散らかし適当あれこれ日記5

レモングラスの様子を見に庭にいった。
三ヶ月ほど前に購買し、基本的に放置していた。
葉は伸び、根っこが土の部分から上へとせりだしていた。
剪定し、他の大きな植木鉢にまるごとうつし土をくわえた。
レモングラスの張り巡らされた根っこに生命力のようなものを感じる。周りをアゲハチョウ、アリ、コオロギ、ハチ、クモ、達が自由に闊歩してる。
土に汗にまみれるのは楽しい。土により汚れたと思えてしまう最初の瞬間だけが嫌であるが。
作業中にやってきてはどこかにいってしまう虫達はかわいらしくもある。部屋でみかけれ追い出すか殺すかの対象になるが。
植物たちの存在も近いような濃くなるように感じる。
土に触れることは、自然に入っていくための儀式であり、また、
家に入り手を石鹸で洗う。これもまたひとつの儀式であるのだろう。

生をコントロール可能と捉えているか、コントロールを超えたところにあると捉えるかているかで、身体観は変わってくる。
前者では世の出来事は予測可能、説明可能であり、いかにコントロール不可能なことを可能にするかが大事になってくる。
物事をコントロールという名の管理下に置いていく。コントロールするものとされるもので成り立つ。
では後者は?
今言えるのは、知ることやわかることが、同時にわからなさに開かれていくこと。
全体に向かう(前者は部分に閉じていく。)
コントロールする自己から離れていく。

「風邪の効用」いう本がある。まだ読んでいない。目次に目を通した。
風邪は経過するもの、風邪の活用、体の自然の経過を乱さないこと、早く治るのがいいのではない、などなど、
風邪という運動を野口整体の知見から眺めると現代の感覚とはだいぶ捉え方が違うのがわかる。自然とのダイナミズムを感じる。

読みも書きも解像度が低いと感じる。抽象的な概念を使ったり書いたりしたくなるが、高揚はするが馴染みない。
自身の身体や経験から生まれでる言葉で語ること。書く以上に生活すること。が、同時に書くと生活するをわける必要もない。

書きえないものを単純化して、書いてしまうズルさ。複雑なものを複雑なままに。。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?