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39話-CARPE DIEM

私は一度仙台に戻りHALEOを辞める意図を伝えに行った。

結局1年で退職してしまったが、こんな自分を受け入れてくれた社長には今も感謝している。

私が東京に行くと言う真意を伝えた時も社長は

「時間は一人一人同じようにあるから、マサは自分が信じた道を行くべきだ。」

と背中を押してくれた。

國井にも東京に行く事を伝えると、ヤツはやっぱりいつもの高くもなく低くもないテンションだったが、

「俺も東京行きてー」

とか言っていて、その1年後、自分の力で本当に上京してきた。

未だに友達と呼べるヤツは彼ぐらいだ。

私は1年間世話になったHALEOを退社し、東京に越して来た。

最初に住んだのは、先輩の強さんとのルームシェアから始まった。

場所は六本木だった。

いきなり東京のど真ん中に来たなと思い、どんな家が待っているのか期待したが、待ち受けていたのは麻布警察署の裏にある、裏通りの更に裏にあった。

映画に出てきそうなボロいアパートだった。

なぜかそのアパートには強さん以外の日本人は住んでいなかった。

しかしそのアパートの生活は意外と快適だった。

いつもそこから青山に自転車で行き、最初は顔見せ程度でたまにクラスをやるぐらいの仕事だったが毎日、寝る時以外はいつも道場にいた。

石川さんと強さんとの仕事が始まり、基本は強さんに教えてもらった。

そして、石川さんのクラスを見て、インストラクションを勉強した。

私のインストラクションはまだまだアマチュアに毛が生えた程度だと、2人のクラスを見て感じた。

教える技の細かさはあったと思うが、それ以上に周りによく目を配り付いていけてない人への配慮が的確だった。

石川さんは常々言っていた。

「俺たちは教える事が仕事だ。試合でどんなに勝っても飯は食えない。」

ある日、石川さんが突然トライフォースを離れると言い出した。

私が来て間もない時だった。

石川さんはトライフォース麹町から青山までやってきたが、ついに自分のやりたい事を実現するためにトライフォースから離れる決断をした。

名前は次の日「CARPE DIEM」になった。

「カルぺディエム?」

読めなかった…


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