密。

それ以来、母と口づけを交わした思い出はない。
女同士だし、親子だし、当たり前かって思うかもしれないけれど、
わたしが経験してきたすべてのキスのうちで、
一番心を満たしてくれたのは、
お母さん、あなたのキスなんだよ。
母の隣を歩きながら、
わたしは枯れ木のような身体をしげしげと見つめる。
いずれ来る、未来を見ているんだな。
わたしは、母の子どもなんだな。
母の業を受け継ぐ子なんだな。
ようやく納得がいったのは、
わたしが逆境を生き抜いたからだ。
ああ、この不幸な女の人生も、あの不幸な女の人生も、
同じ道の続きにあるんだな。
そう思うと、母の手をちょっとだけ強く握りしめた。
燃えるような夕焼けに羊雲が浮かびでて、暮れる季節の訪れを知る。

「お母さん、わたしはここよ。」

終

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