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日本の外地統治は、欧米の植民地主義と根本的に違ったのは何故か?

ブラジルが植民地だった時代には、染料や砂金、ダイヤモンドや砂糖など、全ての産物は宗主国ポルトガルに運ばれていたように、西洋列強の植民地主義というものは、産物や資源を宗主国に運ぶという「経済的利益」のためのものでした。

しかし日本の外地統治の目的は、主には「国防」のためでしたので、そこに根本的・本質的な違いがあり、植民地ではなく、「外地」「保護国(日韓併合)」「満洲国建国」と呼んでいました。

戦前の日本が統治していた外地には、台湾、朝鮮、満洲国、樺太、南洋諸島(パラオ、ミクロネシア等)がありました。

朝鮮では、朝鮮による告げ口外交で清の大軍が半島に居座ったため「日清戦争」が起き、事大主義の朝鮮がその後ロシアと手を結ぼうとして「日露戦争」が起き、日本がそれら国々に勝利すると、今度は日本にすり寄ってきました。

そこで日本としては、早く朝鮮を清から独立させて近代化し、しっかりした日本の防波堤にしなければ兵員の損失に耐えられない……と考え「日韓併合」に至りました。

<日本帝国主義は朝鮮から富を奪った>と韓国では教えているそうですが、日帝は朝鮮に早く強力な味方になってもらうため、毎年国家予算の5%を朝鮮に注ぎ込み続けたそうです。

武田信玄の「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」の教え通り、新しく日本国民になった朝鮮人に対して内地から米を運び、農業技術を教え、食糧増産に取り組み、不衛生な飲み水の改善、迷信から医療へ、京城医専、同付属病院の設立を皮切りに公済病院を設立し、救らい(ハンセン病)事業としては昭和初期に小鹿島更正園を建てた記録が残っています。

その結果、日本統治35年間においては、朝鮮人の平均寿命が25歳から45歳まで伸び、人口も950万から2500万と倍以上に増えたと記録されており、これを知った中国人は、日本が満洲を統治し始めたとたんに満洲へなだれ込んで行ったそうです。

日本による台湾、朝鮮併合や満洲建国は、欧米の植民地主義とは根本的に違うのだ、という点をご理解いただきたいと思います。

「日本はヨーロッパから鉄砲や船などの製造技術や、郵便や銀行などのインフラなど、あらゆるものを学んだが、植民地の経営方法だけは学ばなかった。」

【今日の名言】
「樺太に命をすてし たおやめの 心を思へば胸せまりくる」
昭和天皇
「樺太に露と消えたる乙女らの みたまやすかれとただ祈るなり」
 香淳皇后


ソ連軍はポツダム宣言受諾後の1945年8月20日、樺太の真岡電信局を攻撃。局員の殉職者は19人に上り、その内の交換手だった若い女性9名は集団服毒自決を遂げた。彼女たちは公務殉職者として靖国に合祀された。

【今日の名言 もう一つ】
「平凡な事、何でもないことに感謝するには修行が必要です。」


※編集協力
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