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坂口恭平を通して 〜医者にかからないこと

便利になるにつれ、自身の生の一部だったものは自身から離れていく。誰かにより、システムにより管理され、代行される。


医者には俺はかからないという主旨のことを坂口恭平がTwitterで言っていた。どういう意図で発言したかわからない。それは一見とんでもにみえる発言だが、十全に生きるということとして考えると興味深い。自己を放棄するように、身体にまつわる事を医者に任せてきたのではないか?そんな風に問われてる気がした。それは単純化するならこんな感じである。
 
治してよ。

腹壊してたけど、キムチ旨そうでつまんじゃって、そしたら焼肉くいたくなっちゃって、ビールのんで、締めにラーメンくって、腹だして寝たら体調悪くなっちゃってさ(ま、ここまではなくもないか…な?)
ね、だから治してよ。         
え?できない?ふざけんな!あんたプロでしょ!?
とこんな感じだろうか。

そこには故障したら身体を直せばいいという機械のような捉え方と、身体という機械は複雑だから自分ではなおせない、また身体について考えるのはめんどくさいから治してよと言うような、生を引き受けるのでなく、生を始めから放棄してしまっているような姿があるように思う。

個人的には、医者にまかせるのでもなく、任せないでもない態度を大事にすることかなと思っている。

どういうことだろうか。

例えば子供の時は絵を描いていたが、ある時を境に描くのをやめた人がいるとする。絵はうまくならないし、元々センスもないと思った。上手い子がいっぱいるのもしった。だからもはや描く意味を感じない。絵の世界は絵描きに任せよう。私は見る側であり、あちらは描く側。そしていつしか描くのをやめた。
まぁ、ありそうな話である。      
では、次の例。料理。料理をする。特段上手でない。ムラがあり目分量はやめろと言われる。その一方プロといわれる人達がいる。食堂レベルから一流ホテルまであるがそれぞれの美味しさがある。わたしはどうしたって劣る。だからプロに任せることにした。私は食べる側であり、あちらは作る側。

といって、、料理しなくなる人はいないのではないだろうか。(せいぜい得意な家族の誰かに任せるとかだろう、、いやいるのかな?)

ここでは、絵の話のときとは違い、料理を作る側と、作らない側というような簡単な二分法にはならなかった。(まぁ、僕が意図的にそう書いたので)
それは言ってしまえば、料理人というプロがいようがいまいが、自分が料理が上手かろうが下手だろうが、それは私が料理を作り続けることとは関係ないからである。食べることと生きることは直結しており、生きるには食べなくてはいけない。食べることは生という運動そのものである。

坂口恭平がすごいと思うのは料理すること、編み物をすること、描くこと、経済活動すること、薬をつくるなど、それらを生という運動レベル、食べて消化して排出することと同じようなレベルで捉え、実戦していることである。(と、わたしは思っている) ゆえに、できる/できない、プロか、上手か、確実か、科学的か、正しいか、リスクがないか?効果的か、成功するか、などが関係してこない。だって生という運動自体は評価されるようなものではなく、あるものである。
評価したり、条件を並べたりなど、相対的な判断をし続けることで、生という運動の力を萎えさせているのかも知れない。

坂口恭平っぽくいえば、
生という運動の力を萎えさせることをやってはいけない!そんなことしたら死んでしまう!逃げろ!
というような感じだろうか。いや、うろ覚えすぎて坂口恭平ぽいかわからんが。    

最後に、、               
そうは言っても医者にみせるみせないは、生死にかかわる事であり、料理をするなどとは違い、失敗は許されないと思うかも知れないし、医者に完全に任せるべきだというかも知れない。ただ生き延びるというなら、そうかも知れない。また、私自身実践できてるとは、とてもいえないので無責任なことは言いたくない。が、自身で自身を引きうければ、少なくとも風邪という事象を、機械が故障した、治った治らないというような簡易な捉え方はしなくなるだろうと思う。それらは刻々と変化するもの、流動的なものとしてある。野口晴哉は、風邪をただの状態異常としてでなく、偏った身体をリセットするもの、通過するもの、流れとして捉えていた。機械的な認識からはそういった身体観は生まれてこないだろう。

そうそう、坂口恭平にとっては畑がお医者さんみたいである。

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