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自分史⑩妻と私のテレパシーゼロ

今までの経験が今を作っている。
経験だけじゃない。

出会った人も十数年あっていなくても 今の自分の戦いを応援してくれる。

そんなつもりはなかったけど、その時々で自分が誠実であったからこそではないかと過去の自分に感謝している。

「嫌われる勇気」等にもあるが、決して過去は変えられない。

だから過去にしがみついたり、過去を引きずっても仕方ないが
私の実感として一つ確実に言えることは
過去は変えられないが過去の意味は変えられる」。

善い行いもすさんだ経験もすべて今の価値に変えられる。
その経験値があるから対話できる人も確実にいるんだ。

自分の得てきた最高の経験も不幸そのものだと感じた経験も
今の私にとっては宝の経験なんだ。

壁の隙間から星を眺める

結婚のあいさつと同時に妊娠が発覚し、それと同時にはらむ嫁を東京に残して仙台に来た。

結婚式の準備もそこそこに、残りは嫁任せ。

一言でいうとそうなるのだが、東京での通勤など都内の人なら想像できるだろうが、あの中に身重の女性が巻き込まれると考えると心が痛い。

彼女は仕事をつづけながら、結婚式の準備にもあたってくれた。

たいして昔でもないが、当時はそんな想像もできなかった。
結婚式の準備も音楽以外はさほど興味もなかったので彼女に任せ。

聞けば、電車でめまいがして倒れたこともあったようだった。
そんな積み重ねで少しづつ学ばせてもらったが、当時の自分を殴ってやりたい。

ただこちらも自分の選択とは言えど、相変わらずまともではなかった。

仙台で父親と兄と事務所兼住居としての賃貸住宅はなかなかの仕上がりで、兄と共にした寝室は壁の隙間から星が見えるほど亀裂が入り、冷気を通した。

仕事は昔からやっていた空調設備。
関西と少し仕様が違う程度でさほど難しくはなかったが、かけらも面白いとは思わなかった。

仙台での仕事の話は特に覚えてもないし、どうでもいいので割愛する。

先に結論だけ言うと、どうやら父は一つの会社として成り立たせてそれを私にそれを続けてもらう形を望んでいたようだったが、手伝いに来たつもりではあるがそれを生業にするつもりはなかった。

それを伝えるとすぐに撤退の話になった。

パニックなのは出資した物流会社だった。
数百万といえど、それなりのことを期待していたその会社はしょうがないでは済ましてはくれなかった。

出資だから気にする必要はない とのことだったが雇われていた兄はそうはいかなかった。僕も巻き添えになった。

結婚式という刹那

相変わらず、時間の前後が思い出せないが結婚式を挙げたのは6月30日。
まだ仙台にいたころだったと思う。

式・披露宴を行ったのは東京の赤坂。

金なんかほとんどなかったけど調べる限り、そこが最安だった。

なんの緊張感もなく、臨んだ結婚式だった。
安いといえど、式の音響が嫁の入場の音楽を間違えたのは絶対に忘れないが、めでたい席でことを荒げるのを嫁が一番嫌うからクレームはのみこんだ。

あまりお金がなくて、お色直しの衣装は用意できなかった。
それでもアパレルに強い義姉が同じドレスのまま、工夫して雰囲気を変えてくれたのでうれしかった。

そうそう、サプライズプロポーズをしてことを忘れていた。
友達の家でドッキリを仕込んで恥ずかしかったのか小声でプロポーズした。

婚約指輪はおしゃれな雑貨屋で買った。安いけど 個人的にはこれ以上ないと思えるほど気に入っていた。

結婚指輪は買ってない。今もお互いつけてない。
お互い飾り物に興味がなかった。

自分はともかくこれはほんとに強がりではないと信じてる。
意味を感じないのだ。別にほしけりゃ買えばいいし。

結婚式の時、妊娠6か月程度だった。
今もそうだけど 嫁は心から幸せそうだった。だから、僕も幸せだった。

最後のあいさつで僕は誓った。

「お金がないのに意地を張って幸せだなんて言いたくない。絶対に自他ともに認める幸せな家庭を作る」と。

今も相変わらず大金は持ってないけど、たぶんこれ以上ないくらい幸せの形を築けている。

人からどう見られてるかに関しては今は完全にどうでもいい。
金は後からついてくる。そんな生き方をしてるから心配もしてない。

ただその幸せの99%は嫁のおかげだ。感謝しかない。

かけらも想像できなかった現実

仙台からの撤退と同時に地元滋賀に戻ると強制的に物流会社入れられた。

出資の肩代わりに大型ドライバーとして働くことを余儀なくされた。
もちろん免許も取らされ、一週間の研修でいきなり独り立ちさせられた。

ダイハツに下請けだったその物流会社で当時はみんな同じだと思っていたが、私にあてがわれたコースはその会社で誰もやりたがらない難しいものだった。

トヨタ系列はジャストインタイム制という在庫を倉庫に持たずに、必要なタイミングで持ってきてもらうというダイハツに都合がいいだけのシステムで5分遅れただけで製造レーンが止まるので数千万の損失が起こる と散々脅されていたので毎日気が気ではなかった。

その緊張感と大型ドライバーという輩ばっかりの世界で吐き気が止まらないほど当初は嫌な仕事だった。

ただ、独り立ちにしたその日から月収がいきなり35万を超えたので、今では最悪トラックの乗れば飯は食えるなー と気楽に構えている。

仕事内容以上に苦しかったのは 自分の人生に続きがなかったことだ。

イギリスやカンボジアを経て、まかり間違って大型トラックのドライバー。
別に学歴があるわけではないけど、海外で5年の経験もはかなく父親の借金を返しながら、変化も楽しみもないドライバーで人生を使うのは子供がいるとはいえ、絶対に耐えられなかった。

「みんなそうしてる、それが親の務めだ、当たり前だ。」

そんな声が聞こえてきそうだけど、幸せそうな人が周りにいなかった。

ただ子供をいいわけにして自分の人生をあきらめるような真似は死んでもしたくはなかった

人生を楽しめない親の子が人生を楽しめるわけないんだ。

うちの親父はめちゃくちゃだったけど、挑戦を重ね、幸せだった。

だから何かやりたかったが教育事業もあきらめ、大型ドライバーからの続きが何も思い浮かばなかった。

そんなこんなで子供が生まれながら、もんもんとしていたときに友人から人生を変える一つのメッセージが届いた。

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続く。。

次は長男の誕生から。





ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。