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【俳句鑑賞】生きかはり死にかはりして打つ田かな 鬼城

季語は「打つ田」。田んぼの土を掘り起こして柔らかくし、田植えに備える準備のことで春の季語を指す。かつては重労働だった。

作者、村上鬼城(むらかみきじょう)。

江戸時代が終わるころから昭和の初め頃までに生きた俳人。江戸に生を受けたが人生の大半を群馬県高崎市で過ごした。法律を学び司法代書人で生計をたてていたが、絶えず経済的に困窮していたという。

また、鬼城は耳が不自由だったことも書き添えておく。不遇な自分の人生をうらんだのか、鬼城の作品の対象は弱いものにむけられているものが多い。


「生きかはり死にかはり」輪廻を見事に表現

高崎の暮らしでは、自分自身で田も耕していたのだろうか。当時重労働である田打ち。この大変な作業はいつまでやるんだろうか。もしかしたら、仮に命が絶え、来世で生まれ変わってもまた自分は田を打っているのか。

違う観点でもとれる。生まれ変わっても田を打っている人間の誇らしさにもとれるのだ。

まだまだとれる。過去世でも田を打つ百姓の営みを送ってきて、今生でもまた土と戯れている。自分という人間は今生しか生きていないけど、目の前の田畑は過去に関わる人間が作り上げたもの。もしかしたらその中に過去世の自分もいたのかもしれない。

鬼城が不遇であったからと言って、句までを不遇の世界観に染めるのはおもしろくない。この句のようにいろんな意味にとれる俳句こそ、私はホノモノだと思っている。

現代のサラリーマンにも通じるのでは?

仮に、この句を不遇の世界観でとったとして、現代人にも通じるところが大いに見て取れる。電車通勤をしている自分。もしかして生まれ変わってもまた一生懸命会社に通っている自分になるのかな、と。

人の一日は一生はだいたいにおいてサイクルだ。それは幸せでもあり不幸でもあると私は考えている。そんな悩める現代人にも優しく包んでくれる俳句であると私は感じる。

打つ田より風が生まれし山の間 masajyo


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