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【百人一首鑑賞】大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立 小式部内侍

【百人一首鑑賞】大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立 小式部内侍


■大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立 小式部内侍

(詠んで味わう)おおえやま いくののみちのとおければ まだふみもみず あまのはしだて

百人一首60番目の和歌。私が百人一首で【イチオシ】する和歌です。
好きとか嫌いではなく【イチオシ】です。

クレバーで、嫌みがなく、すっきりとした空気を味わえる和歌。また、

・小式部内侍の母娘関係、
・和歌のライバル関係、

この和歌の背景に見え隠れする人間関係をしれば
より一層この和歌のドラマ性が際立って胸に迫ってきます。
よくよく味わいましょう!

■現代後訳
母のいる丹後の国ははるか山々の彼方。大江山、生野の道、
そしてまた天の橋立、私はまだその地を踏みもせず、母の文も見ておりませんの  田辺聖子著「田辺聖子の百人一首より」

■語句解説
大江山
ふみもみず・・・「踏み」と「文」二重の言葉の意味を重ねている
すなわち、「行ったことがない」「手紙も見ていない(届いていない)」ということ


和歌の向こうに見え隠れする母娘関係

小式部内侍はなんとの『和泉式部』のお嬢様。
和泉式部というと、恋の百貨店といっても遜色のないくらい
恋多き女。最初の結婚は橘道真。このときに小式部内侍をもうけている。 ※彼女の百人一首もまた後日。。。とりあげたいと思います。

ところがその後は
・(夫が居ながら)為尊親王と恋愛→離婚され→為尊親王も逝去
・為尊親王の弟敦道親王と恋愛→敦道親王も逝去
・その後宮廷でお仕え。
イマここ➤・藤原保昌と再婚して夫に付きしたがって大和・丹後へ赴任


と、おおざっぱですがこちらが彼女の人生となります。
小式部内侍がこの和歌を作ったというのは、母親が夫とともに
丹後に赴任いしいるときでした。

母娘ともに和歌の才能にあふれていたようで、
娘の小式部の和歌を詠めば、「尊敬の念」がそこはかとなく感じられます。

とはいえ、現代風にいえば、恋多き母親=毒母
ともいえるでしょうか。相当複雑な思いを持って小式部は
育ったのではないかと思います。


さて、小式部内侍自身の人生はというと

・藤原教通の愛人に→子供ができる→別れる
・滋井頭中将の愛人に→子供を産んだ時に逝去

二十台半ばで亡くなったそうです。

母と歩んだ人生と似たような道を歩んだのかもしれません。
しかし、母を残しての天国への旅立ちは和泉式部を深い悲しみに沈めさせたと言います。

和歌のライバル関係

皆様も古文の授業やテストで一度読んだことがあるのでは?
「金葉集」でのお話。


都で歌合せがあり小式部内侍も歌人の一人に選ばれていました。
しかし、そこへ藤原定頼という殿御が、小式部内侍に「いけず」を言ってきます。

「あなたの歌は丹後にいるお母さまが作っているのでしょう
お母さまから連絡はありましたか?(和歌は手紙でとどきましたか?)」

普通ならばここで「キレる」ますよね(笑)
クレバーな小式部内侍は得意の和歌をもって仕返ししたのでした。
その時の和歌が「大江山・・・」なのですね。

とっさに返礼された和歌。さすがの定頼も「まいりました!」と。それにしても、1000年前にも女子にいけずする殿御はいらっしゃたのですね。男性は進化してないのでは??ねぇ(笑)


なお、定頼は実は小式部のことが気になっていた、という可能性もありますよね。平安も令和も人の根本は変わらず。。。です。


★参考:大江山ってどんなところ?
大江山観光ページ

福知山観光協会 ドッコイセ観光ガイド

→大江山。酒呑童子で有名な。大江山つながりで和歌をみるのも楽しそうですね。


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